たぶん先輩の頬は柔らかい

 水曜日の放課後を迎えた。


 打ち合わせしていたとおり、宮尾先輩が演劇部の部室に来てくれる。部室の中で指定の体操服(ジャージ)に着替えた私たちと違って、その姿は既に体操服姿だった。私たち一年生は青色。二年生の宮尾先輩は赤色だった。藍沢さんが言うには私たちのはラピスラズリで、宮尾先輩たち二年生のはスカーレット。たとえ本当にそう呼ばれる色をしていたとして、普段そんな呼び名を使わないだろう。少なくともクラスメイトがそんなふうに話しているのを聞いたことがない。ちなみに三年生は緑色。藍沢さんに言わせれば、パロットグリーン。パロットというのはオウムのことで、その羽の色にまつわるのだとか。へぇ。明日には忘れている自信がある。


「だって、後輩の前で着替えるのはなんか恥ずかしいよぉ」


 先に着替えてきたんですねと私が先輩に言うと、そんな言葉が返ってきた。


「どこに出しても恥ずかしくない身体をしているのに、なんなんですか、喧嘩売っているんですか」

「アイちゃん、ごめんねぇ」


 宮尾先輩と藍沢さんの体の凹凸具合を比べるのは申し訳なくなる。何も言うまい。


「篠宮さんを見習ってください。ついさっき着替えるとき、生まれたままの姿をこれでもかと晒していましたよ」

「いないわよ!」

「シノちゃん、下着をつけない人だったんだぁ。うーん……風紀が乱れるねぇ」

「いえ、あの、つけていますからね。悪ノリはやめてください」

「そうですね。今日のは亜麻色でしたか。亜麻色の下着の乙女ですね」

「ちがうわよ、ドビュッシーに全力で謝りなさいよ」

「実際には何色だったのぉ?」

「内緒です。いくら同性の先輩だからってセクハラですよ。訴えますよ」

「なんで藍沢さんが言うのよ……」


 そんなやりとりをした後、私たちはストレッチから始める。


「スポーツをする前の準備運動としては動的ストレッチが採用されることが多いよねぇ。体温と筋温とを上昇させ、伸張反射を高めることで運動しやすい体に切り替えるんだよぉ」

「宮尾先輩。わたし、大変なことに気づきました。今の状況だと二人組になってと指示を出されても、一人余ってしまいます。体育の時間のわたしみたいに」

「………今は関係ないんじゃない?」


 心当たりがあるから強くは言えない私だった。

 藍沢さんと友達になってからは体育の時間でも困らなくなったけれど。私も向こうも。ありがたい。


「アイちゃんとシノちゃん組んでくれていいよぉ。さて、今回やっていくのは動的ひゃなくて、静的ストレッチ。筋肉をほぐしていく以外にも、適切な呼吸法を取り入れて心もほぐしていこうねぇ」


 動的ストレッチは文字通り体を動かしながら行い、運動のパフォーマンス向上が主たる目的であるのに対して、静的ストレッチは筋肉を伸ばした状態をキープするやり方で、疲労回復やリラックス効果も見込めるらしい。宮尾先輩の起床時とお風呂上がりのルーティンになっているのが後者。


 さっそく三人で前屈の姿勢をとる。閉脚した状態での前屈。手を足のつま先へと伸ばしていく。


「呼吸は当然、発声にも大きく関わってくる部分だよねぇ? いい? 息を止めずにゆっくり、深く、丁寧に呼吸しながらやろうねぇ。痛いと思ったら我慢せずに弱めること。過度な負荷を与え続けるような方法はダメだよぉ。さぁ、リラックス、リラックス~」

「羊が一匹、羊が二匹……」

「睡眠導入するな」

「篠宮さんのツッコミって癒されますね」

「癒されるな」


 その後、下半身を中心としたストレッチのみならず背中や肩、それに首のストレッチも一通り実演してくれる宮尾先輩だった。私たちもそれに倣う。


「宮尾先輩のいかにも柔らかさそうな身体はこうやって作られていたんですね」

「アイちゃん? それ、るるが太って見えるって意味じゃないよね」

「ちがいます。断じて」

「なら、いいよぉ」


 気づけば二十分ほど経っていた。けっこう時間をかけてやるものなんですねと言う私に先輩は、これでも説明しながら駆け足気味でやったんだけれどねと笑った。毎日トータルで三十分程度、継続して行っていくことで効果が実感できるのだとか。経験者が言うのだから説得力がある。いや、何もストレッチで先輩のようなスタイルが体に入ると期待はしていない……していないから。


 部活動でするものとは別に簡易版として、自宅で毎日数分でこなせるメニューもあとでメッセージで送るよと話す宮尾先輩。ついでにおすすめのストレッチマットも教えてあげようかとも言われたが、そちらは遠慮しておいた。買ってもいわゆる箪笥の肥やしになりそうで怖い。

 宮尾先輩はクラスではストレッチの伝道師として女子連中から高い支持を受けているのだろうか。そんな話題を振ろうとした頃に、次の練習に移る。


「さて、と。それじゃあ、次は体幹トレーニングかなぁ」

「体幹? あれですよね、たしかインナーマッスルとも言われる……」

「篠宮さん、また下着の話ですか?」

「ちょっと黙っていて」

「体幹とインナーマッスルは厳密には同義じゃないよぉ。まぁ、それはいいとして。シノちゃんって中学生のときは何かスポーツしていた?」

「ソフトテニスをしていました。顧問も部の雰囲気も緩かったですが」

「おじい様とテニス。興味深いですね」

「その口、縫い合わせるわよ」

「舞台に上がってもらう上で、シノちゃんにはその場に応じた正しい姿勢をキープする持久力が必要になるよぉ。だから体幹を鍛えていかないとってわけだねぇ。これまでに運動をほどほどにしてきたのなら、幸いかなぁ」

「なるほど……フットワークというより、ポーズを維持する体力がいるんですね。納得です」


 体幹トレーニングに関しては宮尾先輩も初心者らしく、私たちは先輩が事前にチェックしてきた動画を参考に、見よう見まねで実践するのだった。

 いくつか試してみる。種類によっては数秒でもきついぞ、これは。それに前もって掃除したとはいえ、ただただ硬いフローリングでやるべき運動ではないのでは。

 なかには目を閉じて片足立ちというものあり、私の横から「わわっ!」と藍沢さんがバランスを崩す声が聞こえもした。

 

「篠宮さん、セクシーな声を出さないでください」

「出していないわよ」

「シノちゃん、出ていたよ?」

「え……?」


 そんなこんなで体幹トレーニングを終えると、じんわりと汗を掻いていた。梅雨の時期の蒸し暑さもある。


「それでは、次が大事な大事な、そう! 発声練習ですよ~! いぇーい!」

「いぇーい。ほら、篠宮さんも」

「い、いぇーい」

「るるも自信ないので、これも動画を見るよぉ!」

「いぇーい」

「あ、はい」


 家にあったボイストレーニング本も持ってきてくれてはいるようだった。とはいえ、動画のほうがわかりやすいだろう。ネット社会の恩恵だ。視聴後、各々の感想を言い合った。


「まずはやっぱり腹式呼吸なんですね」

「だねぇ。ストレッチやヨガでも基本になってくるよぉ」

「胸式呼吸も大切なのは間違いありませんが、声量で考えると意識して腹式呼吸を身につけないといけませんね」

「そうね。それにしても、リップロールなんてできそうにないんだけれど……」

「唇が回せれば舞台回しができるようになるわけではありませんから、そんなに気負わなくていいですよ」

「はいはい、うまい、うまい」

「アイちゃんの言うとおりかなぁ。難しく考えないで、大きな声を日常から出す、お腹や喉をそれに慣れさせるってのが重要だねぇ」


 私は特別、声が小さい人間ではない。

 クラスで浮いている自覚があるし、藍沢さん以外とろくに会話していないが、それでも気弱な性格ではなく、そうだと思われる声質でもない。

 けれども滑舌に自信があるとか問われればノー。

 なぜって、そもそも人とそんなに関わらないのに、日常的に数多くの言葉を口にする? しない。するわけない。

 私がやや卑屈になっていると藍沢さんが「篠宮さん。ちょっとよろしいですか?」と訊いてきた。心なしか、いや、確実に距離が近い。

 離れてよとまで言わないけれど。なんだ、どうしたのだ。


「なによ」

「リップロールの解説動画にありましたよね? 口輪筋、ひいては顔面全体の筋肉のコリをほぐすことからはじめよう、適度な脱力が必須だって」

「ええ、そんな話だったわね。あれかな、美顔ローラーみたいな道具でもいるのかな」

「いりませんよ。篠宮さん、よかったらわたしに任せてくださいませんか」

「……なによ、その手は」


 わきわきと。両の手を動かしているではないか。嫌な予感しかない。


「篠宮さんの表情筋を豊かにするため、一肌脱ごうかなと」

「ちょっ、待ちなさいよ、顔を触ろうとしてこないでよ、馬鹿!」


 私の言葉にピタリと手を止める藍沢さん。本気ではなかったようだ――――と安堵も束の間、すすすとさらに寄ってきて彼女が言う。


「では、代わりにわたしの顔を柔らかくしてくれませんか」

「ど、どうやってよ」

「篠宮さんにお任せします」


 そう言うと、しばし間近で見つめ合った後、藍沢さんが目を閉じた。

 いやいやいやいや。


「なに目を閉じているのよ。先輩もにこにこしていないで止めてくださいよ。ほら、藍沢さん、目を開けて。遊んでいる場合じゃないでしょ。しっかりなさい、台本・演出担当」

「むむ。篠宮さんはいけずです」


 妙に色っぽい声を出さないでよ。

 私は衝動的に藍沢さんの右頬を軽くつねってやった。「いてて」と言いつつも、嬉しげな口許がかえって憎らしくなって、軽く、そうだ、かるーくそのまま頬を引っ張った。硬いな。手触りはいいが、伸びない。彼女の平時の無表情ぶりからすれば妥当である。だとすれば、私の頬もこれぐらいに硬いのかな?


「シノちゃんもアイちゃんもその続きはふたりきりのときにして、今は発声練習しようねぇ」

「続きはありませんが、その提案には同意です」

「……今、足音が聞こえませんでした?」

「足音?」


 藍沢さんは出入り口のドアを見やる。私と宮尾先輩は顔を見合わせ、そしてドアへと視線を向ける。

 

 雨降りの放課後、比較的静寂な西棟の三階。

 一階から聞こえていた吹奏楽部の楽器を鳴らす音がちょうど休憩か何かで中断されていたそのタイミング。

 コツコツ、と。でもヒールではないのはわかる。おそらく生徒で、私たちと同じ学校指定の内履きで、一歩ずつ踏みしめて歩いているだけ。それがやけにクリアに聞こえた。


「聞こえるわね――――」


 けれど、ここには来ないんじゃないと私が言おうとしたそのとき、ドアが勢いよく開かれる。


 私の知らない誰かがそこにいた。

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