第40話 復興と亡霊の影

 いつの間に眠ってしまったのだろう。雉女は、板戸の隙間から差し込む強い日差しで目覚めた。身体が傷むのは激流にもまれたからか、睡眠不足のためか……。


 サトには寝ているように言われたが、「川筋が変わっちまった」という外の声が気になって表に出た。


 高台に集まった百姓たちが朝日を反射する東の土地を見つめている。雉女は彼らに割り込んで景色に眼をやった。


 平地は一面水の底で、そのなかに波を立て、渦を巻く場所があった。そこが新しい川筋なのだ。五十辺集落の者たちが耕作していた田畑の東端を川の底にしたかたちだ。


「ワシの田んぼが川の底になっちまった」「ワシの畑もなくなった」


 男たちが嘆いた。


 私の家は川の向こうか……。雉女はその事実を静かに受け止めた。人の悪業には「なぜ」「なぜ」と心を狂わせられるが、神の所業には抗いようにない。


 佐原平祐の首塚も消えているだろう。太郎に何と言って伝えよう。言葉が見当たらなかった。


 その日から、村人総出の復興事業が始まった。雉女は百姓たちと泥の中に立ち、一緒に瓦礫を運んだ。


 田畑を失った百姓がいるように、親を失った子供も多かった。多くの孤児は親戚に引き取られたが、親戚さえない子供がいた。男児は労働力として農家に引き取られたが、女児は残った。そうした3人の女児を雉女は引き取った。彼女らを傀儡女として良いものか迷ったが、それは後から考えることにした。


 数カ月後、田畑の一部が使えるようになった。雉女は人々の力を借り、巨石を土手に据えて水天神を祀った。峰越山で修業する修験者に水干と太刀を借りて踊りも捧げた。そうして鎮められた逢隈川は、その後、雉女が死ぬまで流れを変えなかった。


 雉女は五十辺の男たちの力を借りて逢隈川の東側に掘立小屋を建てた。土間に蓆を敷いただけの粗末なものだ。集落に行くには流れを渡らなければならないので不便だが、それは自然との付き合い方そのものだと受け入れた。


 雉女の小屋ができるより早く太郎の折れた骨は繫がったが、治ったとは言い難かった。腕が少しばかりねじ曲がり、思うように力が入らない。とても刀や弓矢を使える状態ではなかった。


「俺は武士ではなくなってしまった……」


 新しい家に越した後も、太郎は曲がった腕を抱えて嘆いた。


「人を殺さなくてよくなったのです。そのことを喜びましょう」


 雉女は、太郎も自分も置かれた現状と上手く付き合っていくしかないと考えていた。それが幸せへの近道だ。


「鋤や鍬さえ、まともに扱えないんだ」


「畑が耕せなかったら、魚を釣ればよいではありませんか。魚の住む流れは目の前です」


「釣りなどで生きていけると思うのか? 鯉や鯰を釣ったところで、雉女殿もサトも養えない。子供が3人も増えたというのに……」


 武士の家に生まれた太郎にとって、家族を養えないことが苦しみの源のようだった。


「私たちのことは心配いりません。皆で仕事を分け合って生きていけばいいのです。私はこの身体がある限り子供らを養えます。ほら、あの通り」


 雉女の指す先には馬上の武士がいた。初めて見る顔だった。


「ここには血の気の多い坂東武者がやってきます。私が働く場所を守るのも、太郎さまの仕事です」


「何を言うのですか? 俺は刀も槍も握れない。雉女殿を守れるはずがない」


「そこにいるだけで良いのです。人を律するのは己の内なる眼差し。他人の眼差しがそれを開かせます。太郎さまが真直ぐなまなこで見守るだけで、彼らも……」近づく馬上の武士に頭を下げる。「……無茶はしないでしょう。それが人が人としてあることわりだと、私はこの5年で知りました」


 2人が話している間に、武士は目の前にやってきて馬を下りた。


「そなたが雉女殿だな。今般、北の館に越してきた。桑折こおり直綱なおつなである。世話になりたいが、よいか?」


 彼は胸を反らし、偉そうに言った。


「お初にお目にかかります。どうぞ、こちらに」


「うむ……」少しばかり緊張した面持ちの直綱が、太郎に手綱を渡して雉女の後に続いた。


 馬のくつわを庭の杭に繋いだ太郎は、小屋の前に腰を下ろして門番をする。雉女を求める乱暴者はもとより、子供たちが男女の営みの最中に小屋に飛び込むのを防ぐためだ。


「なんとも、粗末な小屋だな」


 そういって直綱が草履を脱いだ。夜具以外に家具らしい物はない。小さな紙人形が柱に張られていた。


「ご存知の通り、春の洪水ですべて流されたものですから……。とはいえ、傀儡子の布の小屋よりはマシでございます」


「そうか……。ならば、ワシがもっと良い家を建ててやろう。その代りに雉女殿……、ワシの子を産め」


 たとえ武士とはいえ、無茶な要求だった。雉女は小首を傾げて見せる。


「桑折さまには女房殿がおられませんので?」


「おる。だが、ワシの女房は関東の者で、どうも田舎者臭くてかなわないのだ」


「おや、私のような東夷では、尚更、田舎臭いでしょうに」


 雉女はオホホと笑いながら直綱の帯を解いた。


「何を言う。雉女は鎌倉殿の寵愛を受けたではないか。元は京女だと噂に聞いている。何が田舎臭いだ」


「鎌倉さまの寵愛などと……。そんな噂話を信じておられるのですか?」


「噂話なものか。ワシの顔をよく見ろ」


 直綱が真顔をつくって雉女の前に突きだした。


「はて……」雉女は再び小首を傾げた。記憶にない顔だ。


「全く情けない。あまたの男と寝るから、ワシの顔を忘れたのだ。……文治5年8月、峰越山でのことだ。ワシに鎌倉殿の笏を見せたでないか。ほれ、〝祈奥州追討〟と書かれた笏だ」


 雉女は改めて直綱の顔に眼をやり、眉の上にある赤い痣を見て思い出した。奥州合戦の直後、産婆のお玉を殺して孫娘を犯していた男だった。


「まあ、村の娘たちの尻を追いかけ回していた山賊さまでしたか」


 軽蔑を冗談で隠すと、「馬鹿者」と彼が笑った。


「あの時はワシも驚いて尻をまくったが、こうして雉女殿と縁ができたからには鎌倉殿とは兄弟のようなもの。子供をもうけて自慢したいと思うのだ」


「桑折さま、お止めなさいませ。赤子は天からの授かりもの。競い合って得るものではありません。鎌倉さまと肩を並べるために子供をもうけたなどとあの方のお耳に入ったら、首をねられましょう。鎌倉さまはかたいお方ですから」


 頼朝と対等であろうとして殺された義経を思いながら、雉女は直綱の帯を解いた。瓜のような男根が揺れていた。


「ほれほれ、やはり鎌倉殿のことをよく知っている」


「私は傀儡女。生きる糧をいただけるのであれば、鎌倉さまであろうと道端の骸とであろうとねやを共にいたします」


 直綱の隣に身を横たえ、恨めしそうな顔をして逢隈川に沈んでいった骸を思い出していた。


「なるほど。源氏の棟梁を説得するだけあって強い女だ」


 彼が雉女に圧し掛かる。ぬらりとした舌が雉女の唇を割り、彼の瓜が石のように固さを増す。


 色ごとで気持ちが昂ると、雉女の脳裏に眼球のえぐれた頭蓋骨が映った。それはあの時と違って陸に上がり、雉女の肩に腕を回した。ぬめる氷のように冷たい腕だった。雉女は恐怖のあまりに震えた。――骸とでも添い遂げると言ったのは口先だけか……。骸の声がしたかと思うと、異物がぬるりと侵入してくる。


「あ、あぁ……」作り物ではない喘ぎ声が漏れた。


 骸と交わる時間は、現実のそれとは違って流れているようだった。景色は消えていて、そこには骸と雉女の姿しかない。周囲は無限の暗黒だ。


 骸は執拗に雉女を犯し続けた。夜も朝も夕も……。この世から黄泉の世界に向かって人が歳を重ね、その身がちていくのとは逆に、骸は肉を取り戻し、眼球を取り戻し、髪を取り戻した。


 ――久しぶりだな――


 生前の姿を取り戻した男が優しく微笑んだ。


 ――勝蔵さま――


 再会の喜びに涙が頰を濡らす。


「おいおい、雉女殿。何を泣く? そんなに気持ちがいいのか? ワシが愛しいか?」


 暗黒の果てで直綱の声がした。

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