花笑みのトラ

 話は少し遡るが、私たちの劇の結末については話し合う機会があった。

 つまり、雪乙女であるユキは彼女が覚悟を決めたとおりに、彼女の故郷から離れたハルたち人間の暮らす土地で溶けて消えてしまうのか、それとも救われるのか。

 たとえばデウス・エクス・マキナの登場による帰結、すなわち超常的存在による救済にも一考の余地があったのだ。

 それはユキがいなくなってしまうことで、ハルがまた大切な人を喪う経験をしてしまう、その点においてのバッドエンドのイメージを取り除きたいと思った部員たちによる発案だった。

 

 具体的に誰が初めに言いだしたかは些末な問題で、いの一番に反対したのはユキ役を演じるキャシー先輩だった。ハルにすべてを打ち明けて、自らの死を悟り、その儚い命を全うする。そのシーンこそが最大の見せ場であるのに、下手に都合のいい神様でも現れて救われたらたまったものじゃないわよ、と先輩は不服そうに異議を唱えたわけである。

 

 一方で私としては、悪くないなと思った。

 それはべつにユキというキャラクターに同情してのことではなく、ましてや私がハッピーエンドご都合主義者であるからでもない。ハルがユキに頼まれて、笑顔でのお別れを、本当の意味であたたかな心を取り戻せたのを証明できたのなら、何らかの褒美や成果があってもいいと考えたのだった。それがユキの蘇生でなくても、何か形あるものとして欲しくなってしまった。

 ただ笑ってみせて、それで幕が降りるのは嫌だなって。

 たとえ悲劇につきものであるカタルシスが薄れてしまっても、それでもなお私は希望を求めた。ハルの未来に繋がるような、ユキとの思い出を心にしまってなお、彼女の想いを確かに継いだ証拠めいた何かが。


 リハーサルのとき、それはようやく決まった。

 花恋が「雪を降らしましょう」と口にした。冒頭の雪山での遭難シーンにおいてそれは背景と吹雪く音だけで表現されて、紙吹雪を落とすなんてのもなかった。掃除するには時間がかかり、場面転換を速やかに行えないのが困るという現実的な理由があった。

 でも、舞台の最後であれば? 

 次に予定されている他のステージパフォーマンスまでにどうにかすれば。急げばいくらでもどうにかなる。舞台後なら暗がりで作業する必要もない。


「きらきらとした雪。星屑みたいな、そうです、煌めくダイヤモンドダストを降らせましょう」

 

 かくして福田先輩を主導に本番直前に、輝く細氷を作り出すことになったのだった。ぶっつけ本番での演出。ただの細かい紙吹雪を散らすのでは、観客席からでは塵や芥にしか見えないのではないか、そんな心配がなかったと言えば嘘になる。でもそれ以上に私は、ううん、私たちは信じた。きっと大丈夫。

 最後のシーンは室内という設定なのに、なんて野暮なことは誰も言わなかった。ユキの最期とハルの笑顔。そこに降り注ぐ幻想的な雪。それでいこうって。ステージ全体である必要はない。ハルとユキ、ラストシーンでスポットライトを浴びるそのふたりにだけでいいのだ。

 横たわるユキに寄り添うハル、そのふたりへの奇跡。



 そして実際にラストシーンを迎えた私は――――。


 思わず見上げた。

 降ってくるとわかっていたはずだけれど、その瞬間が訪れて思い出したふうに、私は、いや、ハルはそのきらきらとした「雪」が自分たち二人に降りてくるのを目にした。そうして私の頬を涙が伝った。笑顔でのお別れ、紛れもなく数秒前まではそれが果たせていたのに、私は泣いてしまっていた。それなのに、これでいいと思えた。これでいいんだって。やっと、私はハルを演じられた気がした。どんなにユキがハルとの別れに際して、悲しみのない場面を望もうとも、どんなにハルが強がって、涙を見せぬよう頑張っても、それでも別れはつらい。永遠だから。

 

 幕が下りる。ゆっくりと。そしてライトが消えた。

 

 閉じられた幕越しに、拍手の音がする。瞬く間に大きくなって、どんどん大きくなっていって、私の内側から熱いものが込み上げてくる。鼓動が早まり、腰が抜けたように身動きができなくなる。わかっている、次はカーテンコール。

 早く立ちあがって、それで定位置について、そして最後は生徒会の人たちにライトをつけてもらって、明るいステージ上で演劇部員みんなで並んで、それで私たちが演じたんだって、私たちがこの舞台を作り上げたんだって、それを来てくれた人たちに、見てもらうんだって、喝采を浴びるんだって……。


「夕夏さん」


 いつの間にか、花恋がそばにいた。またステージは暗い。でもその声を聞き間違えるわけがない。

 横たわっていたはずのキャシー先輩は既に立ち上がっているようだ。私ばかりが、そのステージに磔になっているみたいだった。だから、花恋が来たのだろう。来てくれたんだ。


「立てますか。肩、貸しましょうか」

「う、うん」

「こういうとき、もっとわたしに身長があれば! いいですか、せーのっ」


 そうして私は花恋に支えられつつ、ふらふらっと立ち上がった。


「最高でしたよ」


 私の頭を撫でて「雪」を落としながら、花恋が囁く。瞬間、熱さが増した。スポットライトの比じゃない。涙がまた出てきた。ハルとしてではなく、篠宮夕夏としての涙が確かに流れた。

 でも、まだ終わっていない。そうだよね。こんなところで泣きじゃくって、立てもしないだなんて恰好つかないわよ。最後まで、主役として。ここに立つ。そうよね。


 ステージが明るくなり、幕がまた上がる。その時になって他の部員、宮尾先輩や照井さん、木下部長に福田先輩、そして七尾先輩が揃っていることに気がつく。キャシー先輩が「やったな」と私の背を叩く。あ、先輩たち、普通に泣いているじゃん。


 そうして一度鳴り止む気配がした拍手は私たち演劇部勢揃いのお辞儀で、再び盛り上がるのだった。




 午後七時過ぎ。後夜祭は大変盛り上がっていた。

 屋外ステージで、飛び込みありの出し物が次々になされては、わぁっと声があがる。そのまま文化祭完全終了の午後八時まで盛り上がり続けそうだ。明日は片付けで一日使うのだけれど、そのことを真剣に考えている生徒はほとんどいないだろう。今は楽しむだけ。演劇部に入っていなかったとしたら、さっさと帰って、あくる日には楽しめなかった展示物の片づけを淡々としていたんだろうか。そんな暗い想像したって、しょうがないわよね。うん。もうしないでおこう。一区切りついて、私も一皮向けた気がするから。


 しばらくはぼんやりとステージを眺めていた私だが、隣にいる花恋に袖を引っ張られてまともな意識を取り戻す。どうしたのかと聞くと、この場を離れて話したことがあるらしい。今なの?と思わず確認しようとしたがやめておいた。花恋の表情には覚悟があった。


 演劇部室でもよかったのですが、と花恋は断って図書室の鍵を開けた。

 どうして鍵を持っているのか訊くと、タイミングを見計らって担当の先生から借りてきたらしい。忘れ物があって、今日中には帰すからと。

 文化祭で必要なものだと力説したら貸してくれたという。でも、どうして図書室なんだと、次の疑問が浮かんだ。


「鍵がかかる部屋であれば、邪魔が入らないでしょうから」


 そう言って図書室に入ってから鍵を内側からかける花恋。


「それに、わたしたちが最初に話した場所ですからね」


 なるほどと私は言えなかった。

 そこまで場を整えて、何の話をする気なんだって。

 いや……わかっている。たぶん、この子は……。どうしよう、緊張してきた。舞台の直前とはまた違うやつが。静まりなさいよ、私の心臓!


「ん、ん。まずは改めまして、舞台お疲れ様でした。いぇーい!」

「あ、うん。お疲れ様」

「夕夏さん、テンション低いですね」

「あんたが空回りしているんでしょ。えっと、打ち上げが後日あるとかないとか」

「そのへんは宮尾先輩が企画なさっていますよ。部長は受験生で忙しく、福田先輩はさすがに男子一人ってのはと断っていましたから、実質、女子会になりそうですけれど。桜庭会長も来る気みたいでした。まぁ、それはいいとして」

「……終わったんだね舞台。なんか実感わかない。無我夢中だったから」


 私の言葉に感慨深げに肯く花恋。


「たった一度の本番ですものね。もったいないというか、なんといいますか」

「普段はさ、小説を読んだり、映画を観終わったら、けっこう感想をネットで見るタイプなんだよね、私」

「意外ですね」

「うん。でも、自分がそういう立場、うん、素人ではあるんだけれど、評価される側に立ったらさ、怖い。今更そう思っている。舞台が終わって少ししてから、やっとそんな気持ちが出てきた。みんながみんな、手放しで褒めてくれはしないんだって。勘違いしないで。それで憂鬱になっているわけではないのよ。むしろ、それがなんだって思えているの。私は……誰が何と言おうが、今日の舞台はよかったと胸を張って言える。たぶん忘れられない思い出になった。でもね、それで充分かどうかは……これから決める」

「これから、ですか」

「そう。ねぇ、花恋。次は考えているの?」


 演劇部としての次。

 三年生である木下部長には助力をお願いできないだろうから、残りのメンバーで作り上げていくことになるのか。でも、いつ、どこで公演する? 学校行事? それともあの高校みたいに外部で? いずれにせよ、次があってほしいと思った。余韻はまだ残っているのに、この身がそれを教えてくれるのに、それなのに次を考えていた。


「乗り気ですね」

「そうね。けれど、今度は主演ってわけにもいかないかも」

「そうですか? 今回の一件で夕夏さんが人気者になる未来が見えるのですが。明日や明後日にでも。男女問わず、押し寄せて求婚してくるかもしれません」

「まさか。そこまでの影響力ってないわよ。まぁ、でも仮に人気が出ちゃったら、私はなんて呼ばれるんでしょうね」

「それは、うーん……篠宮だから、忍び……くのいち? 縮めてくのっち?」

「それはない。演劇要素どこいったのよ」

「真面目な話、夕夏さんが本気で主演を望み、他の皆さんもそれに同意すれば、次の脚本だってそれを想定して書き上げますよ。お忘れかもしれませんが、今回の脚本はもともと夕夏さんが主人公である前提での執筆だったんですから」


 オーディションのとき、正確に言うとその開催が決まった時にこの子は「信じている」と言った。結果として私は役を勝ち得た。彼女が望んだとおり、そして私が望んだとおりに。


「そのあたりは、みんなで話し合って決めないとかな」

「そう言うと思っていました」


 何が何でも主役じゃないと嫌っていう気持ちはなかった。もちろん、舞台には立ちたいけれどね。自分で思って、笑った。春の私が聞いたら、何の冗談だって笑わずに眉間に皺をよせるだろうな。


「それはそれとして」


 そう言って花恋が私に近づく。図書室に入ってから、なんとなく距離があった私たちだ。それを詰める。またドキドキが襲ってくる。


「『本題』について話してもいいでしょうか」


 夏風邪を引いて寝込んだ彼女が口にしたこと。

 

 『だから、元気になって、それで演劇がうまくいって、篠宮さんの最高の笑顔を見ることができて、わたしが……もう逃げないって心を決められたそのときは、伝えます。ですから、それまでどうか待っていてください』


 思い出す。思い出せる。忘れていない。


「私の最高の笑顔は見ることができたの?」

「ええ、たしかに」

「そう、それはよかった」


 私たちは見つめ合う。早く言いなさいよといつもだったら、そう促している。どうせまたろくでもない冗談が飛び出してくるだろうからって、軽くあしらってあげるわよってそんなふうに余裕綽々で悠然と構えて、それで、ちょっと意外なことには焦ってしまって、でも、なるべく私のままでいる。

 

 それが今はできない。できっこない。不思議。この子の目から逃げられない。あの日、逃げなかったように。夕闇迫る初夏の図書室で彼女と初めて話して、舞台にあがっててほしいと、ヒロインを演じてほしいと言われて、ここまできた。

 その子が今……私を見つめ、私はそれに応えている。


「夕夏さんが知っているとおり、わたしはお芝居が下手です」

「へ?」


 急になんだ。


「せめて自分の感情を素直に、もっとわかりやすく顔に、表にできたのならと考えることもあります。一方で、知られたくないとも、自分の弱さを曝け出すことに抵抗があるのも事実です」

「誰もがそうよ。大なり小なりね。ありのままで生きるのは難しい」

「そのとおりです。はい、まったくそのとおりなんです。だからこそ、演劇ってすごいですよね。ふふっ、すごいだなんて汎用性があって曖昧で抽象的な一語で表現するにはあまりに惜しい、無限の可能性がある世界です。それは実際に演じたあなたならわかってくれるはずです」

「そしてそれを目にした花恋も。他でもなくあの物語を書き上げた花恋だからこそ、よね?」

「ええ、そうです。繰り返すと、わたしはお芝居が下手です。これまでずっと夕夏さんの傍で、あなたへ贈りつづけてきた言葉は皆、えっと、冗談の類を除けば本気なんです、どれも」

「……つまり?」


 歓声が聞こえた。グラウンド、屋外ステージのほうだ。こんなところまで響く。

 でも視線は彼女から離さない。彼女もまた私を見つめ続けている。

 やがて音が失せる。


 花恋がその可憐な唇を動かす。一語、一語、丁寧に。でもそれは何かの台本の、台詞を読むのとは全然違って、紛れもなく藍沢花恋そのままの言葉だと信じられる。


「夕夏さん、舞台の外ではわたしの――――わたしだけのヒロインになってくださいませんか」


 花恋が右手を、瞳に浮かぶ決意とは裏腹におそるおそる、その小さな手を私に差し出してみせた。


「好きなんです。友達じゃ嫌なんです。あなたと恋人になりたいんです」


 上半身を折って、頭を下げて、ぐっと手をこっちに向けて。頼み込むように。


 なにそれ。


 ちがうでしょ。


 私たちの関係って、そんな上下なんてないでしょ。なに似合わないことやっているのよ、なんで顔を見せてくれないのよ。私は、私だって、ずっと見たかったんだから。あんたが笑っているところ。

 

 私だってあんたが好きなのよ。


 私は今までの自分の横柄な態度を、全部、そうよ、ぜーんぶ棚上げして、心の内で花恋をなじって、そうしてから決心して、優しく手をとって、指を絡めて、震える彼女を力いっぱい抱き寄せる。


「私も、恋人じゃ嫌だから。花恋、あんたが私にとってのヒロインなのよ」


 そうして私は驚いた顔をした彼女、今にも泣きそうになっている彼女の額に口づけをした。


「好きよ、花恋」

「っ……! ……今の、おでこへのキスは何のおまじないですか」

「知りたい?」

「はい。教えてください、夕夏さんのことを全部」

「そんなに焦らないでよ。今のは、そうね――――花恋が笑顔でいられるおまじないかな。ほら、笑って。泣いているんじゃないわよ。私、思うのよね。普段笑わないあんたが笑ったら、 ぜったいぜったい超絶可愛いだろうなーって」

  

 あの日、花恋が言ったように私も言う。

 

「ここにきてまさかの意趣返しですか。ほんと、ずるい人」

「ただの本音よ。ねぇ、その生意気な口を塞がないといけない?」


 私の言葉に、もにょもにょと口を動かす花恋。お願いします、とやっと聞き取れる形になったのは、少し後になってから。

 

 彼女は私の最高の笑顔を見つけてくれて、私もまた彼女の最高の笑顔に出逢った。

 私をとらえて離さないその花笑み。

 

 秋夜のしじまに、私が恋をしたその花は何よりも愛おしく咲いていた。

 





『花笑みのトラ』   了 

 

 

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花笑みのトラ   よなが @yonaga221001

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