第18話 望んだ場所へ踏み出して


 朱乃によって自分の本音に気づかされた翌日、俺と戸滝は初めて二号を発生させたときと同様に二人で放課後の教室に残り、クラスメイトがいなくなるまでの時間を何をするでもなく静かにすごしていた。


「もったいぶっても仕方ないから単刀直入に言うぞ。戸滝、俺は俺たちの後悔をなかったことにすると決めた。だから、手を貸せ」


 俺たち以外の人間がいなくなったタイミングで俺が自分の結論を告げ右手を伸ばすと、戸滝は驚いた様子で目を見開き微かに腕を震えさせた。


「えっと、別にそれがダメなんて言う気はないんだけど、いいの? 今回の改変はどうしても影響の出る範囲が大きくなっちゃうし、仮にもう一回二号を発生させて改変をなかったことにしても、私たちとそれ以外の人間とで記憶に大幅な乖離が生じるのは避けられないと思うんだけど」


 戸滝の言うことは当然俺も懸念していたことで、普通に考えれば二号による改変を断念する理由として十分過ぎるけれど。


 この際、そんなことはどうでもいい。


「いいんじゃないか。もし何か問題が起きたら、まあ、そのときはそのときだ。俺たちには二号があるんだし、何とかなるだろ」

「何とかって……」


 戸滝は俺のいい加減な物言いを聞いて怪訝そうな表情を浮かべているけれど、やはり反対しようとはしない。


「だって、諦められないだろ」


 結局のところ、どんなにリスクを並べ立てたところで俺にとってはこの一言が全てなのだ。


 そして、俺が思うに戸滝の本心も俺とそう遠くない所にある気がする。


「お前だって、本当は諦める気なんてないんじゃないか?」


 投げかけた問に、戸滝は答えようとしない。


 ただ、伏し目がちに黙っているだけだ。


 本当は彼女が自分で答えを口にするまで待つべきなのかもしれないけれど。

 

 俺は既に正しかろうが正しくなかろうが、自分の目的を諦めないと決めている。


 だから、まどろっこしいあれこれはすっ飛ばして直截に彼女の本音を確かめてみるとしよう。


「戸滝、本気で嫌ならちゃんと避けろよ」


 一応、最低限の前置きだけしておいてから、未だ膝の上に置かれたままの戸滝の左手へ向かって強引に右腕を伸ばす。


 戸滝はその動作を見て俺が何をしようとしているのか察したらしくハッとした表情を浮かべたが、その場から動くことはなく俺の手を避けようとはしなかった。


 そして、戸滝のほっそりとした白い手に見慣れた俺の右手がそっと重ねられる。


「……こういうやり方って、ずるいと思うんだけど」

「かもな。けど、嫌じゃないだろ?」


 少しだけ拗ねたような表情を浮かべる戸滝の背後では、見慣れた教室の景色がぐにゃりと歪んでいる。


 戸滝は最後まで口に出してはいなかったけれど。

 手と手が触れ合って、こうして二号が発生したということは俺と戸滝の目指すものは同じだったということなのだろう。


「ねえ、藍川」

「何だ」

「もしも改変の結果が私の思い通りになってるなら、たぶん私の苗字は戸滝じゃなくて一ノ瀬になってると思うの」


 確かに、戸滝は以前もそういった旨のことを言っていたけれど。


 俺にとって、目の前にいる彼女は戸滝涼音とだきすずねだ。


 正直、今から旧姓の一ノ瀬に戻ると言われても違和感しかない。


「けど、今さら藍川から一ノ瀬って呼ばれるのも気持ち悪いし、涼音でいいよ」

「えっと……」


 戸滝の言っていることはちょうど俺も感じていたことだし、苗字が変わることに違和感があるなら名前呼びで統一すればいいという提案は至極まっとうだと思うけれど。


 何というか、こう、深い意味などないとわかっていても、彼女を涼音と呼ぶのは一ノ瀬と呼ぶのとはまた違った違和感があるというか。


 いや、まあ、彼女の母親のことだって既に那由さんと呼んでいるのだから、戸滝のことを涼音と呼んだって別におかしくはないのかもしれないけれど。


 最近、彼女に対して親近感を抱くことが多いせいか、あまり馴れ馴れしい呼び方をしていると自分と彼女の距離感を間違えてしまいそうだ。


 朱乃との約束を無様に破ってしまったときから、どれだけ自分と同じ場所にいるように思える相手でも本当の距離は到底手が届かない程に隔たっていると理解したはずなのに。


 我ながら、学習能力がなくて嫌になる。


 いや、或いは、ここで彼女を涼音と呼んでなお互いの距離を過たないでいることこそ、俺が多少は成長するために必要なことなのかもしれない。

 

「まあ、そうだな。お前がいいなら、そうさせてもらうぞ……涼音」

「ん」


 俺が名を呼ぶと戸滝……じゃなくて、涼音は微かに顔を赤くしながら視線を逸らし、一言だけ返事らしきものを口にした。


「そういや、お前の方は苗字呼びのままだし、俺のことも真夏でいいぞ」


 俺一人だけが下の名前で呼ぶのも些か収まりが悪い気がして涼音に声をかけると、彼女は顔を赤くしたままふるふると首を横に振った。


「いい。何というか、その、私までそういう呼び方するとちょっとアレだし、今くらいの方が楽っていうか……別に、藍川は藍川のままだし」


 涼音の返事は曖昧で要領を得ない部分もあるけれど、言われてみれば俺の方が涼音と呼ぶだけでもアレなのに彼女まで俺のことを下の名前で呼びだしたら余計アレか。


 いや、まあ、そもそもアレって何だよって話ではあるのだが、そこを掘り下げたところでどう転んでも俺が恥ずかしい思いをするだけになりそうなので深く考えるのはやめておく。

 

「えっと、それより、そろそろ手、離すよ」


 涼音に言われて、俺も気持ちを切り替える。


 ここから先に待っているのは、今までで最も大きな改変の施されたセカイだ。


 何がどこまで変わっているのか俺たちにだって予想しきれないし、再度二号を使う必要がある場合には記憶の齟齬を最低限に留めるためいち早く問題を把握する必要がある。


 それに何より、この先にあるものこそ俺がずっと望んでいたものだ。


 だから、俺は大きく深呼吸して少し暑くなっていた顔を冷ましてから、ゆっくりと涼音の手と重なっていた自分の右手を持ち上げた。

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