ある晴れた日に

 雨降りのアーケード商店街。

 私たちは肉屋から離れて、近くにあったベンチに腰掛けた。ペンキがあちこち剥げてしまって年季が入っている。軋む音さえどこか懐かしい。ランドセルを担いだ少年らが駆けていった。


「演劇に惹かれたきっかけですか。聞かれるの、かなり久しぶりです。それこそ数千年ぶりであるような。カエサルもびっくりです」


 藍沢さんは遠い目をした。クレオパトラの血筋を引いている可能性がどうこうと言っていたっけ。微塵も信じていないし、どうでもいい。


「中学生のときにも演劇部でした、台本書いていました――――って話したらそれで納得されてきたといいますか、掘り下げて聞いてくる人がほとんどいなかったんですよ。悲しいことに」

「へぇ。でも、あるんじゃない? きっかけ。やっぱり実際に観劇しにいって感銘を受けた、みたいな」

「そうですね。齟齬なく説明するには、この国が置かれている経済状況について理解する必要がありますね。少し長くなりますよ」

「どうも藍沢さんとは尺度やスケールにずれがある気がするわ」

「まあまあ、そう言わずに。杓子定規に事を捉えては、見える世界も狭くなる一方です」


 杓子定規というのは、曲がっている杓子を定規として無理に使うことからきている。だからむしろ彼女のほうこそ杓子定規なのだった。こんなのいちいち話していたらきりがない。むしろ彼女が知らないで言っているとは思えない。


「話してくれるの、くれないの?」

「大した話ではないんです。生後百か月もしない頃に……」

「もういいから、そういうの」

「こほん。では仕切り直します」

「どうぞ」

「小学三年生の頃に、東京の劇場で観たオペラに原点があるのです」


 また遠い目をしたが、さっきとは違いそれは確かに懐かしむ、何かを思い出している様子だった。


「オペラ?」

「はい。端的に言えば総合舞台芸術ですね」


 いまいちピンとこない。音楽と演劇で構成されているというのは、知っている。


「あれは雨の篠突く初夏のことでした。わたしは今は亡き父方の祖母、遠方に住んでいた彼女に連れられ、その劇場へと赴きました。事前に聞かされてはいませんでした。齢七十手前にしてはしゃんとした背中を追いかけて、いつの間にか私は席に座り、そして舞台を観て、音楽を聴き、心震わせたのです」

 

 うっとりと藍沢さんは。彼女の祖母は老後に舞台鑑賞を趣味としていたらしい。


「なんていうオペラだったの?」

「『蝶々夫人』です。ご存知ですか」

 

 私が首を横に振ると、彼女は簡単に解説してくれる。

 十九世紀末の長崎を舞台にした、アメリカ海軍士官を愛した芸者・蝶々夫人の哀しきも甘美な愛の物語であるそうだ。近代オペラ史の巨匠の一人、ジャコモ・プッチーニの作曲で知られるのだとか。


「細部を記憶に留めてなどいません。後になってあらすじをきちんと読むと、現地妻という概念自体が個人的には受け入れがたい存在なのですが……それでもわたしにとっては衝撃的な世界との出会いでした。テレビ画面を通してドラマや映画を観るのとはまるで違う体験だったんです」


 そう屈託のない笑みを向けられると、どぎまぎしてしまう。

 私は何か気の利いたことを言おうとするが、言葉が出てこなかった。好きなものについて、まっすぐ話せる彼女は魅力的だと感じたけれど、伝え方しだいでは、茶化している風だから、とついつい尻込みしてしまった。

 そんな私に藍沢さんは悪戯っ子の面差しに変わって言う。


「わたしとしては篠宮さんとの出会いも、同じぐらい大事なものだとみなしています」

「いいわよ、そんなこと言わなくても」

「むっ。そこは『ええ。私もよ、藍沢さん』と返してくれると期待したのですが」

「しないでよ。いいじゃない、そのオペラを観に行ったというのが藍沢さんの原点、それはあなただけの思い出で充分でしょ」

「ありがとうございます」


 また目の前をランドセルを背負った児童が通る。けれど今度は一人で、しかもとぼとぼとした歩調だった。残業帰りのサラリーマンとは趣の異なる哀愁がする。


「それで藍沢さんはそのオペラに感化されて、台本を書いてみようって気になったの?」

「笑わないで聞いてくれますか」

「うん? 知っているでしょ。私、そんなに笑わないって。あんたより、ほんの少し表情豊かってだけ」

「前言撤回します。笑ってくださってけっこうですよ。見てみたいですから」

「なんでよ。いいから続きを話しなさいよ」

「……わたし、最初は舞台女優に憧れていたんです」


 ああ、それで――――少なくともこれまでの藍沢さんとのやりとりには演技が上手だと思える場面がなかったから――――笑わないで、なんて言ったのか。


「あの日、『蝶々夫人』に感銘を受けた少女はまず演出家や脚本家、音楽家の道ではなく、役者の道を志しました。母親に頼み込んでとある劇団、子供から大人までいるそこそこ名の知れたそこへの入団試験に臨んだのです。そうする程度には本気だったんですよ。小学校のクラブ活動に演劇部はなかったですし、周りにいた数少ない友達と呼んでも差支えない子たちはオペラとオクラの違いも知らなさそうでしたから」


 藍沢さんが演じる側を目指していたこと。

 ぼんやりとした夢ではなく、意志をもって劇団の試験を受けたこと。意外だった。でも笑えない。笑ってたまるか。


「しかし、結果は落選でした」

「…………」

「少女は中学校にあがりました。入学後に知ったのですが、近隣の中学では唯一、演劇部がまともに活動している学校でした。それを運命と受け取って、落ち込んでいた少女は再び舞台を目指すのです。前にも話したとおり今度は最初から脚本家志望だったんです。ほら、自分が演じられないんだったら、もう全部作ってしまえ、ということで。けれど……」

「ねぇ、藍沢さん」


 私は彼女が膝上で握り込んでいた右手にそっと触れる。

 宮尾先輩と駅前のスイーツショップに行ったときとは逆に、私から。でも、軽く触れてみるだけでぎゅっとはできずにいた。それでも伝わってくる、藍沢さんの体温が。


「べつに無理して話さないでいいわよ? ううん、軽率に聞いちゃってごめん」

「何言っているんですか、ここで話をやめたらわたしが夢破れてけちょんけちょんになっただけじゃないですか。続きも聞いてくださいよ」

「あ、うん」


 あ、あれー? 

 私はどうも誤ったアクションを起こしてしまったみたいだった。しっとりと話していたから、てっきり……。とはいえ、言われてみればそのとおりで今の藍沢さんは演劇に台本執筆という形で前向きなのだから、黙って聞いてあげるべきだった。

 自分のコミュニケーション能力の低さを痛感する。ぐぬぬ。

 私が藍沢さんに添えた手を引っ込めようとすると、彼女のほうから握ってきた。食虫植物のようにパクッと。


「話しますが、こちらは離しません」


 それ言いたかっただけだろ、私は目で訴えた。が、気に留めずに彼女は宣言通り話を続けた。


「中学一年生の頃は、顧問の先生が脚本も演出もすべて取り仕切っていたんです。その人、大学の演劇サークルで活動していた人で、一時は俳優を目指してもいた、って話も聞きました。そして悪いことには、彼女はあまりわたしをお気に召さなかったんです。何が悪かったんでしょうね。最初に台本を読ませてもらったときに、いちゃもんつけまくったのがまずかったですかね。今ではいちゃもんだったなぁって少しは反省しているんですが」


 心が荒んでいたのだなと思った。

 役者志望だったのを諦め、それで劇すべてを掌握せんとして脚本家志望に。そんな簡単に割り切る、というか心変わりするような子ではないよね。だからこそ、本当にその顧問にしたのはいちゃもんだったのだ。こんなのじゃないって、何はともかく否定したかったはずなんだ。

 私の手を握る藍沢さんの力が強まる。


「そんなわけでわたしは、小道具を準備したり、大道具を制作したり、宣伝ポスターの作成に協力したりと裏方と聞いてイメージされるような役割を淡々と一年間こなしたんです。お世辞にも手先が器用とは言えませんでしたから、部員たちに愛されるどころか邪険にされがちではありました。手先以上に口先に問題があったかは伏せておきましょう。二年生になると、状況が変わったんです」

「顧問の先生が別の学校に移った?」

「そのとおりです。いよっ、名探偵!」

「はいはい」


 合いの手はいれなくていいし、いいかげんこの手も離してほしい。ほら、今通っていった中学生がこっち見てなんかニヤニヤしていただろうが。


「温情主義の体現者たる部長が、前任顧問から台本の書き方指導を受けていた部員に、わたしの面倒をみてやれと命じたんです。それでわたしも彼女を台本作りの師と形だけでも仰ぐようになったんです。幸いにも、彼女は気さくでお人好しでもありましたから、わたしと友好的な関係を築けました」


 そしてあのトラの一件に繋がるのか。夕暮れの図書室で彼女が語ったあれに。


「さて、と。篠宮さん、せーのっで立ち上がりますよ」

「いや、手を離しなさいよ」

「今日は繋いだまま駅まで行きましょうよ」

「仲良しか。そんなのお断りよ。それに雨だって降っているんだから、片手に傘、片手にバッグ。あんたと手を繋ぐ余裕なんてないっての」

「仲良しではないんですか?」

「はい?」

「…………ちがうんですか?」

「これまでに何度かあったけれど、そういう確認しないで。そこは察しなさいよ。仲悪かったら、帰りにコロッケ食べて、ベンチでおしゃべりしないでしょうが」

「盲点でした」

「嘘つけ」


 一体全体、けろっと言うんだからどうも憎めない。

 突き詰めていけば、十二分にこの子は役者なのではないかと思う自分がいる。はまり役というのがありそうな気がしてくる。もしもこの子が最初から彼女自身に相応しい舞台を作ろうとしていたらと考えも浮かぶ。つまりは彼女がヒロインで、それに合った物語。

 けれども、彼女はそうしなかった。私をヒロインに選んだ……。


「そういえば、どうして嘘を非難するときに、嘘をつけなんて言うんでしょう」

「知らない。日常のあらゆる疑問を解決するために友達が存在するわけではないのは知っているわ」


 なるほど、と頷く藍沢さんから手を抜き取って、私は先に立ち上がる。


「ねぇ。明日か明後日から台本書き始めたら、間に合う?」

「間に合わせます」

「そう言ってくれると思った」


 私たちは駅へ向かって並んで歩きはじめる。

 数メートル先を、小学生の姉妹らしき二人が手を繋いで楽しげに話しながら歩いていた。私と藍沢さんで手を繋いだって姉妹とは見えないだろうな、そんなことを思った。

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