彼女に浮気されたと言ったら駆けつけてくれる先輩

 好きな人が出来た。その言葉を聞いた時、魂が裂けるような気持ちになったのをよく覚えている。肺も凍り付きそうな寒い冬の日だった。好きな人は僕じゃなかったのだ。久しぶりに会った彼女の薬指には見知らぬ指輪が嵌まっていた。もう全部が遅いんだと知った僕は、もうただ茫然とすることしかできなかった。

 両親が行かせてくれた大学の講義を、生まれて初めて欠席した。行かなくちゃいけないとは分かっていても、立ち上がることはおろか、ベッドから出ることすら難しい。僕はそんな自分を不甲斐ないな、と呪って、やっとの思いで立ち上がって顔を洗った。洗面台の鏡に映る僕は、今にも消えてしまいそうだった。生きようという意思が欠如したみたいで笑える。時計は午後10時を指していた。今日、本当になんにもしてないや。

「はぁ……」

 悩むことがバカらしいとは分かっていても、そう簡単に好きの残滓は割り切れなかった。あんなに最低な人だったのに、それでも好きだったことを後悔したくはなくて。宛先不明の愛情だけが胸の中で腐っていくような気分だ。

「ほんと、最悪だ。消えたい」

 僕がそう呟いた時だった。テーブルの上に置いていた携帯が唸り声をあげた。どうやら着信らしい。一瞬あの人のことが脳裏をよぎったけど、もう僕のことなんて興味がないに決まってる。今更連絡なんて寄越してくるはずがないし、もしそうでも僕はあの人に向ける言葉なんてもう何一つ持ち合わせていなかった。

「……もしもし」

「あ、生きてた。……ん、元気がないね。大丈夫かい。今日は学校に君の姿が見えなかったから、心配でね」

 優しくて丁寧なハスキーボイスが電話越しに耳朶を打った。先輩は大学二年。いくつか同じ講義を取っていて、一緒に講義を受けさせてもらっている。物静かで柔らかい素敵な女性だ。

「はい、だいじょう、ぶです……心配かけてすみません」

「大丈夫ではないだろう。私にはわかるよ。たとえ電話越しの声だとしてもね。強がらなくてもいい。私と君の仲だろう」

 隠す方が、失礼だろうか。

 逡巡を経て、僕は切り出す。

「……実は、彼女に浮気されていたみたいで。先日別れを切り出されました」

「…………嫌なことを思い出させてしまったかな。教えてくれてありがとう。もしよかったら、今から君の家に行ってもいいか」

「僕の家、ですか」

「ああ。別に何処でもいいんだが、その様子だと外を出歩けるようなメンタルではなさそうだし。幸いなことに、別件でちょうど君の最寄り駅まで来ていてね。君さえよければ様子を見に行こうと思うんだが」

 こういう時は一人でいるとどんどん落ち込むからね、と先輩は小さく苦笑する。彼女以外を部屋に連れてくるのは初めてだけど、今はそういうことを考えている余裕はなかった。ただ一人でいるのが怖くて、このままだと何かよく分からないものに押しつぶされてしまいそうで、ひたすら寂しくて。

「……お願いします」

「うん、賢明だね。こういう時はちゃんと私を頼りなさい。君は一人じゃないんだからね」

「…っ、はい……」

 先輩が言ったその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じる。孤独に苛まれた僕を優しく包んで離さないような声音だった。


 程なくして玄関のチャイムが鳴る。受け答えする余裕はなかったから、メッセージで「鍵は開いてます」とだけ送っておいた。

「やぁ、後輩。お邪魔するよ。……ん、意外と綺麗にしているんだね。男子大学生の一人暮らしなんて散らかっていてなんぼだと思うのだけど、案外そういうものでもないのかな?」

「最近まで、人が出入りしていましたから」

「……あぁ、そうだったね。すまない、愚問だった」

 先輩は申し訳なさそうな顔をしながら、僕が座っているベッドに腰を下ろす。丁度二人で隣り合うような距離感だ。少し、緊張する。この前まで隣に座っていたのは別の人だった。同じ場所で違う人と同じように見つめ合っている。どこか倒錯的な心地がした。

「さて……君さえよければ、愚痴でも聞こうかと思うのだけど、どうかな。まぁ私が、可愛い後輩を愚弄した女の悪口を言いたいだけ、と言ってしまえばそれまでなのだけど」

 青いニットセーターの裾で口元を隠した先輩のいつもの表情。

 垂れた目じりには優しさが滲んでいる。

「……はい、お願いします。えっと、何から話そうかな…」

「焦らなくていい。私は明日全休だ。君も同じく全休。今日は私、家に帰らないつもりで来たからゆっくり時間をかけて構わないよ」

「帰らないって……どこか、宿でも」

 慌てて僕が電車の時間やらホテルの予約やらを取ろうとすると「君は馬鹿だなぁ」と言われて鼻を突かれた。

「ここに泊めてほしい、といっているのだけど。もちろんタダでとは言わないさ。いくら出せばいい?」

「い、いや……僕は構いませんし、お金もいらないです。来てほしいといったのは僕の方ですし。じゃあベッドは先輩が使ってください」

「それでは君が苦しいだろう。私一人を寝かせるのではなく、君もベッドで寝ればいいじゃないか。どうせ以前の彼女も時折来ていたのだろう。二人でも詰めれば眠れそうだ」

「えっと……先輩、それは流石に、まずいのでは」

「嫌なのかい?」

「いえ、先輩が困るんじゃないかな、とか」

「私は構わないよ。だって君は特別だからね」

 あっけらかんとした口調で先輩は肩を竦めて、ベッドの端に転がっていた箱を見て苦笑する。

「あぁ、それとも。が起こらないように、と考えているのかい」

「っ、違います……先輩にそんな迷惑をかけるつもりなんて――」

 言い終わる前に、先輩が僕の唇を塞ぐ。彼女のよりも柔らかくて甘い香りのする先輩の感触は、強引に唇を割って僕の咥内にまで入ってきた。

 こういう表現が正しいのかは分からないけれど、先輩のキスは上手だ。

 舌を絡めながら先輩の唾液が入ってくる。決して力が入っているわけではないのに、全身が弛緩して抵抗できなくなるような感覚。目が眩む。

「……別に私は構わないとも。私はね、君が大切なんだ」

「せん、ぱい」

 先輩は僕の両手首を白魚のような指で掴みながら、流れるような動作でベッドの上に押し倒す。抵抗しようという意識すら奪われてしまったかのように、僕の身体は動かない。

「正直ね、私は怒っている。君という素敵な人間の愛情を手にしているのに、他の誰かを求めようとするなんて、愚か者のすることだよ」

 先輩は本当に怒ってるようだった。優しさや気遣いなどではない、尖ったその感情に喜びを覚えたのは初めてだ。僕のためにここまで怒ってくれる人がいるというのは、きっと幸せなことなのだろう。

「なぁ、後輩君」

 一転して、優しい声音。

「……私に乗り換える気はないかい」

 優しいのに、どこか泣きそうなほどの切実さが滲んでいる。

「私なら君を裏切らない。私なら君を幸せにできる。私なら君を大切にしてあげられる」

 諭すというより、言い聞かせるような口調だ。

 だんだんと、それが正解のように思えてくる……いや、実際正解なのかもしれない。

「君はまだ、誰かを愛する気持ちよさを忘れられてはいないだろう。抱えている感情、ぶつけたかった劣情、届けたかった愛情、いろんなものが胸の中でわだかまっているはずだ。――それ、私なら全部受け止めて返してあげられるよ」

 言いながら先輩は、押し倒した僕を優しく抱きしめて頭を撫でる。心が壊されたせいで忘れていた、愛される感触。傷を癒すような温もりに、このまま溶けてしまいたい。

「せん、ぁい……」

 声にならない声で先輩を呼ぶ。先輩は「ん……」と小さく頷きを返してからぎゅっと抱きしめる力を強めると、僕の冷え切った身体に体温が伝播した。温かい。一生このまま離れたくない。

「……後輩君。まだゴム、残っているんだろう。そこに転がっている箱」

「あり、ますけど……」

「そう、じゃあ問題ないね」

 先輩は僕のスウェットと肌の隙間に指を掛ける。

 窓から差し込む月明かりの下、先輩は力なく呟いた。


「ゴムが元カノのお下がりなのは不服だけど……ま、貰えるものは使わせてもらうとするか。……あぁ、後輩君はそのままじっとしてくれてたらいいよ。あとはお姉さんに任せなさい。ちゃんと気持ちよくしてあげるからね」


 僕たちは月が沈んでも、繰り返し、身体を重ねた。

 冷え切った心の赴くまま、互いの体温を刻み込むみたいに、何度も。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る