6章 再生 ――魂――

第39話 亡霊

 奥州合戦の後、信夫庄は伊達だて氏が治めた。庶民は彼らの統治に粛々と従った。雉女も同じだ。以前のように春を売る暮らしに戻った。太郎は畑を耕し、いつか頼朝を討ち果たすために、密かに弓や剣術の鍛練に努めた。


 その年は吾妻連峰に降った雪が多く、春、信夫庄に流れ込む雪解け水が増えた。おまけに梅雨は長雨に祟られた。逢隈川の水かさが増えたことに不安を覚えた雉女は、サトと子供たちを高台にあるサトの実家に預けた。


 翌日のことだ。流れが低い土手を越えた。生憎、雉女の家には客がいて、彼を逃がすだけで精一杯だった。自分たちが逃げようとした時には家が倒壊し、雉女と太郎は濁流にのまれた。


 ――グルグルグル――、雉女は濁流の中で回転した。身体のあちらこちらに瓦礫がぶつかったが痛みを感じることはなかった。ただ息をつきたい、空気が欲しい、ともがいた。


 かろうじて流れから頭を持ち上げた雉女は、目の前を流れる材木につかまった。それは雉女の家の柱だったかもしれない。はりだったかもしれない。


 太郎の姿を捜したが、周囲にあるのは水と流木ばかりで見つからなかった。


 岸が十数メートル先に見える。太郎はそこに上がったのかもしれない、と自分に言い聞かせた。彼女もその岸を目指して足をばたつかせたが、流れが強くて近づけなかった。体力を温存するために手足を動かすのを止め、百太夫に祈って耐えることにした。


 どれだけの時間、どれだけの距離を流されただろう。腕が痺れ、材木に摑まる体力も気力も失った。もうだめだ……、と諦めに囚われた時、雉女のふくらはぎを摑んで水中にひきずりこもうとする者がいる。死神だ……、そう思った。


 一度は諦めたはずなのに、死神を意識した途端に力が湧いて、腕は材木を強く握り、足をばたつかせることができた。


 しかし、死神は足をしっかりと握って離さなかった。結局、力尽き、もぎ取られるように材木が手から離れた。


 川底まで引きずりこまれた雉女は、生を求めて水をかき、夢中で川底の泥をつかんだ。刹那、ゴボッと水を飲んで意識が途絶えた。


 ――生きている……。雉女は、ぼんやりと光を感じた。


 雲間から漏れる一筋の夕日が、彼女を照らしていた。間近に黒い流れがあって、まだ、爪先は水に浸っていた。突然、胸の中から何かが突き上げて、ゲホッと大量の泥水を吐いた。


 生きている。……吐きながら考えた。川底を引きずられた後、土手に打ち上げられたのに違いない、と。


 胸の痛みと胃のむかつきが治まらない。咳は止まらず、その合間に胃液を吐いた。


 あれは何だったのだろう?……吐くものがなくなってから考えた。まとわりついた死神を思い出し、握られていた右足に眼を向けた。


 瞳に映ったのは、足首を握る人間の腕だった。既に腐敗し、灰色の骨が露出している。その先には原形をとどめない布をまとった身体らしきものがあった。髪のない頭蓋骨は地面を向いている。


「ヒッ……」


 思わず左足で蹴って流れに押しやった。骸は、眼球のない眼を恨めしそうに雉女に向けて逢隈川の水底に消えた。


 地獄の亡者が黄泉の国に連れて行こうとしていたのだ。そう思うと息はひどく乱れ、ゼイゼイ音が鳴った。


 手のひらで胸を押さえて息を整える。落ち着くと別の自分が言った。


 ――あれは勝蔵さまよ、と……。


 勝蔵が埋められた堤も決壊し、身体が出てきたのに違いない。それがまとわりついて本流から引き離し、岸辺に押し上げてくれたのではないか?


 確かめなければならないと思った。しかし、立ち上がろうとしても足に力が入らない。って川べりに身を乗り出した。目に映るのは渦巻く黒い流ればかり……。人、牛、犬、樹木……、ありとあらゆるものが流れ、そして水中に没していく。


「逢隈川が命をのみこんでいる」


 勝蔵のことも忘れ、ただ、全身を震わせて泣いた。


 地獄のような景色も、陽がとっぷりと沈むと見えなくなった。雉女は泣く力さえなくして一個の肉塊と化した。


 ――雉女、子供たちが待っているぞ――


 どこからともなく声がした。勝蔵の声か、あるいは勝之介の声か……。頭を起こし、周囲に目を配る。が、木立の影と逢隈川が暴れる音以外に感覚を刺激するものはなかった。


 ふと、雲間に浮かぶ赤い月に気づいた。満月でも半月でもないそれはとても歪んでいて岑越山の影と繋がって見えた。


 あそこに命がある。……一度は絶望にのまれて泣くことも諦めた雉女が、よろよろと立った。流れに背を向け、岑越山を目指して一歩、そしてまた一歩と足を進めた。


 泥の中を彷徨うのは雉女だけではなかった。あちらこちらに泥にまみれた人間がうごめいていて、家族や生きるすべを探していた。


 サトの実家にたどり着いたのは深夜のことで、月は沈みかけていた。ドンドンと板戸を叩いてサトを呼ぶと、それはゴトゴトと開いた。


「雉女さん、無事だったのですね」


 2人は抱き合って泣いた。


「子供たちは無事です。太郎さまは……」


 サトが声を詰まらせた。


「来ていないのかい?」


 まさか、溺れ死んだのでは?……言葉をのんだ。


「来ました。でも、大怪我をしています」


 太郎は、藁床の中でウンウン唸りながら痛みと戦っていた。濁流にのまれた彼は、何かに激突して腕を折ったらしい。傷口からばい菌が入ったのか、高熱が出ていた。


「太郎さま。しっかりしてください」


 声をかけると、太郎が唇の端を歪めた。笑って安心させようとしたのだろう。雉女とサトは、交代で看病しながら夜を明かした。

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