第16話:竜の病


◆◆◆◆


 召使いは外に運転手付きの自動車を待たせていた。俺はそのままの格好で飛び乗り、エリザベスの屋敷へと向かった。義手の関節を意味もなく軋らせながら、俺は頭を抱えていた。何も考えられなかった。悲しむことも怒ることも、取り乱してわめくことさえできない。俺は情けないことに「やっぱり一杯飲んでおけばよかった」なんてどうしようもないことを頭の隅で思っていた。


◆◆◆◆


「ジャック様、夜遅く申し訳ありま――」

「エミリアはどこだ」

「あ、あの、お待ちください! 案内いたします!」


 屋敷の扉があくと同時に、俺は挨拶する召使いを義手で押しのけた。待ちきれずに速足で歩く俺を、長いスカートをからげた侍女が慌てて追いぬいた。階段を上り、廊下を走り、彼女は一枚のドアの前で立ち止まる。肩で息をしながら必死に優雅にふるまおうとする侍女が、俺に一礼する。


「こちらです」

「分かった」


 俺は侍女を押しのけたいのを必死でこらえながら、右手で乱暴にノックした。


「エミリア。俺だ。入るぞ。いいか」

「ジャック……!」


 中からはエミリアの驚いた声が聞こえてきた。その声を聞けただけで、俺はその場にしゃがみ込みたいくらいに安心してしまった。けれども、すぐに気を取り直す。何を勝手に安堵しているんだ? 苦しいのはこれからだというのに。膝が笑っているのがよく分かる。安心と不安が、俺の体を二つに引き裂こうとしている。


「ええ、どうぞ。入って」


 彼女にそう言われ、俺ははやる気持ちを押さえてノブをまわして部屋の中に入った。そこは初めて入るエミリアの自室だった。年頃の女の子の部屋なんてものには生まれてこの方縁がないから、他とは比べられない。ただ、思ったよりも殺風景だった。壁の本棚には分厚い本が何冊も収まっている。いずれもドラゴンライディングについての専門書だ。


「ジャック、よく来てくれたわね」


 ベッドに横たわっていたエミリアの枕元。そこに置かれた椅子に座っていたエリザベスが、俺の方を向いて平然とそう言った。深夜だというのに、彼女は一分の隙もない服装で、まるで午後のティータイムのように落ち着いている。なぜか、その落ち着き払った仕草が俺を苛つかせた。


「ずいぶん冷静沈着だな。他人事か、オールドレディ」


 ついそう口にしてから、俺は自分があまりにも失礼だと気付いた。到着して早々八つ当たりとは、あきれてものが言えない。


「いや、すまない」


 俺は謝ると、ずかずかと部屋に踏み込んでエミリアの枕元に近づいた。ネグリジェ姿のエミリアが俺を見た。目が合って、俺は寒気がした。典型的な竜症の症状が、エミリアの容貌に色濃く表れていた。こんなにも早く、竜症は進行するものだっただろうか。エミリアはずっとこれに耐えていて、ついに栓が外れるように決壊したのか、それとも病魔が体の根幹にまで達していたのか。どちらにせよ、アイルトンカップまでにどうにかなる状態でないことは残酷なほど明白だった。


「……竜症か、エミリア」


 俺はこみあげてくる後悔と罪悪感で吐き気がしたが、それをどうにかこうにかねじ伏せて、いつものように不愛想にふるまった。コーチの俺が――エミリアの体調にも気を遣わなければならない俺が、今さら後悔や罪悪感だと? 筋金入りの偽善者でもできない恥知らずの振る舞いだ。今一番後悔して一番苦しんでいるのはエミリアだ。俺には苦しむ資格なんてない。


「大したことないわ。少し立ち眩みがして倒れただけよ」


 早くも顔色が土気色になりつつあるエミリアが、ベッドから上体を起こして、気丈にほほ笑んだ。あの、太陽のように明るく輝く彼女の笑みが、病に侵されてくすんでいるのを見て、俺は涙が込み上げてきた。


(……なあ、神様。あんたがいるんだったら、いくらなんでもひどくないか。こういう役回りは、この子じゃなくて俺が一番似合ってるだろうが。あんた、本当に目が見えてるのか?)


 心の中で俺は、普段祈っていないくせにこんな時だけ都合よく愚痴という名の祈りを神様に捧げる。


「明日……じゃなくて今日はゆっくり休んでレースに備えないと。一日ベッドで寝ればもう大丈夫よ。私、こう見えて回復力が高いんだもの」


 エミリアの笑みは空虚だった。無理をしてそう言っているのが、まるわかりだった。いや、きっと……自分で自分をそう納得させたかったんだろう。そうでもなければ、耐えられるわけがない。


(……分かったよ。ああ、俺にはお似合いだ。真実を言ってやるよ。嫌われて、さげすまれて、恨まれる。今の俺にはぴったりじゃないか)


 愚にもつかない祈りを終えて、俺は覚悟を決めた。とことんまで、エミリアがこのどうしようもない俺を幻滅するように、決意しつつ願った。


「……嘘をつくな」


 身が切られるほど辛いが、俺はそう言った。大丈夫だ、俺の涙は気づかれていない。


「嘘じゃないわ。本当よ」


 エミリアは弱々しく首を振った。


「俺の目を見ろ。嘘をつくな。本当のことを言え」


 俺は必死で不愛想にふるまう。


「嘘じゃない!」


 エミリアは叫ぶと同時に、あの耳を覆いたくなるようなひどい咳をした。竜症が過敏症に追い打ちを加えたのか、過敏症ゆえに竜症があまりにも急性なのか。どちらでもいい。


「嘘じゃない……嘘じゃない……嘘じゃないんだから……だって、だって……!」


 血を吐くんじゃないかと心配するほど咳き込みながら、エミリアはがたがたと震えだした。ひどい悪寒だ。誰が見ても、重篤の竜症に間違いない。

 俺は惨状を眉一つ動かさずに見ているエリザベスの方を向いた。そうしないと、涙がこぼれそうだったからだ。


「アイルトンカップは棄権だ。それでいいな、オールドレディ」


◆◆◆◆


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