第30話 本当の望み
俺たちが直面している諸問題のうち、現状最も重大なのは俺と朱乃の約束に関する改変に失敗したことだ。
他の改変に関しては全て上手くいったのに、なぜこれだけは失敗したのか。
そこを明らかにしないことには今後も重要な場面で二号の発生に失敗するかもしれないという懸念は消えないし、何より朱乃の絵を取り戻すことができない。
「まあ、クラスメイトとの関係が良くなる分には困ることもないし、これは放置でいいとしてだ。二号の発生に失敗した理由、何かそれらしいもの思いついたか? もしないなら――」
「思いついたよ」
そんな心当たりがあるなら最初から言っているだろうし、あくまで形だけの確認のつもりだったのだけれど。
俺の予想に反して、涼音の口からはこの状況を一気に変えられそうな答えが返ってきた。
「心当たりがあるのか? なら、何でもっと早く言わない」
「それはまあ、ちょっとね」
歯切れの悪い涼音の返答から察するに、彼女の思いついた理由というのは解決の難しいものなのかもしれないけれど。
どんなに困難な課題であれ、理由がわかるなら何を解決すればいいのかさえわからない現状よりはマシだ。
「涼音、教えてくれ」
「それはもちろん、そのつもり。でも、その前に」
対面の席に座る涼音が、そっと右手を差し出してくる。
「神隠しに関する改変をなかったことにしたいの。手を貸してくれる?」
「……本気か?」
「もちろん」
涼音の意図が読めず、些か困惑してしまう。
確かに、改変後のセカイで涼音は度々居心地悪そうにしていたし、必ずしも全てがプラスになっているとは思えないけれど。
それでも、彼女にとって父親との和解は長年望み続けてきたことのはずだ。
俺の場合は朱乃が絵を描かなくなるという致命的な問題が生じた故に改変をなかったことにする以外の選択肢がなくなったけれど。
涼音は、そうじゃない。
本当に、もういいのか?
「大丈夫だから、ほら」
「……わかった」
涼音に促されて、胸の内の疑問には蓋をして涼音の過去に関する改変をなかったことにするべく彼女の手を握る。
「な、また……」
伸ばした手から伝わる柔らかな感触は間違いなく俺と涼音の手が繋がれていることを教えてくれる。
けれど、セカイは歪まず改変は起こらない。
意図せず二号の発生に失敗するのは、これで二度目だ。
「そっか。やっぱり、そうなんだ」
「おい、どういうことだ。説明しろ、涼音」
繋がれた手を解き何やら訳知り顔で頷いてる涼音に説明を求めると、彼女は俺の顔を見ながら困ったように目を伏せた。
「二号は私たち二人が望まない限り発生しない。たとえ藍川一人が望んでいても、私に違う想いがあるなら失敗するのは必然じゃない?」
「……つまり、今の失敗はお前のせいってことか? だが、だったらどうして二号を発生させようなんて言い出した。望んでないなら、最初から何もしなければいいだけだろ」
俺の問いかけに対する答えとして、涼音が小さく首を横に振る。
「別に、望んでないわけじゃないよ。今回の件でようやく気付けたけど、私はお父さんと家族ごっこがしたいんじゃなく、ちゃんと話したかっただけなの。ちゃんと話して、ちゃんと喧嘩して、ちゃんとさよならを言う。それが私の本当の望み」
涼音は父親と相対したとき、常に息苦しそうにしていた。
だから、本人がそう言うのなら本当の望みとやらが嘘ではないのだろうと納得できる。
そして、その望みを叶えるために必要なのはこのセカイで本音を押し殺すことではなく、元のセカイで父親相手に恨み言でも何でも本音をぶちまけることだろう。
「なら、なおさらわからないな。お前の本当の望みとやらを叶えるためには、二号を発生させ改変をなかったことにするべきだろ。なのに、それがなぜ二号の失敗に繋がる」
涼音の矛盾した言動を指摘しても、彼女は相変わらず困ったような表情を浮かべるだけだ。
「今朝、二人で仲良さそうに手を繋いでたよね?」
「は? そりゃ、繋いでたが……あれが今関係あるのか?」
唐突に今朝のことを蒸し返してきた涼音の意図が分からず問い返すと、彼女は表情を和らげ微かに微笑んだ。
「あれは、嫌なだけだった?」
「……別に、そんなことはないが」
「私も同じ。お父さんと一緒にいるのは息苦しいけど、でも昔みたいで嬉しかった。長瀬に友達扱いされるのは鬱陶しいけど、話してるうちに一緒に映画に行くくらいならいいかって思い始めてたのも本当」
涼音はそこで言葉を区切ってから、もう一度俺の手を握ってみせた。
「別に、改変をなかったことにしたいって気持ちが一から十まで嘘だとは言わないけどさ。でも、今のままでいたいって気持ちと比べたとき、強いのはどっちなんだろうね」
相も変わらず周囲には他の客の話し声が満ち、天井から降り注ぐ照明の光も、手元にあるコーラの入ったグラスも、まるで歪む気配がない。
俺は朱乃が絵を描いていないとわかったときから、片時も忘れることなく俺たちの約束を取り戻すことを望み続けてきた。
それなのに二号が発生しないということは、原因は涼音側にある。
あくまで、そのはずだ。
「一応言っておくけど、私は今藍川たちが約束を取り戻すことを心の底から望んでるよ。これに関しては断言してもいい」
「……わからないだろ、人の胸の内なんて。自分ではそうだと思っていても本当は違うかも――」
「じゃあ、私が藍川たちの約束について何か躊躇う理由がある?」
ないだろう。
涼音にとって、俺と朱乃の約束なんてあくまで概要を聞いただけの他人事だ。
自身の父親にまつわる事柄ならともかく、約束に関して躊躇う理由は一つもない。
「二人が望んでいないことは実現できない。そういうことじゃないの」
「……っ」
劣等感を抱く必要のない朱乃と恋人として付き合う。
なるほど確かに、それは魅力的だろう。
朱乃は可愛いし、恋人として一緒にいるのは正直楽しい。
だけど、俺は朱乃にそんな都合がいいだけの関係を望んでるわけじゃない。
そのはずなのに、反論のため開いた口からは終ぞ意味のある言葉は出てこなかった。
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