第4話 乗り越えられると思ったんだ、君がいてくれるなら その8

 時間を気にせず、ただ太陽の下にいるだけ。日が暮れたら帰って夕飯を食べて、部屋で朝が来るまで眠る。結局ハワイにいる間の残りの約3週間は、同じことを繰り返すだけだった。

 ワイキキの街や有名な観光地にも行かずに。誰からも咎められずに。ケビンが仕事でいない時は、マオと2人。マオはいつも本を持ち歩き、もくもくと読み進めていた。彼女が、英語も日本語も読めることに気がついたのは、帰国日の直前のこと。

「マオさんとケビンは、どうしてそんなに日本語が上手なんですか?」

 帰国日の前々日に、俺はようやくこの質問をすることができた。

「ママが日本人だから」

 このタイミングで、ようやくこの家に母親のポジションを背負う存在がいなかったことに気づいた。

「お母さんは、今どちらに?」

「天国」

「え?」

 この時俺は、初めてケビンがハワイに帰国した理由が、奥さんの急な死が理由だったとマオから聞かされた。

 それまでの自分は、とても他人に対してほとんど興味を持つことができなかったのだと、思い知った。

 そして帰国前日。いつも通り、ビーチに行こうと準備をしていると

「イツキ、ちょっとそこまで散歩しない?」

 と、ケビンとマオが誘ってきた。俺はこの時、すぐに頷くことができた。自分の意思で。

 まず訪れたのは、ケビンの家からすぐ行けるダイヤモンドヘッドと呼ばれる山。頂上に登れば、ワイキキを一望できるらしいが、今回は周囲をぐるっと回るだけだった。

 次に訪れたのは、ワイキキの街中。店にでも寄るのかと思ったが、連れてこられたのは、なんと交番の近くにある石のオブジェらしきものの目の前。魔法使いの石、と呼ばれているものらしい。触れることは禁じられているので、眺めるだけしかできなかった。

 これで終わりだろうか、と俺が何となく考えた時 

「これで終わりだと、思うなよ」

 と言いながら、ケビンがウインク顔で1枚のチケットをくれた。ワイキキの観光地には行き放題という、トロリーバスのチケットだった。

 ワイキキから、トロリーバスに乗り、最初に向かったのはアラモアナセンターと呼ばれるハワイ最大のショッピングモール。

 買い出しなのだろう、と入口に向かおうとすると、ぐいっと首根っこをマオに掴まれた。

「ちょっと!そっちじゃなくて、こっち」

 マオが指さしたのは、トロリーバスの乗り換え場。ダウンタウン行きと、書かれていた。


「ほ、本当に、目的地ここなんですか?」

「うん」

 自信満々に答えられてしまい、何も言えなくなった。トロリーバスから降りてすぐの光景に、自分は今、どの国にいるのだろうかと混乱した。

 周囲を見ると、日本人の観光客が訪れているので、この場所は有名な観光地なのかもしれないが、正直信じられなかった。

 ハワイの出雲大社と、案内板には書かれていた。

「さあ、お参りをしようか」

「行きましょう」

 ケビンとマオが、楽しそうに鳥居をくぐり抜けたので、俺は急いで追いかけなくてはならなかった。

 なぜハワイで、お守りなんか買わないといけないといけないんだ、と思った。けれどケビンもマオも

「買っておいた方が良い」

 と勧めてくるので、仕方がなく適当に手に取ってみた。それは、日本では絶対買えない、Happinessと刺繍が入った青いお守り。その横で、マオがとても真剣に選んでいた。

ケビンは、少しだけ困った表情を浮かべていた。


 後で調べてわかったことだが、2人が俺を連れていってくれたのはハワイの中でもパワースポットと呼ばれている場所ばかり。それが、次の日に日本という現実に戻らなくてはいけない、彼らなりのエールだったと気づくことが出来たのは、それからずっと後のこと。

 そして夜。アラモアナセンターで、ありったけのハワイアンフードのテイクアウトを買い漁ってくれた2人は、俺のための送別会を開いてくれた。

「イツキー!俺の息子になれー!」

「ちょっ、ケビン、酒臭いから寄らないでください!」

ケビンは、ワイン瓶を右手に、ステーキ肉を刺したフォークを左手に持ちながら、俺に近づいてきた。そんな様子を、マオがケラケラ笑いながら見ている。彼女の片手には、マイタイがいつものように収まっている。

「本当に好きなんですね」

「そうね。でも、もう飲まないと思う」

「ええ?どうしてですか?」

「願掛け……みたいなものかな」

「何か、願いでもあるんですか?」

俺は尋ねた。彼女がマイタイを飲まない夜がないのを見ていたから、余程の願いがあるのでは、と思ったから。でも、マオはただ微笑みながら、マイタイを一気に飲み干すだけだった。

「イツキー!!食えー!そして太れー!」

「だからケビン!うるさい!臭い!」

などと酔ったケビンにタチ悪く絡まれている間に、俺はマオに関心を無くしていた。

 それから、ほんの1時間後。ケビンは、リビングの広いソファで大の字になって寝ていた。

「ごめんね、お父さんが変に絡んで」

 俺とマオは、ケビンを残してダイニングに場所を移した。

「同じ職場の時は、もっと酷かったんで」

「ほんごめんなさいね、迷惑かけて。心配だわ……」

 この時は、親想いの、とても良い娘さんだなと思った。ケビンの遺伝子は、人を幸せにするんだなと、ケビンがいかに偉大かを感じた。イビキはうるさいが。

 そんなマオから、急に、不思議な問いかけをされた。

「ねえ、イツキ。頼みがあるの」

「何ですか?」

「あなたから、1つだけ奇跡を貰いたいの」

「奇跡……ですか?」

 一体どういうことだろう。そう思った時だった。急に目眩が襲ってきた。

「大丈夫?」

 マオが、俺に駆け寄ってきた。

「もう寝る?」

 俺は頷いた。

「じゃあ、行きましょう」

 マオは俺を支えてゆっくりと立ち上がらせた。ココナッツの甘い香りが、ふっと鼻に入ってきた。

 この日の記憶はここまで。次の記憶はというと、俺は自分のベッドで裸で寝ていたこと。

そして横には、下着姿のマオが横たわっていた。ココナッツの香りが、自分の香りから微かにした。


 俺は急いで、床に散らばった服をかき集めて着替えた。もし俺の予想が当たっていたとしたら、恩師の娘に手を出したことになるから。

 こんなことをケビンに知られたら、俺はケビンに嫌われるかもしれないと怖くなった。

 確認しておけば良かったのかもしれない。でも、俺にはそんな勇気はなかった。

 もう、すでに日は上がっている。チケットは、すでに昨日の時点で貰っている。俺の荷物は、結局パスポートと財布、そして唯一ハワイでの購入品になったあのお守りだけ。

 冷静に考えてみれば、挨拶もせずに逃げるのは卑怯者がすることだ。だけど、冷静になどなれなかったのだ。どうしても。

 俺は、まだ眠っている親子にさよならも告げずに、日本へと逃げた。

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