第34話 目標

 翌日。

 早朝に起きて、朱那と共にギャラリー『雨宮』を目指した。

 イーゼルなどの描画に必要な道具は用意してくれるとのことで、使い慣れた筆記具だけは持って行く。

 二人で駅まで歩き、がらがらの電車に乗って、都心駅に到着。そこから少し歩き、商店街の片隅にあるギャラリー『雨宮』に着いた。

 すると、先に水澄先生が来ていて、俺たちに軽く手を振った。


「あれ? 水澄先生は遅れて来るんじゃなかったんですか?」

「私もそのつもりだったんだけどね。ギャラリーのオーナーから、監督責任者として私が立ち会うことを要求されてしまったんだ。店員でもない私に任せるのもどうかと思うけど、一応旧知の仲だからね」

「ああ……そうでしたか。すみません。お手間を……」

「まぁいいさ。最初から最後までを見届けるのも一興だ。鍵も預かっているけど、入るのは美砂が来てからにしよう」


 まもなく、花染もやってくる。相変わらず女性的な服装で、男性と知らなければ美少女としか思わないだろう。


「よ。待たせて悪かったな。つっても、私だって遅れたわけじゃないが」

「おはようございます。俺たちもさっき来たばっかりです」

「デートの待ち合わせか。とにかく……今日は、全力で勝負させてもらう」


 花染が俺を睨む。その表情は、男性的、かな。そういうのを考えるのも、この人には無意味?


「……俺も、全力で描きます」


 視線を交わし合う俺と花染を見て、水澄先生がくつくつと笑う。


「いいねぇ。その少年漫画のようなノリ。私は好きだよ。早く来て良かった」


 水澄先生がギャラリー『雨宮』のシャッターを開ける。店内に入っていくので、俺たちも続いた。

 昨日は来なかった、三階の一室。窓はなく、広さは教室より少し狭いくらい。

 長机が三つ並び、棚には石膏像や美術関連書籍などが置かれ、壁には誰かの作品が展示されてもいる。展示されているものの中には、明らかに素人や子供の作品も置かれていて、絵画教室でも開いているかのよう。

 というか、普通に壁に『雨宮絵画教室』という張り紙もあった。三階では絵画教室を開いているようだ。

 雰囲気が、美術室に少し似ている。初めて来る場所でも、どこか心が落ち着いた。


「華月はこの椅子を使って座ってくれ。色葉、必要なもんを適当に見繕って好きなところ座れ」


 花染の指示で、朱那がモデルとして部屋の片隅に座り、その対面で俺たちが絵を描く準備を整える。俺は、朱那から向かって左側、花染は、右側。

 イーゼルを置き、画板と四つ切り画用紙を設置。手には鉛筆や練り消し等。


「今の時刻は七時ちょい過ぎ。制限時間は十時まで。モデルは……二十分ごとに休憩でいけるか?」

「はい。やります」

「プロじゃないし、途中から時間は短くしてもいい。ポーズはどうする? こっちから希望を出した方がいい? それとも華月が決める?」

「んー、正直、モデルも大変なんで、普通に座ってるだけでもいいですか?」

「ああ、それでも構わない」

「じゃ、そうします。あと、とりあえず脱ぎますね。下には水着を着てるので安心してください」


 朱那が特にためらいもなく衣服を脱ぎ去り、ビキニの赤い水着姿をさらす。ぐりんぐりん体を動かした後、姿勢を正して椅子に座った。

 事前に話は聞いていたが、朱那の肌を他の人に見せるのはあまり好ましくないとは感じてしまう。……俺も随分と朱那に惹かれてしまったものだ。

 朱那の全身を見て、花染がほぅっと溜息。


「……いいな。やっぱり、華月はとても綺麗だ」

「ありがとうございます」


 朱那がこちらを向く。俺に何かを期待している目。


「……朱那、綺麗だよ」

「えへへ」


 朱那が心底嬉しそうに微笑む。反則的で、胸がきゅっと縮まる思い。


「……ずるいな。そんな笑顔、誰かに向けられたことなんかないよ」


 酷く寂しそうな声で、花染がぼやいた。

 とても綺麗な顔をしているし、花染のような人を好きな人もたくさんいると思うのに……。意外だ。


「まぁいい。描くのは華月のデッサンでいいな? 始めるぞ」


 花染の合図で、俺は朱那の絵を描き始める。


「……何度見ても、美しい人だ」


 朱那を見つめていると、気分が高揚する。

 そのくせ、どこかとても冷めた部分がある。

 自分の中で相反する感覚が入り交じり、不思議な快感をもたらしている。

 調子は、いい。今日は、とても良い絵が描けそうだ。


 ……そして。

 集中して絵を描き続けること、一時間半程。半分が経過したところで、ストレッチをしながら朱那が花染に話しかける。


「花染さん、ちょっと訊いてもいいですか?」

「何?」

「花染さんは、どうして絵を描いているんですか? 何か目標でも?」

「私の当面の目標は、自分の絵を一億円で売ることだよ」

「一億円で売る……? へぇ、お金儲けのために絵を描いているんですか?」

「いや。お金も欲しいとは思うけど、そうじゃない。一億円の価値が付くような絵を描きたい、っていうこと」

「ああ、なるほど」

「億単位の値が付く絵画には、美しさや技術とはもっと別の付加価値が必要だ。現代アートとしての価値だったり、新規性だったり、メッセージ性だったり、色々な歴史が関わっていたり。

 そういうのを、絵に限らず、一つの作品に込められるようになればいいと思ってる」

「ふぅん……。じゃあ、もしかして、花染さん自身、こういうメッセージを込めたい、こういう作品を作りたい、とかはないんですか?」

「……そういうのも、なくはない。私はまぁ……見ての通り、こういう奴だから、LGBTQ系の作品を描くのもいいんだろう。他にも、色々と抱えてきた想いもある。


 ただ……せっかくアートは自由なのに、個人的に抱えてきた不満や葛藤ばかりに目を向けるのは、違うような気もしてる。


 強いて言えば、自分がまだ、意識的にでも、無意識にでも、持ってしまっている自分の枠を越えた作品を描きたい。


 ま、そういう気持ちはあっても、具体的なイメージはいまいちないんだけどさ」

「そうでしたか……。その一貫で、わたしを描きたいと思ったんですか?」

「そうだな。なんでだろう……とても不思議な感覚。

 華月には、直感的に、他の誰にもない光を感じた。ただ容姿が優れているっていうだけじゃない。圧倒的なエネルギー……力の奔流……なんだろう。とにかく、そういう何か」

「そういうの、一目見ただけで感じ取れるものですか?」

「さぁね。いつでもこんなことを感じるわけじゃない。ただ、華月が特別だった」

「なるほどなるほど……。まぁ、わたしに何を感じたかはわかりませんけど、とにかく、花染さんも自分の行くべき道を探している最中なんですね」

「それはそうだ。今もそうだし、きっと一生そうだ。アーティストは、皆そうだろう。自分はこういうものだって決め込んだ瞬間、そいつは進化をやめて退化していく。

 アーティストは、いつだって変化や進化を求め続ける生き物。自分で自分を追いつめて、ああでもない、こうでもない、と悩み続ける。

 その苦悩の先に、一際輝く作品が生まれる。私は、そう思っているよ」

「……ありがとうございます。よいお話を聞けました」


 ふむふむ、と朱那は納得顔。

 ただ、逆に花染が朱那に尋ねる。


「華月は、世界一有名なヌードモデルになりたいんだっけ?」

「はい。そうです」

「それは、どうして?」

「うーん、突き詰めると、承認欲求でしょうか? わたし、ナルシストなんで、自分が世界で一番可愛くて綺麗だって、世界中に認めさせたいんです」

「……それはまた、壮大なナルシストだな」

「はい。それはもう、怪物級です」

「そうか……。華月が持つ光の一端を、垣間見た気がする。いいね、その自信。日本人ではなかなか持ち得ない強さだ」

「お、花染さんも、こんなわたしを否定しないんですね?」

「否定なんてするもんか。私の最終目標は、生きている間に、史上最高額で自分の絵を売ることだ。つまりは、だいたい五百十億円以上の値段。こんな私が、華月を否定すると思うか?」

「……いえ。しませんね」

「そういうこと」


 朱那の目標も結構無茶だけれど、花染の目標も相当だな。

 俺みたいに、ただ好きなように描いているだけの者からすると、意識の違いを突きつけられる。


「悠飛」

「あ、うん? 何?」


 突然朱那に名前を呼ばれて、変にドキリとしてしまう。


「花染さんが史上最高額を目指すなら、わたしたちも目指さなきゃね!」

「え? そうなのか?」

「当然じゃない! 史上最高額でわたしをモデルにした絵が売れれば、世界一有名なヌードモデルっていう目標も達成できるはず! 悠飛、花染さんに負けちゃダメだからね!」

「まぁ……うん。アートは勝ち負けじゃないと思うけど……」

「ま、そうだけどね。でも、闘争心ってやっぱり大事。始めっからオンリーワンなんて目指してちゃダメ。本当に価値のあるオンリーワンは、ナンバーワンの先にあるの!」

「……かもな」

「もー、悠飛は相変わらず緩いなぁ。意識改革にはもう少し時間が必要ね」


 さて、本当に俺の意識が改革される日が来るだろうか?


「……そろそろ、後半始めるぞ。いいか?」

「はーい、大丈夫です」


 朱那が椅子に座り、動かなくなる。

 すんとした顔。だけど、ただ座っているだけで、後光でも差しているかのように感じられる。描きたい気持ちが、ふつふつと沸いてくる。

 あともう少し、集中していこうか。

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