第5話 菓子“いのちの喜び”開発その後

 母が役員を勤めるみどり野製菓は、商品化した“いのちの喜び”について、従業員とその親族を中心に千人のモニターを選んだ。モニターにはあらゆる伝手を伝って、各界の有名人も100人ほど集めた。モニタリングの方法は、2日に1枚ということで30枚を配って2か月分として、1週ごとに感想を集めた。


 当初は医者の診断をさせるという案もあった。だが、それではいかにも危ない食べ物をモルモットとして供したようで、印象が悪すぎるということになって取りやめられた。しかし、アンケートにさりげなく割に細かい健康状態の設問もあった。健康に良いというバーラムの話もあったので、これらの設問は不自然ではない。


 母の佐紀は大学時代の同窓生の紹介で、大物俳優の三角英太郎にサンプルを届けに行ったということだ。母はその他にも、サンプルを持っていろんな知己に会って、有名人の紹介を頼んでいる。その際には手土産で5枚入りを渡しているが、例外なく一度食べるともっと欲しがるそうだ。


 また通常はその菓子の名前を告げると、“大げさ”ということで笑うそうだが、一旦食べると“うん、ふさわしい名だ”と納得すると言う。


 三角英太郎も、微笑ましいと言う感じで笑った一人であるが、1枚食べてしばし呆然として、それから言った。

「お名前は、浅香佐紀さんだったね。会社はみどり野製菓と言ったね。これは凄いよ、“いのちの喜び”。いい名前だと思うよ。モニターは引き受けた。何日か食べて、今の印象が正しいと確信したら精々宣伝してあげるよ」


 母は家に帰って来てから、うっとりしながら僕と姉の前で彼の言ったことを真似て言って、さらに付け加える。

「英太郎様は素敵だったわ。あの姿と声、どっちもねえ。それに本当にいのちの喜びが気に入ったら、コマーシャルに出てくれるって」


 それを少々冷ややかに見ていた姉が応じる。

「母さんは、面食いじゃないでしょう?そうだったら、父さんと結婚していないもんね」


「私、私は面食いよ。素敵なものは素敵だと素直に思う。でもあるけど、お父さんはね、やっぱり素敵よ」


「ふーん、ご馳走様。だけど、三角英太郎さんだとギャラがとんでもないでしょう?」


「うん、出てもらえるのなら失礼にならない額は要るわ。でも絶対にその値打ちはあるのよ。あの方は、本当に気に入った物の宣伝にしか決して出ないのよ。だから、あの方がでたコマーシャルは2本だけだったはず。

 “いのちの喜び”は田舎の製菓会社のわがみどり野製菓が、日本有数いや、世界の製菓メーカーになる足がかりなんだから、三角英太郎さんにぜひコマーシャルをお願いするわ。間違いなく気に入ってもらえるから」


 モニターのアンケート最終結果は、回収の都度インプットしていたのですぐに出た。回収結果は、毎週追っていたので、最終結果としてはその流れの通りであった。そしてそれは、極めて良好な評価であった。


 懸念の一つの健康面の悪影響は全く報告されていない。無論、元々病気であったモニターもいたが、回復を助けたという報告が何件かあった。しかし、健康になった、楽しく過ごせた、闊達になったという報告が9割を超えて、変わりがなかったという報告は10件以下に留まった。


 値段については、すでに決定しており、当面すべて直売で1枚千円とした。ばら売りは直売店でのみ、基本的には10枚入りパックとしているので、100枚入りが欲しければ10パック買うことになる。つまり1パック1万円だから安いものではないが、モニターは99%が“買う”と返事をしている。


 モニタリングと並行して、生産体制を整えていった。既存のお菓子は極力外注するほかに、近隣の廃業する工場を買い取って、既存の菓子の生産を移して、本社工場のスペースを空けた。そしてそこに、いのちの喜びの製造ラインを導入した。また当然人も増やした。


 選考基準としては、能力より人柄を重視して110人の地元の人々を主として採用した。必然的に、おばちゃんと言われる年代の人の主婦層が多くなったが、出来る菓子に込める善意が最も重要で必要となれば、それでも問題はないのだ。

 最初のラインの目標は月産百万枚であり、着工した新工場では1年程度で1千万枚体制にもっていく予定だ。


 ただ、必須の材料であるスレムラムは、1年後には枯渇して入手できなくなる可能性があるので、その前に是が非でも魔法で作れると言う材料に転換する必要がある。

「いいわね。修、出来なかったら母さんも立場がないのよ。大体、あなたの魔力を使えるのはいつよ?」


 真剣な顔の母上に問い詰められた僕はビビったよ。バーラムは面白がっているが、僕に取っては真剣だ。

「うん、もうすぐだよ。やっぱ“いのよろ”を毎日食べると早いね」


 僕の言葉に母は叱る。

「だから、変な省略言葉はやめなさいと言っているでしょうが、“いのよろ”なんて変な名が広まったらどうするのよ。それでもうすぐって、1日なの、1週間なのどっちよ?」


「う、うん、2週間はかからないはずだよ。1週間くらいかな」


「いい、魔法を使えるようになったら……」

 それに被せて僕は言った。さっきの敵討ちだ。


「チ、チ、チ!父さんが言っていたろう。魔法じゃない、Will Power,略してWPね」


「う、うん。そうだったわね。そのWPが使えるようになったら、すぐにスレムラムの代替を作ってよ。それができることを確かめないと気が気じゃないわ。ああ、それから、いやその前に治療の魔道具じゃなくて、WPCか。それを作ってね」


「ああ、母さん、そのお友達のお父さんの体調は最近どうなの?」


「うん、今は割にいいようね。だけど随分痛いらしいの。容態が急変することもあるらしいから、早いにこしたことはないわ。そのWPCのことを洋子(友達の名)にも言ったから、期待しているのよ」


「うん、魔法陣じゃなくサーキットはもうできているし、魔道具の素材も加工も済んでいるから、試行錯誤はしても、2~3日もあればできるさ」


 僕が言うと、姉が口を挟む。

「ところで、おじいちゃんの会社随分借金をしたらしいわね。そのいのちの喜びが売れればいいけど、結構大変なんじゃないの」


「会社っていうのは、本質的には借金をして、それで設備を整えて生産をして儲けを出して借金を返していくものなのよ。

 だから、今回わが社として、確実に利益が出ると考えるものの生産体制を整えるために、借金をするのはごくまっとうな経済活動よ。売り上げが30億ちょっとのわが社が、30億の借金はちょっと大きいけどね。


 いままで、無借金できたわが社が、初めて実施する大型の設備投資よ。でも無借金できたというのは、言い換えれば冒険をしなかったということよ。まあ、その種がなかったということになるかな」


 母、佐紀は、メインバンクの県内最大手のS銀行の村山中央支店に訪問したことを思い出す。会社の経理課長の品川はS銀行のOBである。彼の例のように、中小企業の経理関係のトップは大抵が銀行の主取引銀行のOBである。

 このように銀行のOBを会社に迎えるのは、中小企業では経理関係の専門知識を持つ人材は育ちにくいということ、加えて融資を頼む場合には便利ということである。


 みどり野製菓の場合、無借金経営であるため、主として前者の理由で品川を採用したものであった。品川は役員にはなっていないので、いのちの喜びの大増産に踏み切った経緯は詳しくは聞いていない。しかし、社員が大騒ぎしているこれほどの話が伝わってこないはずはない。


 彼が詳しい話を聞いたのは、総務と経理を管理する津島常務からで、その際には試作品を食べさせてもらい、それが確実に売れるであろうと、会社幹部と同様に確信した。ただ、30億円の融資の取り付けは、いささか額が大きすぎると考えたようだが、会社のトップの決断として反対はできなかった。


 S銀行には、まず津島常務、品川課長と母が行ったらしい。額が大きいことから、まず実務者として内容の説明ということであり、そこで支店に内容を納得させ、レールが引かれたところで、社長はS銀行の本社に訪問してお願いするという運びになるらしい。


 みどり野製菓は歴史が60年ほどと長く、最近10年以上は黒字経営を続けていて、最近5年ほどは年率数%の成長をしているので銀行に信用はある。しかし、まず申し出た額に驚かれた。


「ええ!30億円ですか。ええと御社の昨年の売り上げは31億円ですね。経常利益が1億2千万円と……。立派なものですが、ちょっと30億円はねえ。でも、まあ目論見書を見せて頂きましょう」


 額の禿げあがった支店長の園田が、手元の資料を見た瞬間に難色を示し、差し出した計画書を受け取ってしばらくそれに目を通す。

「なるほど、“いのちの喜び”という新しい菓子の生産体制を整えるためにということですな。そのため、まずは既存の生産設備の移転をして、そこに第1弾の設備を設置する。さらに、近所の工場用地を買って新工場を建設すると。設備費で22億、人材の採用やその間接費で5億、予備費が3億ということですね。

 それに対して、増加する売り上げは、ええーーえ!単独で最初の年に50億円ですと。そして、利益率は55%と」


 園田は呆れたように言って、尚も書類を読んでつけ加える。

「確かに、千円のものを5百万枚売れば50億円ですが、定価千円のものを千円の収入にはならないでしょうに。どこかに委託するにしても、マージンが必要でしょう。

 それに、どんな菓子が知りませんが、千円で売れるとは思えませんよ。サンプルをお持ちですか?」


 そこで、母が乗り出しておもむろにサンプルの箱を取り出して、支店長の前に押しだした。

「これが“いのちの喜び”です。確かにこれを見ただけで、千円で買う人はいないでしょう。だけど、一度食べればわかっていただけます。今、千人の人をモニターに選んで2日に一回食べてもらっています。

 始めて今で1.5ヶ月くらいですが、健康上の問題が出た人はいませんし、ほとんどの人が精神的、身体的に改善をみていると回答しています。


 でも、これは薬でもサプリメントでもありません。あくまでお菓子です。それをお忘れなく。さあ、召し上がってください。そうすれば、私たちが何でこんなに自信を持っているかよくお分かりになります」


 園田支店長は、しばし母さんを見て、差し出された10枚入りの小さな箱から一枚を取り出し、包装紙を取り、目の前でよく見て匂いを嗅ぎおもむろに口にした。そして、一噛みして一旦目を見開いて、ゆっくりと目を閉じた。


 さらにゆっくり味わうようそれを噛んで恐る恐る飲み込む。そして一分ほどもソファに座ったままでいたが、やがて目を見開いて真剣な顔で母さんに言ったらしい。

「これは、麻薬とかそういうものではないんですね?」


「間違いなく違います。少なくとも食品安全衛生法には抵触するものは使っていません。ただ、お分かりのように精神に働きかけることに間違いはないのですが、それが尾を引くとか、ネガティブな影響はありません」


「うーん。私も麻薬を使ったことはないのでわかりませんが、聞いた話では酩酊状態になるらしいですね。その点ではこれは、そういうボーとすることはない。それに、目の前に私の思い出にある景色が広がりましたが、本当にすがすがしくでて気持ちがよかった。そして、今もすがすがしさは続いていて、気持ちが良い。

 確かに、これだったら千円でも安い。それで、本音のところは、どのくらいの目論見なんですか? ええと、浅香さんと言われたが、社長さんの娘さんでしたね」


「はい、全て直売するつもりです。客寄せのために直営店で直売もしますが、今は宅急便という手段がありますから、宅配が主ですね。基本的には、将来的に日本だけ考えても人口の1割は定常的に買ってくれると思っています。2日に1枚ですから、月15枚の1千万人として月に1億5千万枚です」


「ほほー、売り上げが月に1千5百億円ですか。それは話が大きい」


「いえいえ、日本だけではありません。世界の潜在的な顧客は少なくとも2~3億人はいると思いますよ。

 だから、私どもの目論見ごく控えめで、実績に応じて膨らませていこうということです。なにしろ、我がみどり野製菓は堅実経営がモットーですから」


「なるほど、なるほど。控えめにしてこういうことなのですね。この“いのちの喜び”ですか、最初は大げさな名前と思いましたが、これでしたら納得です。ただ、具体的な売り出しなんかのスケジュールを逐次お知らせ願いたいのと、本店との折衝に使いますので、そのサンプルを少し多めにお願いできますか?」


「ええ、連絡については品川課長の方から逐次お知らせします。サンプルについては、ここに10枚パックを5つ用意しましたので、お使いください」

 母が、用意した箱を差し出して、その話の大筋は決まった。結局OBの品川課長の出る幕はなかったが、かろうじて最後に存在感を出したということだ。


「でもね。いのちの喜びを年間10億枚も作るのは無理だと思うのよ。材料に希少なものがかなりあるからね。それに、そもそもみどり野製菓は、世界的な企業になることなんかは求めていないわ。

 作ったお菓子を食べて喜んでくれるお客さんを対象に考えている田舎企業なのよ。

だけど、経営の安定を考えると一定の規模は欲しいと思っています。従業員の雇用を守る必要がありますからね。今度確保できる融資で、月産1千万枚までの生産設備は作るけど、完成は1年以上先だわね。来月の売り出しの反響次第でどうするか、社長以下役員とじっくり話さなくちゃね」


 母が茶の間で言うのに姉が聞く。

「ところで、母さん、製造の秘密というか、その辺はどうなの?権利はまもれるの?」

「うん、結局秘密はいくつかの原料の下処理の仕方と、混合の仕方よ。やり方を知らなかったらまず偶然にはたどりつけません。それは修というより、バーラムさんのおかげです。

 特許をどうするか、まだ揉んでいる段階なのよ。申請しちゃうとやり方が解ってしまうからね。それを工場の中で再現されても追及のやりようがないし、だから結構特許を敢えて出さない会社も多いのよ。このあたりも早く詰めなきゃいけないのだけどね………。

 だけど、このバーラムに教わったノウハウは新しい味の創出に生かせるのではないかと思っています。

 いのちの喜びはわが社には大きすぎるのよ。だから、今言った路線で独自性が出せれば、普通から少し抜けた菓子メーカーとしてやっていけるのではないかと思っているのよ。その路線が引けたら、いのちの喜びは手放すことも考えています」


 そのように言う母の表情は、経営者にふさわしいものではないかと僕は思ったね。

三角英太郎による、いのちの喜びのコマーシャルがテレビとネットで流された。今まで、2回しかそうしたことのない彼が起用できたことに、業界では驚きを持って受け取られた。


 しかも、スポンサーは『みどり野製菓』という関東圏では少しは知られているが、S県地場の中小企業である。そして、ちっぽけなその菓子の値段が10枚入りパックで1万円である。


 インターネットでは非難・揶揄のコメントで溢れた。しかし、それらの非難、揶揄に対して、三角英太郎を筆頭にモニターを務めた人々から、体験に基づく反論があった。その、反論は突き詰めればすべて同じ言葉『食べれば解る』であった。


 宅配便では最小1パックでの販売である一方で、15か所あるみどり野製菓の直売店では1枚から売るために、千円を出して味わってみようという客であふれた。そして、そうした人々は必ず1パック以上を買った。


 かくして、必死の思いで既存工場の改造によって当面月間10万パックの生産体制を整えて、売る出し日には10万パックの在庫を持っていたが、あっという間に売り切れてしまった。


 そのため、最大2パックまでの制限と、予約受付けで1か月待ちになってしまうという状態になった。突貫工事で建設中の新工場が完成して操業を始めれば、最大100万パックの製造となるが、それでは早晩足りなくなるだろうという見通しに、会社では頭を抱えてしまった。

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