第5話   守る傘 壊す傘

愛しあった記憶はないが、男の市場価値を嫌と言うほど値踏みすることにより、自身の市場価値を知ることになるきっかけを作った隆が、今、目の前に大人しく鎮座している。

「亮太の担任が本間あかりと聞いて、こんなことがあるのかと思いました。妻に、通知表渡しは僕が行くと言い、今日来ました。」

 私はやはり、と思った。隆は分かっていて、ここに来たのだった。そして気付かせるためにあえてタイミングを見計らい、眼鏡や帽子、マスクを取り、顔を見せたのだ。

「養子に入られたのですか?」

「はい。あかりさんと別れた後、職場の上司の紹介で出会いました。相手はシングルマザーでした。向こうの親は一人娘だったこともあり、養子を望みました。僕の親は子持ちなのに、養子を要求してくるなんて、おかしい!と怒りましたが、僕はどうしても親の傘から出たかった。だから、吉野の家に入ることを僕が決めました。あの時僕は、どうしても自分の傘を手に入れたかったのです。あかりさんには自棄になったように見えるかもしれない。けれど、僕は結婚したかったのです。家族を持ちたかった。自分で傘を差したかったのです。」

そう言うと、隆は亮太の通知表を静かに閉じた。

 四年前の隆の焦燥感は異常だった。親の傘下から独立したいという一心で、私と離れた後、彼は養子縁組までして彼は結婚した。

 確かに彼は家族を持つことができた。子に多少の障害があっても、彼は念願だった夫や父親になることはできた。

「あの土地に家を建てたのですか?」

 私は聞かなくていいことまで聞いてしまった。でもあの私に提示してきた広大な土地が気になって仕方なかった。あの土地に家を建てたのかと思ったが、隆の返答は違っていた。

「家は妻の親のものです。養子縁組をしたので妻の親が家をくれました。あかりさんにお見せした、あの土地はもらっていません。親の意思に背いて、僕は養子縁組を選択したのでもらう権利はないです。」

 財産を放棄し、親に背いた隆。そこまでシングルマザーと障害児を、心から愛したのか。

隆は私にしていたみたいに、この母子に異常なくらいに気を遣い、日々を暮らしているのだろうか。隆は幸せになったのだろうか。

 喉に小骨を突き刺したまま、私は隆を職員玄関まで見送った。外は土砂降りだった。


二人は似たような親の元に生まれた。

 親のことを毒親と毛嫌いしながらも、親の広げた頑丈な傘から出られず、ついには脳髄まで洗脳され、人を愛するスキルも枯渇した女性と、結婚、家族、親離れを手に入れるため、他人から見たらリスクとも取れるような条件を飲み、命がけで親の傘から脱出し、弱々しいが自分の傘を手に入れた男がそこにいた。

「もしあの時、あかりさんと強引に結婚までこぎつけていたら、と考えなくはありません。しかし、これが私に用意されていた、幸せの傘だったのか、と思うようにしています。」

 自身が製造行程に携わったわけでもないのに、今後とも息子をよろしくお願いします、と丁寧に頭を下げ、隆は土砂降り雨の中に消えて行った。彼の広げた傘は出会った日とは違うビニール傘だった。


 職員室に戻った時は十九時を回っていた。まだ残っていた管理職に、来校した父親に息子の状況を伝えたこと、父親からは家庭内でも指導することをお願いしたこと、また謝罪も頂いたと、話をでっちあげて報告した。

「遅くまでご苦労さん。明日は休日だから、ゆっくり休まんか。」

「はい。ありがとうございます。」

 自席に戻り、月末に提出する出勤簿の整理をし、帰り支度をしながら、私は軽くイラつきを覚えていた。

隆と再会を果たした時、一瞬、彼の方から未練の告白があるという直感が働いたことを私自身、見逃さなかった。しかしながら彼は未練など一切舌に乗せず、自ら幸せの傘だと言い切り、脆いビニール傘を堂々と広げ、スコールの中に消えていった。

あれが強がりには聞こえなかった。本気でそう思っている声色を発していた。

 出会った頃から、どこかで私は彼を民度の低い人、と見下しているようなところがあった。そのように彼を査定することで、私は自己陶酔を引き起こし、自慰行為に没頭しているようなところがあったことは否めない。逆にこの行為ができるような男だったから、二年ももったのかもしれない。


 四年の時間を得て、私はたった今、隆に正式に振られたのだ。


 その実感が全身に走った時、ふと笑いが込み上げてきた。

 愚かで無様で、人を愛する資格を一切持たない女。このような女に仕上げたのは、言うまでもなく、私自身である。私自身の思考が、持って生まれた女の喜びの部分を、徐々に腐らせてしまったのだ。

鞄を閉じ、顔を上げたとき、真田が席までやってきた。労働意欲のない真田がどのように時間を潰していたのかよりも、何とか今夜、物にしたいという意思を目に見える形で表現してくる点に、些か驚いてしまった。

「もう帰るやろ。雨酷いし、駅まで送っていくわ。俺もちょうど帰るところやし。」

 遠くから管理職が真田の顔を見ている。送り狼に変身する生臭い腐敗臭をかぎ取ったのだろう。


 外は十二月の大雨で、一層寒影を強めていた。

 予想通り、真田は端から傘を差し出したり、車を回したりしてくる分かりやすい優しさを持ち合わせていなかった。職員玄関を出て私は、土砂降りの中を走り、真田の車の助手席に身を沈めた。 

ハンドタオルで滴を拭いていた時、真田の手が右腿に触れてきた。そしてリズミカルな運動を交えながら、指先でこするように雑に腿を撫で回してきた。

(私に残っているのは、もはや、傘の作り方のノウハウすら記憶から消えた男だけなのだろうか。)

窓に目をやった。雨が止む気配はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラビットリップ @yamahakirai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ