第21話 特別な理由


 俺と朱乃が付き合っているという事実に面食らい少々気を取られてしまったけれど。


 本来、俺が真っ先に確かめるべきなのは約束のことだ。


 ようやく少しは落ち着いてきたし、これ以上妙なことになる前に一番大事な事柄を確認しておこう。


「朱乃、小三の夏休みに一緒に本を作ろうって約束したの、覚えてるか?」


 少し硬くなってしまった声でかつて交わした約束について尋ねると、朱乃は怪訝そうな表情を浮かべ軽く首を傾げた。


「何それ。そんな約束したっけ?」


 ……やった。


 正直、半信半疑だった。


 でも、間違いない。

 朱乃は約束のことを何も覚えていない。


 このセカイにおいて、かつて交わされた二人の約束はなかったことになっている。


「……ハハ」


 思い通りの結果が出たことで気が抜けたのか、俺の口からは乾いた笑い声が漏れ出していく。


 ようやくだ。

 俺はようやく、ただ幼馴染として彼女と向き合うことができる。


 約束を破った罪悪感も、自分だけが約束を果たす力を持っていなかった劣等感も、全てはもう必要ない。


 知らず、俺の全身からは力が抜けカーペットの上に背中から倒れ込んでいく。


「ちょ!? 真夏!? 大丈夫なの?」

「大丈夫だ。もう、全部終わったから心配するな」


 朱乃は不安そうに俺の顔を覗き込んできているけれど、本当にもう何も心配はない。


 ただ、そうだな。

 せっかくだから、今は朱乃が描いた絵を見てみたい。


 小学生のときはできなかったけれど。

 今度こそ、俺はちゃんと彼女の絵を褒めることができるはずだ。


 朱乃の絵を見るため仰向けになったまま鞄へ手を伸ばし、中を漁ってスマホを取り出す。


 そして、SNSに上がっている絵を確認しようとしたところで、フォローしているアカウントの中に朱乃のペンネームであるアキノの名前がないことに気づく。


 いや、それだけなら別にいい。


 二号の影響でペンネームが変わるということも、まあなくはないだろう。


 だが、どれだけ探しても俺がフォローしているアカウントの中に自作のイラストをアップしているものは一つもない。


 まさか、朱乃のやつプロとしての活動どころかSNSにイラストをアップすることさえしてないのか?


「朱乃、お前普段は絵を描いた後どうしてるんだ? もしかして、俺に見せて終わりか?」


 俺が跳ね起き絵の行方について尋ねると、朱乃は約束について確認したときと同様に怪訝な表情を浮かべた。


 その表情を見て、嫌な予感が頭に浮かび背筋を冷たい汗が伝っていく。


 いや、大丈夫だ。

 朱乃に限って、そんなことあるわけがない。


 大方、今の彼女は俺ならば知っていて当然の自分の絵の事情について尋ねられたことに対し驚いているだけだろう。


「絵がどうこうって、またその話? そもそも、絵を描く機会なんて美術の授業くらいしかないんだし、描き終わったら先生に提出して終わりに決まってるでしょ」


 俺が自分を納得させるために考えていた拙い理論を粉砕するかのように、朱乃はそれが至極当然といった態度で決してあってはならないことを口にする。


 朱乃は俺なんかとは違う、本物の天才だ。


 だから、俺が叶うことのない約束を思い下らない葛藤を続けている間にも、一人で歩き続け決して手の届かない場所まで行ってしまう。


 寂しくないとは言わない。

 でも、それでいいのだ。


 それが正しいから、ちゃんと正しいことを正しいと思えるように俺は二号を利用した。


「……朱乃、今から俺の似顔絵を描いてみてくれないか?」

「え、何で――」

「頼む」


 朱乃なら、実際に絵を描けば俺の不安なんて吹き飛ばしてくれるかもしれない。


 微かな希望に望みを託し困惑する朱乃へ頭を下げると、彼女は不承不承といった様子で筆箱とノートへ手を伸ばし俺の方を見ながら覚束ない手つきで絵を描き始めた。



 絵が完成してすぐにノートを引ったくるようにして受け取り目を通す。

 すると、そこにあるのは本来の朱乃の絵とは似てもつかない何かだった。


 似顔絵の顔にはマネキンでも描いているのかと思うような無表情が浮かび、左右の均整はやや崩れている。

 髪の描き方はのっぺりしているし、そもそも描き上がる速度自体が本来の彼女とは比べ物にならないくらい遅い。


 もしもこれが絵を描く練習なんて全くしたことのない素人の作品だと言うなら、寧ろよく描けていると褒めてもいいくらいの出来栄えではあるのだけど。


 折笠朱乃の、或いはアキノの作品だと言われたなら、俺はきっとそれを信じないだろう。


 ああ、そうだ。

 こんなものが、朱乃の絵であるはずがない。


「朱乃、お前どうしたんだ? 何で、こんな……」

「何よ、失礼ね。そもそも、真夏が描けって言ったんじゃない」

「それは確かに、そうなんだが。……お前、いつから絵を描いてないんだ?」


 このセカイで朱乃はまともに絵を描いていない。


 それはもう、嫌というくらいわかった。


 だから、二号を利用して朱乃が絵を描かなくなった原因を必ず排除する。


 今俺がすべきなのは、二号がどう作用して朱乃が絵を描かなくなったのかを突き止め何をなかったことにするべきか確かめることだ。


「いつからって、別に絵を本格的に描いてた時期なんて……あ、そういえば小三くらいまでは従妹の真似していろいろ描いてたわね。あの頃は市のコンクールに応募してみようかなーとかちょっとだけ思ってたし、一応描いてたって言っていいのかしら」


 朱乃が従妹から絵を教わったことは俺も知っているし、ここで言う市のコンクールとは彼女が最優秀賞を受賞し俺がその才能を思い知ることになったあのコンクールのことだろう。


 そして、ここで応募しようと思っていたという言い回しを選ぶということは、彼女は実際にコンクールへ応募することはなかったのだろう。


 まだ断定はできないが、彼女が絵を描かなくなった原因はどうにもこの辺りにありそうだ。


「それなら、何でコンクールに応募しなかったんだ? 何かトラブルがあったとかか?」


 何か事件や事故に巻き込まれて絵どころではない事態に陥ってしまった。

 俺がそんな可能性を考え理由を尋ねると、朱乃はどうでもよさそうに首を横に振った。


「別に、そんなんじゃないわよ。ただ、そこまでするような熱意がなかったってだけ」

「熱意がない? でも、絵は描いてたんだろ? なら、ちゃんと評価されたいとか思わなかったのか?」

「全然。絵を見せたらパパやママは褒めてくれてたし、そもそも知らない人に絵を見せるなんて恥ずかしいじゃない。特別な理由がない限り、知らない誰かにまで評価されたいなんて思わないわよ」


 逆説的に言えば、二号による改変を行う前の朱乃には身内以外の評価を求めるようになる特別な理由があったということだろう。


 そして、二号による改変が何らかの作用を及ぼし朱乃からその理由は失われた。


 だが、その理由とは何だ。


 一体、どういう理由があれば朱乃は絵を描くようになる。


「例えば、どんな理由があればお前はコンクールに応募してたと思う?」


 朱乃本人なら何かヒントになるような答えをくれるのではないか。


 そんな期待と共に俺が疑問を口にすると、彼女は少しだけ虚空へ視線を投げ悩むような仕草を見せてから何でもなさそうな調子で口を開いた。


「そうね。もしも真夏にプロの画家になれるとかおだてられてたら、その期待に応えたくて応募してたかもしれないわね」


 元のセカイでも俺は朱乃にプロになれるなんてことを言った覚えはない。


 けれど、期待に応えるためというのはあり得そうな話ではある。


 朱乃は誰かにイラストレーターとして活躍することを期待されたが故に、そのための第一歩としてコンクールへ応募した。

 元のセカイで朱乃がイラストレーターとしての道を歩み始めた経緯は案外こんな感じなのかもしれない。


 もちろん、まだ決めつけはできないが、とりあえずはそういう方向性で探ってみるのもいいだろう。


 そこまで考えたところで、ふと俺と朱乃が小三のときに交わし今はなかったことになった約束のことを思い出した。


 あのとき俺は自分たちで物語を書き、それに挿絵を添えて本を作ろうと言った。

 そして、コンクールで賞を取ったことを褒める俺に向かい、彼女は何と言った?


 文章を書くのは得意じゃないから、絵で頑張る。


 彼女は確かにそう言っていた。


 俺と違って、彼女は本気で約束を果たそうとしていたのだ。


 もしも、彼女にとって約束の先にあるゴールがプロとしてデビューし本を出版することだったなら、当時の彼女がコンクールに応募してでも応えたいと思った期待というのは……。


 そんなはずはない。


 俺との約束にそこまでの価値はないはずだ。


 そう思っているはずなのに、俺の頭の中では一つの疑念が結論へと変わろうとしていた。


 朱乃がイラストレーターとしての道を歩み始めた最初のきっかけ。

 それは、俺がなかったことにした約束なのかもしれない。

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