第14棺 はじめて その1

 森の主と思しきビバルさんの案内もあって、僕は森林地帯の奥地に進んでいく。時折草木種と呼ばれた草木たちが僕の行く先を葉や枝で指し示してくれるので、一抹の不安もなく歩を進める。僕一人なら確実に遭難していただろうことを思うと、ビバルさんや草木種たちの皆と話せて本当に良かったと心から思う。


「……水の音が、大きくなってきた」


 体感で10分ほど歩いた頃、森林地帯でより大きく聞こえる水の流れる音に僕はさらなる安堵を覚える。ビバルさんの前では言わなかったが、彼と対面した時点で僕は喉の渇きを覚えていた。そこから10分くらい走ってはいないものの、それでも道なき道を進むだけの体力と精神的疲労から体中の水分が枯渇しかけていた。


「飲める水ならいいんだけど……」


 腹を下す覚悟で挑む必要があるが、衰えることのない喉の渇きには抗えない。急に走って転ぶことのないように興奮を抑えながら確実に一歩を踏みしめる。


「……つい、た」 


 生い茂る枝葉を超えると、僕の視界に飛び込んできたのは大きな滝。高さは目算でもビル10階をさらに超えているかもしれない。見上げるほどの高さから落下し続ける大量の水は着地点の岩を破壊しかねない勢いと爆音を轟かせている。滝から10メートル以上離れた場所にいる僕にさえ飛び散る水しぶきを感じるほどだ。少なくとも僕の記憶の中にこれほど巨大な滝を日本で見たことはない。

 そんな巨大すぎる滝の落下点にあろうことか僕は一つの人影を見た。最初は見間違いだと思ったが、興味本位で近づいていくと確かに滝の真下辺りに人が天を仰いで直立していたのだ。しかもその人物は爆音轟く滝の真下からその姿を現し、まるでシャワーを浴びて来たかのようにすっきりとした表情を浮かべていたのだ。人間の体なんて一瞬のうちにぺしゃんこにしかねない圧倒的水圧をその身に受けてヒトの形を保っている事実にも驚いたが、もっと驚かされたのはその人物が女性で、彼女は衣服を着用していなかったことだ。

 白状すると、僕は見惚れていた。彼女の持つ美しすぎる肢体、流麗たる長い黒髪、女性特有の扇情的な凹凸。その全てが僕の雄の部分を直撃した。


「……っ、馬鹿か僕は」


 謎の世界に迷い込み、自分の命すら保障されない状況下で、僕は不覚にも不埒な妄想に耽っていた。あまりにも迂闊すぎる。いくら危機的状況が続いてようやく

命の水を発見できたとはいえ、性に執着する暇はない。しかも滝の下から出て来た女性は膨大な量の水に打ち付けられても平然としている。どう考えても人ではない。


『いつまでそこで眺めている気じゃ?』


 滝から生み出される爆音を遮り、かつ聞き心地の良さを持った流麗な声が僕の頭の中に響く。


「え、何、今の」

『我が玉体をその眼に刻んでおきながら生きて帰られると思うのか』


 辺りを見渡す。右に左に上に下に、あらゆる方向に首を振っても声の主らしき人物は見当たらない。


「エロガキ」


 真後ろ。脳に直接響いた流麗な声は僕の真後ろで聞こえた。恐る恐る振り返るとそこには長い黒髪と玉体を濡らした艶やかな女性が立っていた。髪色と同じ漆黒を宿した眼は底がない闇のようで、恐ろしいよりもその更なる闇を見たいと思わせる。長い黒髪は水に濡れて黒く光る大河を思わせ、その玉体は真珠やダイヤモンドを腕利きの職人がその半生を使って作り上げたかのような大作と言って良い。

 僕は彼女の前で膝から崩れ落ち、なすすべなく口にした。


「……綺麗だ」


 片眉を上げて、女性は腕を組む。


「我を綺麗、とな?」


 彼女の美しさに言葉も思考も失った僕は、彼女自身の声音でようやく意識を取り戻す。全裸の女性を前に膝から崩れ落ち、あまつさえその肢体を見ながら感想を言うなど変態でしかない。僕は即座に土下座の体勢になって謝罪する。


「ごめんなさい! そのあまりにも綺麗で、美しすぎて見入ってしまって」

「我が、美しすぎる?」


 ダメだ。これでは全裸の女性に対する僕個人の誉め言葉だ。とういうか誉め言葉にもなっていない。「全裸を見せてくれてありがとう」と感想を言っているに過ぎない。ここが日本かどうかもわからないが、母国でなくとも今の僕は完全な犯罪者だ。謝って済むものではないがとにかく謝り倒して向こうの出方を見るしかない。


「はい、名前も知らない、今日会ったばかりのあなたに見入ってしまって」

「それは我の玉体を見たからか?」

「……はい」

「エロガキめ」

「申し訳ございません!」

「だがなんというか、貴様は妙な空気を纏ってるな」


 女性は土下座する僕に近づき、僕の頭を嗅ぐ。今日ははじめてが多すぎる。僕の余裕はこの森で目覚めた時点で尽きているのに、こうもはじめてが続くと体力も精神力も底が見えてくる。


「な、な、なにを⁉」

「この臭い、まさかあやつか」

「あ、あやつ?」

「貴様には関係ないガキ。少し考えさせろ」


 再び腕を組み何事かを考える女性に僕は再び彼女の横顔を見入る。どうにも目が離せないのは彼女の美麗すぎる容姿だけではなさそうだ。彼女の一挙手一投足が気になって仕方がない。


「……なるほど、これがあやつの言うてた代行人メッセンジャーか」

「えぇと、いったいなんの」

「エロガキ。貴様にチャンスをくれてやる」


 女性は全裸のまま、僕に指さして宣言する。さすがに何度も彼女の玉体を見るのはマズいと思い、僕は即座に彼女から視線を外す。


「本来なら我の玉体を目にした時点で神の雷に焼き貫かれるところだが、今の貴様はあやつと繋がっている部分があるからな。一度だけチャンスを与える」


 外した視線はすぐさま戻された。やはり今の僕の立ち位置は相当にマズい。さっきの流れで僕は消し済みになりかけていたなんて今更過ぎる報告だ。


「ちゃ、チャンスですか?」

「今から我の本当・・の姿を見せる。それについて我にどのような思いを抱くかで貴様の命運は決まる」


 本当ということは今僕の目の前にいる彼女は偽物なのだろうか。だが何をもって本当としているのか僕にはわからない。偽物も本物の僕には違いを見比べるだけのものさしがないから。


「ではいくぞ」

「え、ちょっと」


 待って、とも言わせてくれず、彼女は背を丸めてうめく。

 刹那。彼女の体が大きく歪み、美しき柔肌を突き破って八つの大蛇が姿を現す。幼い頃に楽しんだウォータースライダーを彷彿とさせる長すぎる首を現出させ赤、黒、緑、黄、青、紫、橙そして紺色の大蛇が辺りの巨木をなぎ倒しながら丸太よりも一回り大きな頭を僕に近づける。僕はというと睨まれた蛙よろしく指一本動かすこともできず大蛇たちを見上げた。それだけでなく新緑が芽吹いていた大地からは悍ましき死臭を放ちながら腐肉と傷ついた頭蓋や骨を露出させた人が這い出る。誰も彼も剣や弓、槍など一定の武器や防具を装備しており、痛みや憎しみをつぶやきながら眼球のあったであろう穴二つを僕に向ける。殺意が森全体を包み込み、森に住む生命だけでなく木々や水、空気、大地さえも恐怖のあまり震え始める。

 そして大蛇や人型のさらに奥、人の形を為した何かが僕に近づいてくる。


「久方ぶりダ。この姿ヲ余人に見せるのハ。蛇どもヤ死兵どもノことは気にするナ。我ガこの姿ヲ取ると勝手二出るのダ」


 言葉では言い表せない恐怖と死の具現。女性だった何かは笑っているのか、口と思われる個所を上げて楽しそうに語る。


「あやつハこの姿ヲ見て逃げ出しよったガ、果たして貴様ハどうかな、エロガキ」


 声で先ほどの女性だということはわかったが、先の美しき姿からは想像もできないほどの異常が僕の前に立っている。草木は腐り始め水や大地、空気さえも大蛇や死兵と彼女自身からも放たれる悍ましい死臭のために枯れ果てて行く。

 このままでは確実に命を落とす。周りの草木と同じく腐り落ちて消えるのか、それとも大蛇に頭から丸呑みにされるのか、はたまた死兵と呼ばれる者たちに切り刻まれるのか。どちらにしても真っ当なこの世の去り方ではない。

 体中で僕は目前の死を否定している。唐突な人生の終幕なんてどう考えても受け入れられないと頭の中でも警鐘を鳴らしている。


「勝手二試して勝手に決断せヨと言うのハ傲慢だと罵られるだろうガ、それが神というものダ。我らは常に人ノ子に試練ト理不尽を振りかざス。エロガキ、貴様の場合はそれが今日ダったということダ」


 自然と僕は涙を流していた。


「おぞましイだろう? 目を覆いたくなルほどノ」

「なんて、酷い」

「そうだろウ、ひど、ってひどい?」


 心にもないことを言ったわけではない。死にたくない。逃げたい。生きていたい。そんな感情が体の内で蠢いていることは僕だけでなくおそらく目の前の死も理解しているはずだ。だがそんな命の危機とは関係なく、僕はこれまでの自分について勝手に話し始める。


「僕は、ここに来る前、両親の仕事の延長で多くの死を見てきました。誰もが納得のいく死を迎えられたわけではなく、中にはご遺体の状態がよくないことも。でも両親はどんな死も等しく尊ぶべきであり、この世に未練を残した人でも次の人生で多くの幸せを運ぶ良い人になってもらうために、今の誰かの死を尊び受け入れる、その最期を少しでも良いものにするために僕らがいるんだと言ってました」


 死は僕の話を聞いているだけで、ピクリとも動かない。


「僕が一番印象に残っているのが最初に葬儀をお手伝いした時です。その方は90まで生きた農家の方でした。早朝の田畑の確認にやって来ないその方を心配した家族の方々が気づいたそうです。まるで眠っているかのような静かな死だったとも」


 大蛇も僕の話を聞いてくれているのか、威嚇していた状態から頭を下げて目に宿っていた怒りの色も徐々に薄らいでいく。


「その方の指には水でもお湯でも取れないほどの土のあとがあって、その方が生きた人生を物語っていた。この人はたくさん自分の田畑を愛し、家族を養ってきたんだと」


 数えるほどだが、僕が見て来た死はそのどれもが優しい人生の上に成り立っていたことを痛感した。人の死という誰もが迎える普遍の結末しか僕は目の当たりにしていなかったのだと。だが僕の目の前にいる彼女だったモノもその周りで苛んでいる大蛇も死兵も到底まともな終焉を迎えた結果ではない。最低のさらに下をいく地の獄。彼らはそこに生きているのだと理解した。


「あなたも大蛇も周りの皆さんもどんな生を歩んだかはわかりません。でもあなた方がそうならなくてはならないほど、あなたたちは誰かに酷いことをしたんですか?」

「……だとしたら?」

「それでもその姿はあんまりだ。それじゃあやり直す機会さえもなくなってしまう。死んだ後もずっと苦しみ続けることになる」

「貴様の価値観を我らに押し付ける気か?」

「お節介だとは思います。自分が殺されかけているのに、のんきなことを言ってるとも思ってます。でもそれでも僕は皆さんを弔いたいと思ってる。自分のことを棚に置いてあなたたちのために何かできないかと考える僕がいるんです!」


 呆れ果てたのか、女性だった死はため息を吐き出して背を向ける。


「嘘、ではない。あやつめ、こんな大馬鹿をこっちに寄越してくるとは」

「あ、あの」

「興が削がれた。あとはこやつらに任せる」


 死は空気に溶け込むようにその姿を虚ろにしていく。


「お前ら。そこのエロガキを好きにしてもいい。我は再び水浴びをするゆえ」


 完全にその場から消えてしまった後に残されたのは僕と大蛇と死兵の皆さん。

 数秒の沈黙の後、僕は熱くなっていた頭が冷えて行く感覚と依然として命の危機にさらされていることを自覚したので恐る恐るこう提案した。


「……えっと、皆さん。殺す前に僕とお話しません、か?」

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