第19話 なかったことにしたその先で


 二号による空間の歪みが消え最初に現れたのは、特にこれといって変わったところのない見慣れた二年六組の教室だ。


「まだ何とも言えないが、ここら辺に変わりないのはとりあえず一安心って感じだな」


 俺が辺りを見回してから目に見えるような変化がないことを確認すると、教卓へ向かった涼音はクラスの名簿を眺めてから頷きを返してきた。


「そうだね。二年六組の面子に変更はなさそうだし、私や藍川が別の学校に通ってるって事態は避けられたみたい」


 学校で確かめておきたいことは他に幾つかあるにはあるけれど。

 最低限、二年六組の面子に変更がないことがわかったのなら、それ以外の疑問に関しては一端棚上げでもいいだろう。


 それよりも、今は朱乃との約束がどうなかったのか知りたい。


「涼音、お互いにいろいろと確認したいものもあるだろうし、一端別行動ってことでいいか?」

「うん。それでいいと思う。けど、情報共有は滞りなくしておきたいし、何があっても明日の朝七時には正門前に集合ね」

「了解」


 お互いにどこかそわそわとした雰囲気のまま涼音と別れた俺はいつもと同じ道を通り、朱乃の家を目指して歩いていく。


 いざ確認するとなると、少しばかり怯む気持ちもないではないけれど。


 ちゃんと自分の目で確かめないことには何も始まらない。



 ◇



 大きく息を吐き出してから、覚悟を決めて朱乃の家のインターフォンへ指をかける。

 

「まなちゃん、どうしたの? 朱乃ならまだ部活だと思うけど」


 玄関の扉を開き俺を出迎えてくれたのは、想定とは異なり朱乃ではなく彼女の母親である岬さんだった。


 てっきり、朱乃は家に帰っているものだとばかり思っていたけれど。

 岬さんの口ぶりだと、彼女はまだ文芸部の方に顔を出しているらしい。


 少し、意外ではある。


 朱乃が五月末締め切りの仕事をまだ残していることは本人の口から聞いて知っている。

 一応、締め切りまではまだ一週間程あるとはいえ、そろそろ朱乃も焦ってくる時期のはずだし、いつもならこんなタイミングで部活に顔を出したりはしないのだけど。


 今回は俺が思っているよりも調子がよくて、もうほとんど描き終わっているのだろうか。


「そうですか。朱乃に用があったんですけど、そういうことなら出直します」

「あら、それなら家で待ってればいいじゃない。朱乃も、たぶん後一時間もしないうちに帰ってくるわよ」


 朱乃には一刻も早く約束のことを確かめたいし、また学校に戻るつもりでいたけれど。

 入れ違いにでもなったら却って時間を無駄にすることになるし、岬さんがこう言ってくれるならここは大人しく朱乃の家で待っておいた方がいいかもしれない。


「じゃあ、お言葉に甘えて。お邪魔します」


 岬さんに挨拶してから、いつも通り二階にある朱乃の部屋へ向かい扉を開ける。


「ん? どういうことだ?」


 水玉模様のカーテンに、小学生の頃から使っている勉強机、朱乃の部屋の内装に極端な変化はなく俺の記憶と符合する箇所は多いけれど。


 少なくともざっと見回してみただけでは、この部屋のどこにもパソコンや液タブの姿を見つけることはできない。

 

 外での落書きはともかく、依頼されたイラストを仕上げるために朱乃がこれらの道具を使わないなんてことはあり得ないし、必ずどこかにあるはずなのだけど。

 

 見当たらないということは、外に持ち出して作業してるのか?


 基本的に集中して描きたいときには自室に籠る彼女が外で作業をするというのは些か考えにくいけれど、このセカイには二号による改変が施されている。


 そこら辺に変化があっても、おかしくはないのかもしれない。


 まあ、何はともあれ、朱乃本人に会わないことにはどうしようもないし今は待つしかないか。



 ◇



「あ、真夏。今日、何で部活こなかったのよ?」


 朱乃の部屋で三十分程待ったところで、扉を開く音と共に朱乃が現れ俺が部活に行かなかったことについて疑問を投げかけてきた。


 ここ最近の俺は涼音に付き合って部活を休むのが常態化していたし、二号発生前ならこんな疑問は出なかったはずだけど。

 ここら辺は、改変による副作用といったところか。


「まあ、ちょっと用事があってな。それより、お前の方こそ何で部活行ってるんだ? 締め切り、大丈夫なのか?」

「締め切り……って、何の?」


 いきなり約束の話というのも不自然な気がするし、まずは無難なところから。

 そう思って俺が口にした疑問に対し、朱乃は怪訝そうに眉を顰めた。


 どうにも、引っかかる反応だ。


 きちんと彼女がイラストを担当しているライトノベル、『無限回目の月夜』五巻の挿絵と明言しなかった俺も悪いと言えば悪いのかもしれないが、朱乃のやつこんなに察しが悪かったか?


「何って、『無限回目の月夜』のイラストに決まってるだろ。あれ、締め切りは今月までだろ」

「えっと、何の話? その、むげん何ちゃらと私に何の関係があるわけ?」


 朱乃は心底理解できないといった様子で首を捻っており、少なくとも俺には嘘はついていないように見える。


 まさか、改変後のセカイで朱乃は『無限回目の月夜』のイラストを担当してないのか?


 気になってスマホを取り出し出版社の公式サイトを確認してみると、『無限回目の月夜』作者である星見光の隣に記載されているのは朱乃のペンネームであるアキノではなく、俺でも知っているような有名イラストレーターの名だった。


「……クソ」


 思わず衝動に任せてスマホを放り投げそうになったが、何とか悪態をつくだけに留めておいてから深呼吸して辛うじて冷静さを取り戻す。


 二号の力を利用すると決めた時点で、自分の意図しない部分で元のセカイと違いが出ることは覚悟していたはずだ。


 何もイラストレーターとしての仕事が『無限回目の月夜』以外に存在しないというわけではない……いや、仮にこのセカイでは朱乃がまだプロとしての活動を始めていないのだとしても、彼女の描く絵の美しさ自体に変わりがあるわけではない。


 どのみち、彼女なら遅かれ早かれイラストレーターとして活躍する場は巡ってくるだろうし、『無限回目の月夜』だけに拘る必要はない。


「朱乃、今受けてるイラストの仕事って何かないのか?」

「あるわけないでしょ、そんなもの。というか、どうしたのよ? 真夏、さっきから明らかにおかしいわよ」

「別に、何でもない。気にするな」

「気にするなって……」


 朱乃は些か納得いかなそうにしているが、まあこの際多少やり口が強引になるのは仕方がない。


 それよりも、重要なのは彼女が現在イラスト関係の仕事を一切していないということだ。


 俺としても不本意な結果ではあるが、どうやら二号の改変によって何かしらの歯車が狂い彼女はプロとして活動を始めるきっかけを逃してしまったらしい。


 SNSに絵を投稿し続けて声がかかるのを待つだけというのも些か消極的な気がするし、こうなると彼女には何かしらの賞へ応募するよう勧めるべきだろうか。


「ああ、それより、先に約束のことを確かめなきゃな。明日は朝一で涼音と情報共有だし、今は対策を考えるより現状把握を優先して――」

「真夏」


 俺が自分のすべきことを口に出して混乱する頭を整理していると、不意に底冷えのする声が響き反射的に体が強張るのがわかった。


「涼音って、一ノ瀬さんのことよね?」

「一ノ瀬? って、ああ、そうか。うん、確かに一ノ瀬涼音のことで間違いないな」

「何で真夏が一ノ瀬さんのことをそんな風に呼んでるの? 今日だって、真夏は普通に一ノ瀬って呼んでたと思うんだけど」


 なぜだか涼音の呼び方について言及する朱乃はすこぶる機嫌が悪く、今にも本気で怒りだしそうな雰囲気だ。


 確かに朱乃は涼音に対してあまりよい感情を持ってはいなかったけれど、それにしたって少し反応が過剰ではないだろうか。


「別に、大したことじゃない。ただ、一ノ瀬よりは涼音の方が互いにしっくりくるからそう呼んでるだけだ」

「へー、そう」


 二号に触れていないだけで、それ以外の部分では割と正直に理由を話してみたのだけれど。


 何というか、俺に向けられる朱乃の視線は寧ろ冷たさを増した気がする。


「真夏、一応言っておくけど。……浮気したら、殺すから」

「ああ、わか……いや、待て。浮気?」


 朱乃を宥めるためとりあえず頷きを返そうとしたところで、ふと言葉のチョイスに違和感を抱き台詞を止める。


「なあ、朱乃。念のため聞いておきたいんだが、浮気ってのは涼音と二人であれこれやるのもいいけど、お前を蔑ろにするような真似はするなよとかそういう意味だよな?」


 俺が違和感について尋ねると、ただでさえ鋭かった朱乃の視線がより一層細められた。


「は? 馬鹿じゃないの。一ノ瀬さんと二人きりなんて、許されるわけないじゃない。私を蔑ろにしないのは当然として、他の女と二人きりになるのも可能な限り避けろって言ってんのよ」


 朱乃はそこで一端言葉を区切ってから、それまで発していた冷淡な空気を和らげ照れくさそうに視線をあちこちへ彷徨わせ始めた。


 よくわからないが、朱乃の機嫌は直ったのか?


 朱乃の様子を見て俺が抱いた楽観は、続く彼女の言葉によって見事に打ち砕かれることとなる。 


「その、真夏は私の彼氏なんだから」

「……は?」

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