第15話:希望の一歩先


◆◆◆◆


 アイルトンカップ。若きライダー最大の登竜門であり、一生に一度のチャンスだ。このレースだけは、正真正銘生涯でただ一度しか出ることができない。ドラゴンライディングに熱狂するこの国のすべての人間が、明後日のレースに注目している。


「いよいよあさってね」


 トレーニングを終えたエミリアが、アームの手入れをしながら俺に言う。


「一生に一度しか出られないレースだ。なんとしても勝ちたいな」

「みんなそう思ってレースに参加するでしょうね」


 愛用のランスを拭くエミリアは静かに闘志を燃やしている。勝ちたいという強い願いを持ちつつ、自分以外のライダーも同じ気持ちであることが分かっている。何しろこのアイルトンカップには、あの聖剣のアーサーがエントリーしている。おそらく、エミリアの考えは彼の対処に向けられているだろう。


「過敏症はどうだ?」


 だが、俺が気になるのはむしろ彼女が女王杯の後で見せた咳をする姿だった。もとより、ライダーは「竜症」という独特の病気をわずらう。竜に長く乗ることによって必ず発症するこの病気は、高熱、だるさ、関節の痛み、内臓の機能低下などが特徴だ。昔のライダーは「竜症にかかってようやく一人前」という感覚だったらしい。冗談じゃない。ばい煙に過敏症だというエミリアの体が、俺は心配だった。これで竜症を発症したら、相乗効果でどれだけ体調を崩すのだろうか。


「いつものことよ。私にとって、この不快感は息をするのと同じくらい普通のことなの。竜に乗るときだけ、これを忘れられたわ」


 気丈にエミリアはそう言い放った。彼女が過敏症と告白してから、俺は極力トレーニングを無理のないものに変えていた。なるべく彼女の体に負担がかからないものにしたのだが、しかしエミリアはどん欲により自分を追い込もうとした。何度も、どこまで無理をするかでお互い話し合った。


「ねえジャック。私が『自由』を求めているって言ったでしょ?」


 ふいにエミリアが話題を変えた。「自由」。忘れもしない、俺が彼女のフライトに決定的な影響を与えた言葉だ。

 俺はそれを初めて彼女に告げた日のことを思い出していた。


◆◆◆◆


「お嬢さん、君は自分が何を求めているのかまだ分かっていない。竜に乗るってことは、心を竜に重ねるんだ。君が自身のことを分かっていないのなら、そのフライトには迷いが生じる」


 初めて、エミリアの後に続いて空を飛んだ次の日。俺は着地したエミリアにそう告げた。びっくりするほど彼女は真面目に俺の話を聞いている。


「俺は今から、君のフライトに重大な影響を与えることを言う。おそらく、君のこれからのフライトは俺のこの言葉に振り回されることだろう。それでも聞くか?」


 俺がそう言うと、エミリアは一度深く吸い込んでから、こう告げた。


「責任を取ってくれる?」


 ああ、これはまるで悪天候の時、竜に乗って空に舞い上がるのと同じだ。いちかばちか。己を賭けて空に飛ばなければならないあの恐怖心と高揚感。


(リチャード。お前なら、ちゅうちょなく突っ込むだろうな)


 俺は心の中で、亡き親友に願う。


(柄じゃないが……リチャード、俺の背中を押してくれ)


 俺は一度目を閉じて深呼吸する。恐怖を押し殺してフライトに向かうときのように。


「――取る」


 目を開いて、俺は言った。エミリアは情けない俺を見ても笑わなかった。むしろ、彼女は安心したようにほほ笑んだ。


「ジャック、あなたは自分で思い込んでいるように臆病者じゃないわ。あなたには勇気がある」


 そう言われても、俺は否定も肯定もできなかった。


「聞かせて」


 エミリアが促す。俺は飛び立つことにした。


「君が求めているもの。それは――『自由』だ」


 自由。言葉に直すとあまりにもありきたりで、陳腐なその短い名詞。


「……自由」


 しかし、それをエミリアは噛みしめるようにつぶやいた。


「お嬢さん。君は餓えているんだよ。勝利にじゃない。『自由』に憧れているんだ。だから本物の空にまですっ飛んでいきたいと願うし、勝っても負けても魂は燃え尽きたりしない。それこそが本物のライダーってものだぜ」


 俺はつい気障に続ける。恥ずかしかったからだ。


「君ならきっと冒険家に、そして冒険家を導く先導者になれる」


◆◆◆◆


「自由――すごく素敵な言葉ね」


 エミリアは目を閉じて胸に手をやる。自由という言葉を、飲み干して味わうかのように。


「お気に召したようで何よりだよ、お嬢さん」


 回想を終えても、気障なまま俺はそう答えた。エミリアは俺のつたない言葉を受け取ってくれた。そしてその言葉のまま、自由を求めて空を駆けた。その結果がこれだ。今の彼女は、かつての最下位常習者じゃない。ギャロッピングレディと呼ばれて笑われた彼女はどこにもいない。今の彼女は、あの聖剣のアーサーに届くかもと噂されるアイルトンカップにおける刺客だ。


「ねえ、私がなんでライダーを目指したか、そう言えばまだ言ってなかったわよね」


 いきなりエミリアがそう言ってきた。たしかにそうだった。考えてみると、俺は以前の三流ライダーのコーチだったころも、奴らがライダーになった理由なんて聞かなかった。借金、名声、色恋、そういった欲望まみれの理由が多かったからだ。


「ああ、そうだったな。忙しくて、な」

「聞きたい?」

「興味はある」


 俺は努めて無関心を装ってみた。しかし、あいにくと実は知りたいことをあっさりとエミリアは見抜いていた。


「ふふ、アイルトンカップが終わったら教えてあげる」

「楽しみだ」


 本当に、エミリアは放たれた光のようにまっすぐな少女だ。どんなときも決して折れないし、曲がらないし、その輝きが曇らない。俺には、まぶしすぎるくらいだった。


「お酒は飲まないでね。真面目に聞いてほしいんだから」

「考えておくよ」

「そういう時は嘘でも『もちろんだ』って言うものよ」


 エミリアは立ち上がり、アームを竜炎に包んで竜骨に収納した。――アイルトンカップは近い。


◆◆◆◆


 その日の夜。俺は自宅で久しぶりに飲まずにいた。エミリアのコーチを務めるようになってから、少しずつ家の中も片付くようになってきた。ゴキブリの巣から、散らかった部屋くらいにはランクアップしただろうか。ドロップアウトした俺にしては、大した成長と言えるんじゃないだろうか。

 ――もしかしたら、俺は泥沼から抜け出せるかもしれない。

 つい未練がましく空のグラスを手でもてあそびながら、そんな大それたことを俺は考えてしまう。本当はこんなことをしないでさっさと寝てしまえばいいのだが、なにぶん今まで寝酒が日常だったので、どうしてもグラスを持たないと落ち着かないのだ。


 エミリア・スターリング。俺がコーチを務める若きライダー。白銀の竜エンタープライズを駆り空を飛ぶその姿に、皆が目を奪われている。あれが俺の教え子だ、と自慢する気にはなれない。なぜなら、あの子は自分の意志で空を飛んでいるからだ。俺がしたことなんて、その後ろでぼそぼそと誰でも言えるようなことをささやいただけだ。

 彼女は輝く光だ。まともに見るにはまぶしすぎる。でも、その光につい、こんな俺でも惹かれてしまう。作り物の右手を伸ばしてしまう。死んだ親友を背にして、女の子にすがろうとする、どうしようもなく情けなくてみじめで不格好なのは百も承知で、それでも俺は、希望を持ってしまいそうになる。

 ――こんな俺でも、もう一度空を飛べるんじゃないだろうか。

 明後日のアイルトンカップ。名うての若手が集い、激しい戦いを繰り広げるレース。何といっても聖剣のアーサーがいる。彼の振るう剣のアームに逃れられたライダーはいまだいない。でもそこでも、きっとあの子ならば白銀の閃光となって俺たちを魅了してくれるはずだ。

 その時、乱暴にドアを叩く音が聞こえた。


「ジャックさん! ジャック・グッドフェローさん!」

「なんだ?」


 聞きなれない男の声だ。俺は手でグラスを持ったまま、椅子から立ち上がって玄関に向かう。ドアを開けると、そこには一人の男性が立っている。目を凝らしてその顔を見てようやくわかった。エリザベスの屋敷にいた召使いの一人だ。


「……どうしたんだ?」


 その青ざめた顔を見て、俺の背筋にじっとりと嫌な予感が這い上がってきた。喉が痙攣して、うまくつばが飲み込めない。おい、やめてくれよ。ひどいことは、もうこりごりなんだ。


「お、お嬢様が! エミリア様が倒れられました!」


 辛いことは、嫌になるくらい味わったんだよ。


「……なんだって?」


 バカだな、俺は。


「奥様は『竜症』とおっしゃられましたが……ジャックさん? ジャックさん!?」


 這い上がれるわけなんて、なかったのに。

 この地べたこそが、俺にお似合いの場所だったのに。

 何を期待してたんだ、俺は。


「……嘘だろ」


 俺の手からグラスが落ちて、床に当たって欠けた。

 いつだって、最悪なことってのは、最悪のタイミングで起こる。そう相場が決まってるんだ。


◆◆◆◆


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