第27話 西行法師

 雉女は、「出かける」と短く告げて背中を見せた勝蔵を思いながら、まんじりともせず朝を迎えた。夜中から降り始めた小雨は世界を湿っぽくしていて、伏拝峠から見渡した洪水の景色を思い出させた。


 勝蔵さまが濡れていなければよいが……。彼の無事を願い、百太夫に手を合わせた。


 雨のために興業ができなかった。傀儡子たちは温泉に入って時間をつぶした。傀儡女の元にはいくらかの武士が訪ねて来たが、水害の復旧工事もあり、その人数は片手に足りない。


 勝蔵のことが案じられて客を取る気になれない雉女は、すやすや眠る龍蔵を抱いて白女の小屋を訪ねた。


「勝蔵さまがまだ戻りません。どこまで行ってしまったのでしょう?」


 白女は呆れた、というように首を振った。


「たった一日じゃないか。この前だって、木の上で寝たと言って笑っていたのだろう? 心配するんじゃないよ。心配し過ぎると、男は離れてしまうからね」


「でも、出かけるたびに野宿をするものでしょうか?」


「勝蔵なら熊にだって負けないからね。もうじき帰って来るさ」


 その言葉に上州の冬を思い出す。確かに勝蔵なら熊にも狼にも負けないだろう。しかしここは東夷の国。想像もつかない化け物がいるかもしれない。お守り代わりに鈴を持たせてみたものの、安心はできなかった。


 ――ン、ン……、アァーン……。隣のフジの小屋から艶めかしい喘ぎ声がする。


「気持ちよさそう。いい声です」


 雉女が感心すると、「あれは演技だよ」と白女がささやいた。


「安積でのことといい、フジさんは武士に好かれますね」


「そうさねぇ。でも、あれはろくでもない武士だよ。国のことを真剣に考える武士は、切れた道や堤の工事に出かけているようだからね」


 フジの小屋に眼をやった白女が鼻の先で笑った。


「雉女、心配していても仕方がないよ。男ときたら、一週間も帰ってこないことさえある。のんびり温泉に浸かって待てばいい。龍蔵はワシがみているから、行っておいで」


 白女の申し出に甘え、龍蔵を預けて小屋を出た。


 湯だまりには数人の傀儡子がいて、小雨に濡れながら今様を謡っていた。


「よう、雉女。こっちに来い!」


 手を挙げたのは伊之介だった。隣には西行と思しきあの老人がいた。


「この坊様、面白いぞ」


 伊之介がそんな風にいうので注意する。


「お坊さまに向かって、失礼ですよ」


「よいよい、若者は失礼なものや」


 老人はニコニコと笑っている。雉女は伊之介の無礼を詫びてから、彼の隣で湯に浸かった。


「それで、何が面白いのです?」


「骨になった人間を生き返らせたらしい」


「えっ、まさか……」


「そのまさかだからスゴイだろ」


草木国土悉皆成仏そうもくこくどしっかいじょうぶつ……、全てのものに命があり、全てのものに仏が宿っている。土塊つちくれや死体であっても仏に見放されることはないのや。仏の力を借りれば骨とて生き返る」


 老人は伊之介に話したことを雉女にも教えた。


「なっ、面白いだろう」


 伊之介は無邪気に笑ったが、雉女は気持ちが引き締まる思いだった。骨を生き返らせたと聞き、もはや西行に間違いないと思った。


「西行法師さまなのですね?」


「そやで」


 彼は隠さず軽く応じた。


 驚いたのは同じ湯につかる傀儡子たちだった。親しく話していた老人が、動向を探っていた西行法師その人だったからだ。


「西行さまが、どうして奥州などに?」


 雉女は訊いた。


「東大寺再建の勧進や。藤原秀衡殿に銭の無心に行くのや。いま、日本で一番金持ちなのは奥州の藤原さんやからなぁ。しっかし、七十にもなると旅は辛い。だからこうして湯に浸かりながら、ゆぅるゆぅると歩いておる」


「湯だから湯る湯るかぁ。できるな、西行さん」


 伊之介が駄洒落だじゃれに喜ぶと、西行は「そや、そや」と笑った。それから彼は、傀儡子たちが旅の話を面白おかしくするのを、「ほう、ほう」と相槌を打ちながら聞いていた。


「ムッ……」突然、真顔になった彼が雉女に向いた。「……女御は、彼等と旅をして救われたのか?」


「嫌なこともたくさんありましたが、今は幸せです」


 前に会った時も同じことを訊かれたが……。そう思いながら幸せだと応えると、西行は「そうか……」と言って東の空に眼をやって黙った。


「西行さん、どうして難しい顔をする」


 伊之介が訊くと、西行は「待て」と制した。東の空から視線を動かさない。


「何があるというのだ。ワシには雲しか見えないが……」


 伊之介が目を細めた。雉女にも雲以外のものは見えない。周囲にいた傀儡子たちも東の空に眼をやった。


「あぁ……、魂が一つ天に上った。あれは我が子か、あれは我が妻かと泣いている……」


 西行の目尻から涙が一筋流れた。


 ――ザザザ……。突然吹いた西風が木々を揺らし雲を追いやる。小雨が上がり、青空がのぞいた。西行が見つめる先に岑越山が現れる。降りそそぐ陽射しが山の新緑を輝かせた。


「この土地では、あれが羽山。そこから死者の魂が空に昇るそうや」


 湯で涙を洗った西行が東の空を指していた。


「それでかぁ……」伊之介が声を上げた。「……一昨日、あの山に登った。烏が多く、腐臭がひどかった」


 東日本には仏教が伝わる以前から羽山信仰があって、死体をそこに葬ると魂が天国に登ると考えられていた。


「なに、なに。何の話?」


 後からやって来た早乙女とフジが前も隠さずドボンと湯に入る。生じた波紋に押されるように、西行がそろりと立ち上がった。


「あかずして 別れし人のすむ里は……」


 和歌を詠みながら、湯から出た。


「西行さま、どういう意味ですか?」


 その和歌が気になって彼を追った。


「ワシにもわからん。今、空に昇った魂が詠うのや」


「西行さまの魂が空を飛ぶのですか?」


「ワシの魂は、まだここにある」


 西行が自分の胸をトンとたたいて身体を拭いた。


「では、誰の魂でしょう?」


「ワシにはわかるのや。命を失った魂の嘆きや悲しみ、喜びが……。今、羽山から昇った魂は悔いを抱え、泥にまみれた信夫庄を見下ろしておった」


 皺の多い顔が苦悶に歪んでいた。死者を憐れむというより、皺の一本一本に幾多の痛みや苦悩を刻み込んだような顔だった。


「濁流にのまれて亡くなった人の魂ですか?」


「それはないやろ。川があふれたのは、ずっと前のことや」


「名前を聞くことはできないのですか?」


「出来んことはない。若いころはそうしたものや。しかし、そんなことをしたところで死者の無念を増大させるだけやった。乱れたこの世に不幸な死者は多く、ワシにできることはとても少ない」


 話しながら、2人は身づくろいを済ませた。


「私の小屋においで願えませんか? 死者は慰められませんが、西行さまなら……」


「ワシを慰めるというのか?」


 西行の顔から行く筋かの皺が消えた。


「できることなら……」


「さて……」少し考えた西行が、「行こう」とうなずいた。


 雉女は西行を小屋に招き入れて出入り口の布をおろす。そうしてから常に備えてある酒を出した。


「この世の荒廃はいかばかり……。自然も人の心も荒れほうだいや。……のう?」


 西行は語るだけで酒には手を着けなかった。


「では……」と雉女は毛皮の床を敷き、裸になると西行の手を引いた。


 横になった西行は、旅慣れた足を雉女の足に絡ませる。そうして「ぬくい」と眼を細めた。そうしただけで、雉女の身体に手を触れることはなかった。


「私の中に赤子がいるからですか?」


 西行が自分を求めない理由を訊いた。


「いや。ワシは、もう男ではないのや」


「では、どうしてここに来られたのです?」


「決まっておろう。お前に誘われたからや。ひとりでいるのが不安なのやろう? ワシを慰めるというのは、女御自身、己の心の痛みを取り除きたかったからにすぎないのよ」


 心の内を見透かされていた。が、驚くことはなかった。西行法師ならば、自分の気持ちなど手に取るようにわかって当たり前だろう。


「人の中には仏がおる。お前の中にもや。だから寂しがることはないのや。己の中の仏と語らい、頼ればよい」


「私の中の仏ですか……」


 雉女は探した。自分の中の仏を……。そうして思い浮かぶのは、無愛想な勝蔵の姿だった。


「見つかったか?」


「いいえ」


 首を振り、西行に腕を回す。そうすることで男の姿しか思い浮かべられない未熟な自分を誤魔化した。自分の仕事は、男である西行を満足させることなのだ、と開き直った。


「あっ……」


「どうした?」


「仏がみつかりました」


 もう男ではないと言っていた西行の男根が、雉女の手の中で硬くなっていた。


「なるほど。……草木国土悉皆成仏、そこにも仏性が宿っておるのかもしれないのう」


 西行がはにかむ。


「私は、この仏を信仰してまいります」


 彼の股間に置いた手に力を込める。


「百太夫はどうする。傀儡子は百太夫を信仰しているはずや」


 言われて思い出し、小屋の片隅に座る百太夫人形に眼をやった。


「女御は、本当に傀儡女か?」


「はい。傀儡女にされたのは昨年十月です」


「十一月、十二月……」西行が指折り数える。「……まだ七カ月そこそこの新米ということか……」


「修行の身でございます」


 雉女は冗談を言って西行に跨った。


「こうして、己の中の仏と語り合います」


「そやなぁ、それが良いかもしれん。……しっかし、ワシは女戒にょかいという禁を犯した。また仏の世界が遠のいた」


 嘆きながらも微笑した。


「西行さまは、こうして私を救ってくださっているのです」


「ものは言いようやのう。しかし、そうして救われる魂があるのなら、そうしてみることが良い時もある」


 言われるまま、西行に身も心も預けると、他の男からは得られない心地よさを覚えた。


「生と死は表裏一体、形ある物はいずれ壊れる」


「壊れたら、直せばよいのでは?」


「いやいや……。ワシは一度壊れたものを集めて直してみたが、人為で作るものなど所詮偽物。神仏がこの世に創造したものとは全く違っておった。一度死んだものに、本来の命はなかった」


「……反魂の法のことでしょうか?」


「京にいたと言っていたが……。湯で話した通りや。ワシは亡くなった友が懐かしく、その骨を集めて人型を作った。それは確かに友の形をなして生き返ったが、ワシの友とは全く異なる命やった。甦る命が言葉を持たない花ならば、傷つくこともなかったのだろうが……」


「本当に生き返すことができるのですか?」


「ワシの言葉、疑うか?」


「いえ……、あのう……。申し訳ありません」


 雉女は困惑し、西行に跨ったまま詫びた。


「よいよい。ワシが噓をついていない証拠など、どこにもない。人の知ることは少ないのや。そやから自分が真実だと信じていることさえ、真実ではないことがある。それはワシとて同じことや。女御殿も己の目で見、己の耳で聞き、己の頭で考えて真理にたどり着くしかない。それが出来る女御や。のう……」


 西行は目尻を下げ、更に説く。


「……反魂を行い友を生き返らせてみて、ようやくワシも学んだ。死んだ者を懐かしみ迷わせてはならんのや。亡くなった者を引き戻すことより、新たな存在ものを生み育てることが肝要や。そこに真の魂が宿る」


「はい。ですからこうして……」


 雉女は膨らんだ腹を西行に押し付けた。


「そうか。それも良い。……誰のものでも良いのや。命を繋げ。それが女御がこの世で生きた証、仏への供養となる」


 老齢のためか、西行は容易に精を放たなかった。長く、長く雉女の中にとどまった。雉女は勝蔵を思って西行に尽くした。すると西行と勝蔵の声とが重なって聞こえた。西行の顔まで勝蔵に変わって見えた。――俺はいつもお前の中にいる。雉女が他の男といる時もだ……。目の前の勝蔵が話した。身体の内側にある存在も勝蔵のそれと同じように動いた。


「勝蔵さま……」


 雉女は勝蔵の姿をしっかりと見ていた。その温もりをしっかりと感じていた。刹那、体内に脈動を感じた。


 見えない奔流が女そのものを刺激する。「アッ……」自分の中で小さな宇宙が生まれたような衝撃に打たれた。


 ――キジメ、キジメ――


 暗闇の中で声がする。


 雉女は我に返った。頭の中がぼんやりしていた。


「雉女……。起きないか、夕餉の時刻だよ」


 意識を失っていたらしい。隣に西行の姿はなく、百太夫人形の前に宋銭が置かれていた。


「あんなに、はっきりと感じていたのに……」


「何があったんだい?」


「勝蔵さんに抱かれた夢を見ていたのです」


「そうかい。早く帰るといいね」


 白女が眼だけで笑って背中を向けた。

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