第5話 私は、あなたを選びたい その1
私は、今、羽田空港のエリアウォーキングの時のようにぐるぐる歩き回っている。
さっき会ったばかりの樹さんと、もう1回別れてから。今の自分の気持ちを、ちゃんと整理するために。
そもそも、最初から私は、樹さんに過去の女性関係が1度も無かったなど、思っていない。むしろ、あの、超絶ハイスペックを持つ人。万が一童貞だと言われたら、医者でもない私でさえ……樹さんの体を心配してしまうだろう。
だから、元カノさんとか、元奥さんとかいたとしても、驚くべきではない。頭の片隅では、ちゃんとその可能性は残っていた。
「私のために、誰とも付き合わずにいてくれたのね」
などというセリフを吐けるのは、せいぜい10代がギリギリ。私は、さらにそこから30年近く多く生きてきたから。
だからこそ、私は戸惑っていた。先ほど聞かされた、隠し子の話だって、可能性は決して0ではなかったはず。
むしろ、氷室樹という素晴らしい男性の遺伝子が、この世に受け継がれていることに感謝する方が、世の中にとってはずっと価値があることではないか。理性では、いくらでもそんな風に考えられるのに、心臓が掴まれるように痛かった。
そんなおこがましすぎる自分がいたことが、私はショックだった。
わざわざ、樹さんを呼び出してまで、樹さんのお子さんにお土産を買おうとしたのも、さほど綺麗な理由ではない。
私なんかがショックを受けて、ごめんなさいという、自分の中に芽生えた罪悪感を打ち消すための手法として選んだのだ。
まるで、綺麗なラッピングの下に、無価値なゴミを隠すかのように。だから、プレゼント選びの時に、何度も樹さんから
「本当にいいの?」
「無理してない?」
などと聞かれる度に、とても申し訳なくなってしまった。そしてその度に見せる樹さんの表情を見るのが苦しかった。
樹さんは、ただでさえ、私に色んなものを与えすぎている。今回のハワイ旅行の飛行機も、そうだ。私は、てっきりエコノミークラスに乗るものだと思っていた。だから、エコノミークラス症候群にならないように、ネットで解決法を調べまくった。
ところが蓋を開けてみると、私の給料ではとても手に付かないビジネスクラス。初めての機内食は、フルコースっぽいもので、まさに空飛ぶレストランにいるかのような気分を味わえた。
嬉しい。でも、どうしてそんなことをしてくれるのか、私には分からない。もしかして、これが理由かもという理由は、1つだけ思いついた。
「この路線、創作ハワイアン料理が食べられるんですって!しかもカクテルまで!すっごい楽しみ!」
当日の飛行機の情報を教えてくれた樹さんに、私が即返事をした内容。後から調べると、その料理が食べられるのは、ビジネスクラスだけだった。
考えすぎかもしれない。だけど「これが原因かもしれない」と思わせるくらい、樹さんは私のために動いてくれていた。
飛行機でも、樹さんはなにかと気にかけてくれた。でも私は、そんな樹さんに何かを返せるほど、人間ができてはいない。私を気に掛ける樹さんの表情は苦しそうで、見ているのが辛かった。
私が、隠し子のことなんか聞かなければよかったのだ。樹さんが空港に現れた時、普段は全く表情が変わらない樹さんが、ほんのりと可愛く微笑んでくれていた。それを、私なんかの一言で、ぶっ壊してしまったのだ。
どうすれば樹さんが私に気を使わず済むのかを考えて、寝たフリをするという手段を取った。せっかくのビジネスクラスを堪能できないのも勿体無いとも思ったが、それよりも、樹さんに腫れ物に触るように話しかけられる方が、ずっと嫌だったから。
ただ、一緒に話してくれるだけで、私は満足。それですら、私には勿体無いと思っている。
これが、私の本音だったはずだ。
それなのに。何故、私はショックだったんだろう。何に、ショックを受けたんだろう。どうして私は、こんなにも胸がざわついているんだろう。
そんなことをぼんやりと考えている内に、眠ってしまったのだろう。気がつけば、あっという間に朝食の時間になってしまい、叩き起こされた。
「あと少しで、着陸だから起きて」
樹さんに言われてすぐ、残り時間を確認する。確かに着陸まで映画1本も見られない時間になっていた。ついさっきまで、滅茶苦茶真剣に、樹さんとの関係を考えていたはずなのに
ビジネスクラスなのに勿体無いと、庶民丸出しの神経が面に出てきてしまった私は、残り時間でビジネスクラスでしか味わえないサービスを、どうにか1つくらいは受けようと、真剣にメニューを見た。
選んだのは、マイタイというココナッツベースがすごいらしいオリジナルカクテル。それを頼んだ時に、樹さんが目を丸くして驚いていたのは、少々気になった。味は……甘党の私にはぴったりだと思った。
ちなみに。人生初の着陸時、あまりの揺れに、最後の最後で酔ってしまった。
「大丈夫?」
樹さんは、きっと私が着陸を怖がってると思ってくれたから、手を握ってくれたんだと思う。
ごめんなさい。違うんです。私、吐きそうなんです。こっちの方が、100年の恋が冷めるわ。私は喉元から出てくる色々なものを、必死に飲み込んだ。
着陸後、ベルトサインが消えてから速攻でトイレに駆け込んで、どうにか難は逃れた。
「大丈夫?」
「具合悪い?」
「荷物持とうか」
樹さんが事あるごとに聞いてくることは、ただ、やっぱり申し訳なかった。
そんなに顔色悪いのだろうか。
気になったので手鏡で自分の顔を見ると、確かにひどい顔をしていた。だけど、それ以上に鏡越しに見える樹さんの顔色の方が、もっと酷かったので
「大丈夫です!自分で持ちます!」
つい遠慮してしまった。樹さんは、そんな私に微笑んでくれたが、笑顔に違和感があった。
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