夜の橋の上で無理心中に巻き込んでくる少女
月が大きな夜だったのを、よく覚えている。僕たちが出会ったのは、大きな橋の上だった。日本で全国的に有名な渓谷を望む、観光名所の一つ。
春夏秋冬のどの季節でも美しくて、海外からも観光客が来るくらいの賑わいを見せてはいるけれど。
そんな楽し気な雰囲気があるのは昼間の間だけだ。
夜になれば辺りは真っ暗になって、簡素な街灯が広い間隔でぽつぽつと並んでいるだけの寂しい空間になる。明りもないから夜では写真も映えないし、そもそも帰りの電車だって田舎だから無くなってしまう。
だからまぁ、その。
夜のここを訪れるのは徒歩で来られるくらい近所に住んでいる僕みたいなやつか……帰れなくなってもお構いなしの、帰るつもりのないひとたちくらいのものだ。
「……あ」
か細い声を上げたのは少女の方だった。白いパーカー。真っ黒なショートボブ。透けてしまいそうなほど青白い肌は、真っ黒な闇の中でも薄っすら光っているように見えた。
「幽霊…?」
僕がそう口を零すと、少女はくすっと笑った。
「生きてる、幽霊じゃないよ。まだ」
「まだ、って……」
言いかけて僕はそれが愚問であることに気が付いた。彼女の発言の裏を返せば、これから幽霊になる、ということ。つまり彼女はこの橋から飛び降りるつもりなのだ。
「……えっと」
「止めないんだ、意外だな。優しそうな顔をしているから、てっきり手の一つでも差し伸べるつもりで近づいてきたのかと」
自嘲気味に笑う彼女に、僕は首を横に振って答える。
「見殺しにしたいわけではないけど」
「…けど?」
「理由も聞かずに止めるような真似は、それよりもっと残酷な仕打ちに思うんだ」
少女は驚いたように目を丸くして言った。
「……見込んだ通り、優しい人だ」
少女は自殺防止用のネットの隙間に腕を伸ばして、その向こうを覗き込む。はるか下には川が一筋の流れを引いている。
「ボクはね、君がそのまま止めようとしてきたらこのまま飛び降りるつもりだった。中途半端な優しさを振りかざすような生き物に、傷を刻んでやろうと思ったのさ」
だけど、と。
「君はそうじゃなかったみたいだね。……で、どうする?見なかったことにするって顔じゃないけど」
「まぁ……このまま帰って明日のニュースで『下流で水死体発見』とか聞いたら気分悪いから……」
「あははっ、なにそれ利己的すぎて最高だ。それくらいでいいんだよ、人間ってのは。それくらい自分本位であるべきだと思うよ。……そうじゃないと心が疲れてしまう」
「いいよ、ボクの話をしよう。ボクが消えようとしている理由なんだけど、目の前で両親に自殺されたからなんだよね」
あっけらかんとした調子で話しているけれど、その声は震えていた。嘯いているように見えるのに、紛れ込む妙な現実感が僕の胃の中をかき混ぜる。
「想像できる?確か死因は焼死だったかな。ジュースでも買っておいで、とボクを車から降ろしたんだ。ボクがオレンジジュースとお父さんの分の珈琲と、お母さんの分の紅茶を大事に抱えて戻ってきたときにはもう火の手は手が付けられない程になっていてね」
想像するだけで酷いありさまだった。年端も行かない少女がそんな両親の姿を目撃したら死生観が歪むのも当然だ。
「その時のことは今でも夢に見るとも。この事件は学校にも広く周知されてね。おかげでこれまでの生活はまるで腫れ物に触れるみたいな扱いをされてきたんだよ。その度に、あの日のことを思いだす。だから他人に心配したように根掘り葉掘り聞かれるのが苦痛で仕方がなかった」
「あ、ごめ――」
「いいんだ、今日はボク、初めて自分から当時のことを話す気になったんだから」
少女はひた、ひた、と僕のもとへと歩いてくる。どうやら靴はもう脱いでしまったらしかった。
「それより、どうだい。ボクと一緒に飛び込んでみないか。君と一緒なら少しは幸せに死ねる気がするんだけど」
「え――」
気が付いたときには僕はもうその手を取っていた。誘われるように、導かれるように。闇に滑るような細い指先は僕の腕をいとも簡単に絡めとる。
強烈な浮遊感。
自分の全てを空中に置き去りにして躍らせるような感覚を覚えた時には、もう全てが遠くにあった。
轟音にも似た風が僕たちに吹き上げたような心地がする。実際は僕たちがただひたすら高速で堕ちているだけなのだけど。
「優しいというのはね、罪なんだよ」
泣きそうな声音の少女は、僕をぎゅっと強く抱きしめた。
「優しくされただけで、人間は生きることが嫌になることがあるんだ。そんなものは稀有なのかもしれないけれどね。だけど、ボクはそうなんだ。本当に優しい誰かと人生を終わらせたかったんだ」
千切れるほどに冷たい感触。
「中途半端に事情を理解される方が屈辱だった。それなら何もわからないで虐げられた方がずっとマシだった。でも、ボクは今日、君に出逢ってしまったから」
身体がぐちゃぐちゃに破壊されるような痛み。全身の骨が砕けて、その内側の臓器が押しつぶされる不快な感触の中、僕は少女の声を聴いている。
「もう全てをかなぐり捨ててしまった後だったんだ。ボクは、ボクをボクと定義する全部を消し去ってしまった後だったんだよ。もう一度生きる準備なんてできていなかったんだよ。でも今更一人で死んで仕舞うのが怖くなってしまった。世界にはボクを分かってくれる人が居たのかもしれない。そんなことを考えた時、未練を思い出してしまった」
だから、君という未練を残さないように――。
途切れる意識の中、その言葉が延々と脳裏を駆け巡っていた。
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