凹んだらすぐに会いに来てくれる後輩
時間は午後八時。決して異常に遅い時間ではないけれど、それでも僕の身体には限界が忍び寄っていた。いや、どちらかといえば不調なのは精神の方だろうか。
仕事が上手くいかないというのはそれだけでかなりの精神を疲弊するものだと、新社会人になってようやく理解した。父がたまに気絶するまで酒を飲んでいたのも、もしかしたらそういう辛さがあったのかもしれないな、なんて思いながら帰り道を歩く。
死にたい、なんて感情があるわけではないけれど、それに近しい何かの存在がふと脳裏をよぎる。消えてしまいたい、自分がここにいるという事実をなかったことにしたい。
「あ……」
目の前で、信号が変わった。赤色の光が僕を拒絶していた。視界の右端からはトラックが迫ってきている。どうしてかはわからないけれど、僕はそれに惹かれるように一歩踏み出そうとして――温もりに引き留められた。
「おつかれさまです、せんぱい」
明るいようでどこか優しい声音。僕より低い背丈。僕より低い体温。僕より幼い年齢。なのにその全てが僕を溶かすように、背中を包み込んでいる。
「お前、どうしてここに」
「先輩がつらそうなので、来ちゃいました。会えてよかったです」
「大学は」
「そんなの、この時間にはとっくに終わってますよ。そもそも全休ですし、今日」
あっけらかんとした口調で笑うのは、僕の大学時代の後輩だ。1つ下の、人懐っこいやつ。細くて柔らかい彼女の指が、当たり前のように僕の指に絡んでいく。愛しい感触だと思った。
「なんか先輩とこうやって夜の街歩くの久々ですね。嬉しいかも。なんかご飯でも食べていきます?」
「変わんないな、お前」
「はい、ずっと変わらず先輩のことが大好きな後輩なので」
調子いいやつだ、と思った。でも悪くない心地もした。その言葉に裏も表もない。ただ等身大に好きの感情を抱えていて、ムカつくやつには全身で不快感を露にするような、素直でわかりやすい子だった。
「今日もずっと先輩のことを考えてました。お仕事上手くいってるかな、とか、元気かな、とか。そういうことを」
「あはは、見ての通りだよ。結構くたびれてるかも」
「そうみたいですね。まぁ私はどんな先輩でも好きですが、それはそれとしてお辛いだろうな、と思って会いに来ました。別に特別すごいことをしに来たわけではありませんが、会いに来ることはできるので」
ぎゅっ、と繋いだ手から力が籠められる。どこか震えるような、振り絞るような、そういう感情が滲んでいる。
「よかったです、会いに来れて。二度と会えないところでした」
いつもと変わらない様子で笑っているけれど、その目元には涙が浮かんでいた。街灯に照らされるそれには、この場で僕だけが気づいている。
「先輩はですね、私を救ってくれたので、私も先輩を救えてうれしいです」
「勝手に人の救世主になるな」
「なってもいいですか?」
「勝手にすれば……」
「じゃあいいじゃないですか。なんで否定したんです?今」
「なんとなく、癪だったから?」
「あ~!ひどい!こんなに先輩のことを大好きな人間他にいません、怒りますよ私」
不服そうに頬を膨らませる彼女は、やはりいつもと変わらない、僕が好きな後輩だった。
「まぁ……そうだけどな。なんで僕のこと好きなんだ」
「なんで……と言われましても。優しくて弱い私をちゃんと愛してくれて、困ったときには自分も弱いところを見せてくれる人だからでしょうか」
「あんま恥ずかしいこと言うなよ」
「じゃあ訊かないでください!先輩が言えって言ったんじゃないですか。覚えてます?私と初めて会った時のこと」
それは、と。僕は思い返した。もちろん覚えている。春先にしては随分冷たい雨が降っていたような記憶があった。あんまり幸せな記憶ではなかったような気がするけれど、彼女が話題に出したのであれば、話しても問題ないのだろう。
「あれでしょ。お前が元カレに振られて死のうとしてた時のやつ」
「あの時は本当に先輩に酷いことばっかり言ってしまったというか、申し訳ないことをしたなぁ、と思っていてですね」
「別に、気にしてないけど」
「私が気にするんです!」
むっと頬を膨らませる彼女だが、僕は本当に気にしていない。あの時は僕が悪かったのだ。何も知らないやつが偉そうに死ぬな、なんて言ったところで、迷惑に決まっている。
彼女と出会ったのは夜の歩道橋の上だった。誰もいない、僕と彼女だけの世界。
「正直最初は何だこの人って思ったんですよ。先輩のこと。私のことなんて何にも知らないくせに、死んじゃだめだって、まだ取り返せるって、一生懸命馬鹿みたいに言ってましたよね」
「実際馬鹿だったけどな」
「でも先輩、かっこよかったですよ。馬鹿でしたけど。そういうところがかっこよかったです。雨の中傘も差さずに私の失恋話を何時間も聞いてくれたの、本当にうれしかったなぁ」
「だってほっといたら死んでたろお前」
事実、当時の彼女には本気でそう危惧させるほどの不安定さがあった。一度目を離したらそこからいなくなってしまいそうな気がして、どうしても目が離せなくて、気が付いたら傘を投げ捨てて隣に腰を下ろしていた。
「あの時、ほっとかれていたら私はここにいなかったんです。だから、先輩が見つけてくれてよかった。私を大事にしてくれる人がいるって教えてくれてよかったんです。それで私は幸せになれた」
だから、と。
「今度は私が救ってあげたかった……というと傲慢かもしれませんけど。こうやってつらい時に傍にいられたらなって思ったので、今日は会えてよかったです」
彼女はそう続けた。瞳はまっすぐで優しくて、柔らかい色を持っていて。
こんな優しい子が傷ついているのを見ていられなくて、僕はあの時声をかけたのかもしれない。当時の僕も救いたいだなんて思っていなかった。何者でもない僕が、誰かを救おうとしたという行為に、もしかしたら価値があるのかもしれなかった。
「そっか。ありがと」
「そっけないですね」
「余計な言葉を言うとチープに聞こえるだろ」
「いいじゃないですか。安物でも。詰め込んでもらえる言葉なんて多い方がいいと思いますよ、私は」
「そのうち言うよ」
「そのうち、っていつですか」
「死ぬまでには?」
「……ふふ、そうですか」
彼女はおかしそうに笑った。
「何?」
僕は訊いた。
彼女は答えた。
「いえいえ、死ぬまで一緒にいてくれるつもりなんだなって、そう思ったら嬉しかっただけです。これからもよろしくお願いしますね、先輩」
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