第9話:長い祈り


◆◆◆◆


 その教会は、俺の元職場だった廃工場のすぐ近くに建つ、哀れなくらいに存在感のない小さな代物だった。


「ジャックさん、あなたでしたか」

「相変わらず暇そうだな、司祭さん」


 俺はだいたいいつも、この昼下がりの時間にここを訪れる。定期的にじゃない。酔いが回ってしかも暇で何もすることない時に、気まぐれで顔を出すだけだ。

 いつ来てもここには、信者の座る席にいる中年の司祭一人しかいない。シスターさえいないから傑作だ。いるのかもしれないが、俺は少なくとも姿を見たことがない。そのくせ、この人のよさそうな司祭はいつも礼拝に来る人を待っている。無駄もいいところだ。このあたりに住む俺たちのような連中で、まともに教会に通うような信心深い奴なんて皆無だ。


「嬉しそうですね」

「そうか?」


 俺は口元に手をやってみる。少し緩んでいるかもしれない。まあ、今日は結構飲んだからな。いつものような、四六時中俺を責め立てる過去から逃げるためじゃなくて、久しぶりの祝杯だ。酒場の連中におごってやったから、財布もすっからかんだ。


「何か良いことがありましたか?」

「俺がコーチをしている奴がドラゴンライディングの試合で勝ったからな。祝杯もあげたくなる」

「それはよかったです」


 司祭は俺が酒臭い息を吐きながら椅子に座り、脚を投げ出しても何も言わない。ただ、いつものように穏やかな笑みを浮かべているだけだ。俺はこの司祭の名前を知らない。そもそも、いつどうやって知り合っただろうか? たぶん、今日のように酔い潰れていた時に、誰でもいいから愚痴りたくて押し掛けたのが始まりだろう。


「あんたに分かるか? どうせ毎日聖典だけ読んで世間って奴を分かった気でいるんじゃないのか?」

「ははは、手厳しいですね」


 俺はいつものように憎まれ口をたたく。完全に他人にからむ酔っ払いそのものだが、それでも司祭は怒らない。俺はもしかすると、どこまで失礼にふるまえばこの司祭が怒るのか試しているのかもしれない。だとしたら迷惑この上ない奴だな、俺は。


「嫌なこともあったようですね」


 何を言っても穏やかに対応するくせに、この司祭は妙に鋭い。彼の言葉は図星だった。アーサー・フィッツジェラルド。『聖剣』のアーサー。ダイヤモンドと黄金で舗装された王道を歩く、現代に蘇った騎士道精神の体現者。そんなエリートが以前言った言葉が、妙に耳に残っていたからだ。


「この間若造に言われてね。『神様は耐えられない試練はお与えにならない』ってね」

「そうですか」

「他人事だな、あんた。司祭だろ? どう思うんだよ」


 神様とくれば、司祭の専売特許だ。そして神様を引き合いに出せば、どんな司祭でも黙っているはずがない。そう思って俺はアーサーの言葉を引き合いに出したのだが、拍子抜けなくらい司祭の反応はいつも通りだ。聞き流しはしないが、否定も肯定もしない。


「あなたは、そう思われないようですね」


 司祭に促されたのを幸いに、酔った俺は自分の思いを一方的に垂れ流し始める。


「当たり前だろ。それはなあ、耐えられた勝ち組の台詞なんだよ。自分がそうできたから、知ったようなことを言ってるんだ。じゃあ、耐えられなかった奴はどうなるんだよ」


 少なくとも、俺は耐えられなかった。俺は逃げた。それが悪いことだと誰が裁く? 神様か? 神様ってのは、弱いから転んだ奴の背中を踏みつけて、正論で説教するような奴なのか?


「そいつらが弱いから悪いのか? どいつもこいつも勝った奴の言葉しか聞こうとしない。負けた奴なんて、いないも同然なんだ。都合が悪いからな」


 俺はいないも同然のライダーだ。一度はあいつ――リチャードと共に空を飛んでいた時、どこまでも行けると思っていた。あいつの隣で脚光を浴びた瞬間だってあった。でも今は違う。リチャードが死に、俺が片腕を失って竜から降りたと同時に、世間は俺をほとんど忘れ去った。俺は地べたをずっと這いずっている。まあ、オールドレディやアーサーみたいな変な奴もいるが。


「だから俺は、神様が耐えられない試練はお与えになられないなんて言葉は信じない。もっとも、神様に仕えるあんたからすれば、百万個は反論が思い浮かぶだろ?」


 俺は挑戦的にそう言い放つ。司祭ならば、顔を真っ赤にして怒るだろうか。神を冒涜するなと正論を言うだろうか。それとも聖典を開いて、俺の間違いを一言一句正そうとするだろうか。


「今私が聖典を開いて、理路整然と神様がいかに公平かを説明して、あなたは喜ぶでしょうか」


 司祭は何もせず、そう言うだけだった。


「ほう、聞く耳を持たない俺が悪いって言いたいのか?」


 俺はなおも酒癖が悪い男になって絡む。


「いいえ」


 それだけ言うと、じっと司祭は俺の次の言葉を待つ。次の言葉なんてなかった。俺だって分かっている。「神様は耐えられない試練はお与えになられない」って言葉にどんなに唾を吐きかけても、俺の人生が変わるわけじゃないし、俺の耐えがたいこの痛みが消えるわけじゃない。でも、俺は勝ち組になってこの言葉を得意げに掲げる身にはなれなかったし、そうしたくもなかった。

 ならば、何を言えば、何をすれば俺たちは変われるんだ? 俺の罪は消えるんだ? 神様に祈るしかないのか?


「……下らない愚痴だったな」


 俺はそう言うしかなかった。けれども、司祭はゆっくりと首を左右に振る。


「私はそう思いませんよ」


 短い言葉だけど、本心からそう言っているのが分かった。だからこそ、俺には辛かった。酔っぱらいの戯言と片づけてくれた方が、気が楽だったかもしれない。


「安心しろ、もう帰る」


 俺は立ち上がり、ふらつきながら教会の出口に向かった。きっとまた、俺はここに来るだろう。下らない愚痴をこぼしに。俺の背中に、名前を知らない司祭の声が投げかけられた。


「ぜひ、またおいでください。私はあなたを待っています」


 誰も来ない教会で、ずっと信徒を待ち続ける司祭の声が、俺の耳にしばらくの間は残っていた。

 俺も司祭も、きっと祈っている。

 ひざまずくのではなく、もがくことによって。


◆◆◆◆


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