病弱で寝たきりで多分もうすぐ死ぬ後輩
無機質な電子音。人間の生命を電子音に変えた響き。
喉の奥が凍てつくような、冬の日のことだった。
僕は自動販売機で買ったココアをちびちびと飲みながら、静謐な廊下を歩いて、後輩の入院している病室に足を踏み入れた。
足音は僕一つだ。看護師さんも、他の患者さんもいない。
「寂しい場所だな」
そう、思ったまま口にする。
目の前の少女は瞳を開いた。
よかった、まだ生きていた。
「そうっすかね…あはは、アタシはなんだか落ち着く感じがして好きっすけどね」
強がりなのは目に見えている。元来は天真爛漫な少女だった。運動をさせれば誰にも負けなかった。足も速い。反射神経もいい。センスも才能もスキルも、他の誰より飛びぬけていたスポーツ少女。
けれど今は、様々な管に繋がれていないと生きていることすら難しいみたいだ。
形あるものはいずれ崩れるとは言うけれど、こんなに早くなくていいじゃないか。僕は何度も神様とやらを恨んだ。
「…酷い顔してるっすよ」
「こっちの台詞だ。何生意気に人様の顔色なんて窺ってる」
お前はただ、心配される側でいればいいんだ。遠慮も配慮も、僕が一方的にすればいい。お前はただ、笑顔でいてくれればそれで。
「あはは…先輩はいつでもやさしーっすね。得体の知れない奇病って噂、聞いたんすよね。実際はまぁ、人にはうつらないとは言いますけど。そもそも症例が少ないから報告されてないだけだって、皆気味悪がって近づかないじゃないっすか」
「でも、うつらないんだろ」
「それは、そうっすけど」
じゃあいいじゃないか。僕は壁に溶け込むようにして埃を被っていたパイプ椅子に腰を下ろした。骨が軋むような寒さが伝播した。
「先輩ってそういうとこ、かっこいいっすよね。惚れちゃいそうっす」
力なく、それでも嬉しそうに笑いながら、彼女は骨と皮だけになった指で白い頬を掻いた。楽しそうに走り回って日に焼けていた彼女が、まさかここまで衰弱してしまうなんて、夢にも思わなかった。どんどん弱っていく彼女を見て、僕は「死に化粧でもしているみたいだ」と思ってしまって、縁起でもないことを考えてしまう僕の弱さがただ悔しかった。
「……センセが言うには、どんなに長く見積もっても1週間らしいっすよ。笑っちゃいますよね」
掠れるような声で笑う後輩は、泣いていた。僕はその涙を拭うことも抱きしめることもできなかった。そんなこと、僕に出来るはずがなかった。
僕はこの先も何十年と生きていける。でも彼女の未来はほんの1週間だ。ただ生きていることがどれだけ幸福なのか、それが分からないほど僕も鈍感ではなかった。
お前に何が分かる、なんて彼女は言わないだろうけど。優しい彼女にそんな我慢もさせたくないから、僕は分かったふりなんてできないのだ。
「あーあ、もっと生きてたかったな……先輩、羨ましいな……」
流し目でこちらを見て、その後に小さく後輩は泣きながら「すみません」と付け加えた。怒る気にはなれなかった。
「もっと、あるだろ」
「そう、ですね…せっかく先輩が来てくれたんですし――」
「違う」
きょとんとした顔に向かって、僕は言った。
「もっと、たくさんあるだろって言ってるんだよ。僕なんかでよければ聞く。どんな酷い言葉でも、どんな理不尽な嫉妬でも聞いてやる。……だから、変な気遣いしないでよ。後輩なんだからさ」
「またまた」
人懐っこい笑み。
「…えっと」
逡巡するような顔つき。
「いいん、ですか」
再び泣き出しそうな瞳。
ころころと表情が変わる女の子だ。もっと君のたくさんの表情を見ていたい。素直にそう思った。
「先輩は、ずるいです」
「そっか。ずるいのか」
「はい、私がいなくても、先輩の世界は止まらないっす。それどころかどんどん早くなる。高校生の頃の後輩なんて、その時間には追い付けないっすよ。温もりも冷めていきます。情も消えてなくなります。きっとそうなるっす」
「…うん、君はそう思うんだ」
「はい。そして私は、それがとっても悲しくて嫌っす。先輩が、私がいなくても生きていけることに気が付いてしまうのがどうしても……いや、別に今私なしじゃ生きていけないって思われてるだなんて思いあがってはいないっすけどね。だけど、そうだなぁ…なんて言えばいいんすかね……」
迷うような口ぶりの彼女は、僕から、すっと目を逸らす。
珍しく雪が見える硝子の窓。
張りぼてのようなそれに写った彼女が、僕の方を見て言った。
「先輩、好きっす」
「………そっか」
「はい」
今度泣くのは、僕の番だった。
もうすぐ18歳になって成人になるというのに、僕は大きな声をあげて泣いた。みっともなく、馬鹿みたいに泣いた。
そんなことを今更言われて、僕はどうしたらいいんだ。僕は君に何も返せない。こんなに大きな気持ちを贈ってくれたのに、僕が気持ちを贈りたい君はもうじきいなくなってしまうなんて。
嫌だ、死なないでくれ、ずっと僕の傍にいてくれ。健康じゃなくたっていい、傷ついたっていいから、なんでもいいんだ、僕を君の隣に居させてくれ、そのための努力ならなんだってする。
血の通った君の笑顔を見ていたい、それだけなのに。
「…先輩、もういいんすよ」
「よくない……全然、よくない……」
「そうっすね……仰る通りっす」
声を揃えて泣いた。
世界に僕たちが二人だけな様な気がした。
寒々しい病室だけど、今は苦しいほどに熱を帯びている。
もうなにもかもが遅すぎたっていうのに、
君を大事にしたくて堪らない。
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