第35話:飛行試験


◆◆◆◆


 アンヌン大渓谷。古来より竜に乗る騎士たちにとって、神聖であると同時に忌避された飛行場の一つだ。ブランウェン岬、アリアンロッド山脈に並ぶこの伝統ある飛行場で、今日快復したエミリアの飛行試験が行われる。それは極めて形式ばった、このプランタジネットの古式ゆかしい飛行試験だ。既にラインは空中に敷かれ、風圧のネットは用意され、フェザーが各ポイントの重要な地点に配置されている。


「緊張してきたか?」


 懐中時計を見ると、午前十時。今は晴天だが、東の空には雲が出てきた。強い風にくたびれた帽子が飛ばされないように押さえつつ、俺は隣のエミリアを見る。


「そうね。本当に久しぶりだから」


 既にライダーのユニフォームをきっちりと着こなしたエミリアが、エンタープライズの手綱を取って横を歩きながらそう言う。


「緊張はいいものだ。心身が引き締まる。だが、フライトが始まったらもう緊張するな。思うがままに飛ぶんだ」


 一流の演者であっても、幕が上がるまでは緊張するという。俺の知っている有名なコメディアンは、舞台の幕が上がる直前は吐きそうになるらしい。その緊張は決して悪いものじゃない。緊張がなければ演技は腑抜けたものになる。ライダーも同じだ。空を飛ぶ喜びは俺たちにとって、何物にも代えがたい。けれども、そこに恐れがなければ命を失う。緊張はそれを忘れないために必要だ。


「ええ。ジャックの教えてくれた通り、自由に飛ぶわ。ここから――もう一度始まるんだもの」

「そうだ。俺たちの再出発だ」


 俺たちは目を合わせ、互いにうなずく。長い長いトンネルを抜け、やっとのことでエミリアの道に明るい光がかすかに見えてきた。彼女を思う存分蝕んだ竜因は、ようやく既定値以下に下がってくれた。同期のライダーに比べてあまりにも遅れた再スタート。再びレースに出るための道のりとして、俺たちは最も困難で最もリターンの大きいこのアンヌン大渓谷での飛行試験を選んだ。これに合格すれば、もう一度エミリアは一足飛びでドラゴンライディングに参戦できる。俺たちが目指すのはその先……栄光ある聖杯記念だ。


「ジャック、何をきょろきょろしてるの?」

「いや……飛び入りがあるんじゃないかと思ってな」


 俺が周囲を見回しているのに、エミリアは気づいたらしい。俺の視線は周りに向けられるが、ドラゴンライディングの関係者以外の人間はいない。ただ一人、教会の司祭が非常に古いデザインの僧衣を着て参加しているくらいだ。ここにはギャラリーさえいない。


「まさか。あなたも飛ぶ?」

「君を信頼しているから、その必要はない」


 アンヌン大渓谷で行われる飛行試験は、極めて儀式的で特殊なものだ。もともとこの場所は、罪を犯した騎士が贖罪のために飛ぶ場所で、数々の試練を経て騎士は罪を清めたとみなされたらしい。だから、今日この渓谷で起こることはすべて神意であるとされる。時代を経て、騎士がライダーになり、騎行がドラゴンライディングというスポーツに変わってもそれは受け継がれている。どのような飛び入り参加も、素人であっても玄人であっても認められているのがその一つだ。もっとも、今日のエミリアに求められているのはタイムと完走であって、贖罪ではないのだが。

 その時、向こうから一人のライダーが歩いてきた。目の覚めるような赤毛が目立つ長身の女性だ。つかつかと彼女はわき目もふらずにこちらに歩いてくると、にっこりとエミリアに笑いかけた。


「準備万端みたいね、エミリアちゃん」


 ぱっとエミリアの顔が輝いた。


「ヘレン教官。お久しぶりです!」


 ヘレンと呼ばれた女性は親し気にエミリアの肩に手をやる。


「今はあなたの教官じゃなくて、一人のライダー、ヘレン・パーキンスよ。当然容赦しないわ。覚悟はいい?」

「もちろんです。よろしくお願いします!」


 二人とも口調は明るいが、目が笑ってない。俺は極東に行った時に見たサムライの模擬戦を思い出した。サムライの殺気がそぎ落とされた、滑らかで穏やかでゆったりした動き。けれども、刀を構えた姿にはまるで隙がない。その雰囲気がなぜかこの場に再現されている。


「彼があなたのコーチ?」


 赤毛の女性が俺を見る。


「ええ。紹介するわ、ジャック。エリウゲナ学院でドラゴンライディングを教えて下さっているヘレン・パーキンス教官よ」


 そう言われたからには、俺も自己紹介する。


「よろしく。エミリアのコーチを務めているジャック・グッドフェローだ」


 ヘレンは見るからにベテランのライダーだと分かるいでたちだ。ユニフォームや靴のすり減り方が、ただの経年ではなく長い間竜に乗っていたことを如実に表している。


「ええ、よろしく。お会いできて光栄よ。あなたの献身でエミリアは今日この日を迎えられたの。私からも感謝するわ」


 初対面の教官にそう言われ、俺は内心ため息をついた。


「おいエミリア。彼女に何を吹き込んだ? 明らかに君の教官は俺を過大評価しているぜ」


 俺だって褒められることそれ自体は嬉しいが、過大評価はごめんこうむる。俺がエミリアの竜症に何ができた? 俺がしたことなんて、誰でもできることだけだ。献身なんて、コーチとして当たり前すぎてわざわざ引き合いに出すまでもない行為じゃないか。


「あら、私は何一つ大げさに言ってないわ。正直に、自分の感じたままをヘレン教官に伝えただけよ」

「どこがだ」


 俺とエミリアのやり取りを、ヘレンはくすくすと笑いながら見ていたが、やがて真面目な顔になった。


「それはそれとして」


 彼女の手から竜炎が燃え上がり、一振りの重たげなモーニングスターが握られていた。おいおい、ずいぶん物騒なアームだ。盾が欲しいな。リーチはエミリアが有利だが、彼女ならばきっと懐に飛び込んでくるに違いない。


「エミリアちゃん、あなたの竜症からの快復は私もすごく元気づけられたわ。あなたは本当に立派な子。でも、だからと言って手は抜かないわ」


 モーニングスターをヘレンは振るう。並大抵のライダーならば、一撃で竜の背から叩き落される威力に違いない。


「チームを率いて、あなたのゴールを全力で阻止するわ。本気で叩き潰す気で行くから、覚悟しなさいね」

「はい! 教官こそ気を付けてくださいね。私も手は抜きませんから!」


 そう言うと、エミリアはまっすぐにヘレンを見つめる。あの曇りのない瞳だ。あの目に見つめられると、俺たちライダーはまるで竜炎を浴びたかのように魂が高揚するんだ。きっとヘレンも、あの熱に当てられたに違いない。


「いい返事ね。でも、あなたはきっと私たちの全力の包囲網に打ち勝つって信じてるわ。だからこそ、遠慮しないわ」

「待ってます!」


 もう一度親し気にエミリアの肩に手を置き、ヘレンは去っていった。その背を見送りながら俺は口を開く。


「美しい師弟愛だな。俺だったら、手加減してくれるように頼みこんでいる」

「白けるようなことを言っちゃだめよ。気が抜けちゃうわ」


 俺の下らない冗談にも、幸いエミリアは笑ってくれた。


◆◆◆◆


 そして、儀式的な試験が始まる。


「誰か――誰か彼の騎士の忠を試す者はいるか! 竜の翼によって彼の騎士の魂に問う者はいるか!」


 古式の僧衣を着た司祭が呼ばわる。エミリアの試験には、あのヘレンを筆頭に正式な協会のライダーが参加する。しかし、先ほども述べたように、この試験には異例なことに乱入が許可されているのだ。昔は贖罪を行う騎士の忠義に異を唱える者や、時には騎士の敵が飛び入り参加したらしい。一応形式的に認められているが、今時、ここで参加を表明するライダーはまずいない。

 ――そう、普通ならば。


「――いるとも。ここに一人」


 協会の審判が座る席。その前に設置されたテーブルの上に、竜炎を用いた通信機がある。それが突然勝手に人の声を放った。


「古来より続く掟に従い、その騎士の魂を竜炎をもって精錬しようではないかね」


 俺は空を見上げた。やはり来たか――お前が。

 上空から音もなく舞い降りてくるのは、骸骨のようにやせ細った竜だ。その名を俺は知っている。イラストリアス。それにまたがるのは、顔を仮面で覆った古風なユニフォーム姿の男性だ。


「私は彼女の試験に参加を表明しよう。むろん、問題はないだろうね?」


 着陸したイラストリアスのサドルから、彼は騎乗した竜と同じくほぼ無音で降りた。唖然とする司祭をしり目に、ファントムはつかつかとエミリアに近づき、気取った仕草で一礼する。


「お初にお目にかかる、エミリア・スターリング。オールドレディの孫娘と飛ぶことができて、大変光栄に思うよ」


 あのぎくしゃくとした操り人形のような動きは、滑稽であると同時に言いようのない不安を見ている俺たちに与える。しかし、エミリアは異様な仮面のライダーを見ても眉一つ動かさなかった。


「あなたの名前を聞かせて?」


 凛とした彼女の問いに、ファントムは仮面の奥から笑う。


「我が名は――ファントム。そしてこの竜の名はイラストリアス。以後、お見知りおきを」


◆◆◆◆


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