蟻塚

明け方の雨を孕んだアスファルトから熱気が立ち上って来る。アタッシュケースは粉ばかりの中身よりも外のほうが重いから感覚が気持ち悪かった。こんなものでも振り回せば武器になるのだから道具というものは解らない。退屈そうに往来を睨んでいた若いプッシャーが僕をみとめると慌てて道を譲った。学生御用達のクラブが主な縄張りだろうあんな子にも顔が割れているならそろそろこの辺りも引き際かもしれない。

「来ました。三波です」

「これは暑い中どうも、わたし葵会に入ったばっかの新人で竹川言うもんです」

扉を開けて出迎えた馴染みの刑事より背が低い知らない男に狐の神様を僕は連想した。ゆっくりとした動作でスーツを漁ると、そこからは銀色の小さなケースが出てきて、魚の腹を思わせる手が小さな紙切れを差し出した。印字された名前を指でなぞってから投げ捨てた。

「ご丁寧にどうも。こんなもん渡されても、僕は返すもんなんか持ってねえぜ」

「でももうあんたに渡してもうたからなあ。ゴミは持って帰ってくださいよ、長橋の犬の三波さん」

顔をあげて睨んでも男はもうすでに仰々しいケースの留金に指をかけていた。

「知ってますか三波さん、最近はわたしらやくざよりも地下のもんが悪さしよるんやてな」

「あんなのガキどもだろ」

「この近くでもあったなあ。なんていうんやったか……自分らがやったて印残すやつら」

その手の話は聞いたことがあった。仲間内の私刑やたちの悪いチンピラ、まだ学生の末端の売人もいれば警察ややくざを狙うこともあるらしい。現場には必ず450と数字が書かれていて、その頭を取ってヨゴレと呼ばれているが実際の名前は解らない。それに知ったところでまだストリートギャングに収まる規模の組織に世間が注目するとは思えなかった。

「そいつらのことでわたしの兄貴も手を焼いとるんですわ。兄貴はええ人でね、わたしを気に入って葵に入れてくれたんもあの人でした。細うて身体もよう動かん取り柄のないわたしにでも出来るような殺しを叩き込んでくれてなあ、わたしはもう一生兄貴について行こうて決めとるんです」

手際よく袋を確認しながら男は淀みなく喋った。それを横目に見ながら舌が回るとはこういうことかと僕はなんとなく思っていた。



僕を見るなり血相を変えて掴み掛かってきた年配の刑事を引き剥がしながら歩いた署内に比べて、さっきまで無人だった取り調べ室は冷えていた。この手の灰色をしたコンクリートの床がどんな風に血を吸って変色するのか、それは容易に想像がついた。

友人が口を開き、僕はそれを封殺する。

「乗れるかよそんな話。こっちのリスクがでかすぎる」

彼の言うことはこうだ。やくざとは違い法での抑えが効かない地下勢力に手を焼いている警察は連中がそういった組織と手を組むように仕向け一網打尽に出来るように動いてほしいと言うのだ。つまり警察の面子のために組を動かせと頼まれているわけだけれど、そんなことに頷く理由がなかった。

「だいたいほっときゃ自滅するだろ」

ミツくんが煙草に火を点ける隙間で呟いた。

「蟻を潰すにはどうすればいいと思う?」

「普通に踏めばいいだろ」

「それよりもっといいやり方がある……毒をたらふく食わせて生かさず殺さずのまま巣に帰せばいいんだ。君たちのやり方と似てると思わない?根っこは同じなんだよ、みんな」

言い切ると深く息をついた。煙が蛍光灯に白くけぶる。

「なにが言いたいの」

「大邑のことは知ってるでしょ、奴らそこと接点があるみたいなんだ。君たちのほうで調べてくれよ」

ゆっくりとした動きで首を振ってから男を睨んだ。

「尻尾掴んでんならさっさと動けよ公務員」

「書類がないと動けないのが公務員なんだよ、君たちと違って」



事務所から車で1時間走った都会ぶったビル街の片隅、臭気をかき混ぜる飲食店の換気扇が油臭い息をしている細い路地裏。まだ汗ばむ気候を恨みながら吸いきった煙草を飛ばした。散らばった吸い殻はフィルターぎりぎりまで燃えている。同じ角度で睨み続けて見るのはそのままに痛む首を揉んでいると薄雲が途切れてなにかが光った。

「ヨゴレの奴ら昼までには動きそうだな」

「なんだよ、前に殺したのにまだ生きてやがる」

「何人いると思ってる?そもそもが地下と繋がってやがるし道理がねえから無差別なんだ。間違えばお前がいたかもしれねえな」

声は笑いを孕んでいたのにそれを放った当人は別に面白くもなさそうな顔をしていた。

「流儀がねえのは嫌いだね僕は。殺しには必ず意味がいるんだ」

「そうかよ」

光ったものを窓の近くまできた誰かが持ち上げた撫でるような手の動きは、僕もよく知ったものだった。

「あいつら銃持ってるぞ」

「クソが」

「ほらあれ見ろって」

雑居ビルの窓を見ていた新山がふと目を昏くして呟いた。

「あれ、カズトじゃないか?」

「どこだよ」

目線を動かしてみてもカズトらしき人影は見当たらなかった。



「すぐ飲めるように確か冷やしておいたから……」

調味料がやたらに多い冷蔵庫を漁りながら見当たらないパックを探した。上から貰った半ダースのビールを弟子に譲る約束をしていたのだ。

「三波さん足それ墨入れたんですか?きれいっすね」

「ああこれね、見るか?」

声に振り返ると少年のような目をした男がハーフパンツから出たふくらはぎに見入っていた。

「やった。へえ……ん?ここ、昔怪我してました?」

色ちょっと変わってますね。

真面目くさったトーンで言いながら傷跡をなぞる指先がくすぐったかった。

「2年前かな、逃げてる時に撃たれてちょっと抉れたんだ。最悪だよ。僕は脚のおかげで生きてるようなもんだったのに」

「そうだったんっすか。これ蓮?じゃあ花びらが少しないのは?」

「二度はない。これっきりって戒めだよ」

カズトは、なんか三波さんらしいですね、とこぼしてへらりと笑った。



見回りの最中にカズトが口を開いた。

「この前ね、高校のクラスメイトと会ったんすよ。休みがちだったのにオレのこと覚えててくれたみたいで、嬉しかったっす」

「よかったな。それ、いつぐらいの話なんだ?」

その答えを知りたくなんてないのに誘い出すような台詞を吐いてしまうのはどうしてなんだろう。屈託のない笑顔で告げられたのは路地裏で窓を見上げていたあの時の日付だった。

帰路につく途中にあとで話したいことがあると用事をつけて、軽く着替えてから僕はカズトの部屋にあがった。

「カズト、お前の部屋なんか変な匂いしねえか」

「え?ゴミ今朝捨てたっすけど、その匂いかな」

立ち上がって隅に埃の積もった廊下を進んで座っているカズトの肩に手を置いた。

「そういう匂いじゃねえよ、もっとこう……ああなんだお前の匂いか」

「ちょ、もうなんなんすか」

無邪気な男がくすぐったそうに笑って、僕は舌打ちをかみ殺した。嘘がつけないということは時にかなしすぎる。

「お前は嘘の匂いがするな、カズト」

「は?」

「なあどこに行ってた?ヨゴレのとこでも行ったか?」

言葉に大きく反応してこちらを振り返ったカズトが優しい目元を大きく開いた。黒目が小さく揺れていた。

「いや、ほんと行ってないですよ」

僅かに斜め下に動いた目に合わせて震えた声が鳴る。

「僕に嘘つけると思ってんのか?カズト……ちょっとだけ躾直しだ。明日も暇なことを祈ろうぜ」

粉の入った注射器を取り出せばカズトの目は拡張されたように白い部分が増えた。シリンジを口元に差し出す。

「舌出して垂らせ、ぬるい麦茶は嫌だろ?」

振って溶かしながらキャップを外して真新しい針の封を切った。涙を溜めたカズトが無言で横に頭を振っていた。

「手ぇ握っとけ。大丈夫僕は慣れてっから、すぐ気持ちよくしてやるさ……それから食ったことねえもんはたいがいうめえんだよ」

ジャンルの解らない薄暗くて安い雑貨屋で買った粗悪な針に泣き声を出しながら血流に逆らう薬液にポンプを押し切っても男は喘いでいた。

「半減期って知ってるか?風邪薬にも睡眠薬にもとにかく薬には全部それがある。もちろんシャブにもだ。ま、半日もすりゃ抜けてくるよ。お前に打ったのは軽いやつだけどさ、それでも効くだろ?」

麦茶を飲みながら見やれば、カズトは座った姿勢のまま短い呼吸を繰り返していた。



ホームレスのじいさんが釣り糸を垂らしている横に座って、バラック街とその住人たちの近況を聞いた。ヨゴレのいくつかの拠点のどれもが人の出入りが激しく、動くためになんらかの準備をしているのは間違いないらしかった。やくざ風の男も何人かいたというのを聞いて、大邑か、とひとり思った。

こういうところの情報は案外馬鹿に出来ないものがあった。もちろんただの石を掴ませられることもあるが、相手の懐に入ってしまえばそれも少なくなる。釣具を片付けたじいさんが自分のすみかに僕を招いた。

「外じゃ確かに見かけが悪いもんな」

苦笑いしてスーツの内側に手を入れようとすると止められた。抗議しようとするとじいさんは笑った。

「兄ちゃん、あんた紅茶は飲んだことあるか?」

「え?いやまあ、コンビニで売ってるやつとかなら、たまに」

それを聞くと老人は笑みを深くした。

「じゃあわしがとっておきのを淹れたるとしますかな」

じいさんが棚を漁ってラベルの貼られた缶を並べていく。おしゃれなティーポットを見て、普段急須で淹れている自分が少し恥ずかしくなった。

「随分と本格的だけどよ……これどうしたんだよ、盗品か?」

「はは、貰いもんとか、空き缶と鉄くず拾って集めた金で買ったやつばっかですわ。ほら入ったで」

爽やかな風味が鼻をくすぐってら促されるままに一口啜るとほんの少し緑茶を思わせる若々しい味のあとにほどよい渋みがあった。

「そいつはダージリンってやつでな、特に一番摘みの茶葉だけ使っとる。うまいやろ?」

「うん、すげえうまいよ。僕はもうちょっと砂糖とかほしいけど」

「ほなお代頂こか」

封筒を差し出しながら、そういうことかよ、と僕は笑った。



2週間がして季節外れの台風が連れて来た土砂降りが窓を叩いて、眠れるまでそれを数えていた。

カズトがどこかへ消えてしまったのはその夜からだった。

「おおかたそのへんのチンピラでも使いやがったんだ。クソが」

珍しく感情的になっている新山がゴミ箱を蹴飛ばして舌打ちをした。

「ヨゴレが関わってるって解ったわけじゃねえ」

「でもカズトは奴らと会ってたんだろ!?なんのためにだよ!」

「そんなのカズトに聞けよ!僕だって解かんねえ!知りたくねえよ!」

一瞬あらわにした衝動を押し殺して新山が隅に立てかけていたドスを手に取った。

「こんなとこで言い合ってても埒が明かねえ、行くぞ三波」

「いやどこに」

「カズトのいそうなとこ虱潰しに回るんだよ」


公園の藪を掻き分けて汗が目に入ったところでしゃがみ込んだ。何時間経ったのだろう、太陽は傾こうとしている。遠くを見るとぬっと突き出た赤く錆びた鉄塔が目に入った。車に戻ると運転席に座った新山が疲れた顔をしていた。

「言い出した奴がそんな顔すんなよ」

「うるせえな、次行くぞ」

「なあ、あの鉄塔まで行ってみようぜ」

なにか言いたそうな目線を無視して僕は笑った。

「疑ってんなら晴らしに行けばいいだろ。それにあの下、汚れが溜まってそうじゃねえかよ」

少し離れた空き地に新山が車を停めた。何重にもなっているフェンスに貼られた侵入禁止の千切れた貼り紙を横目に鉄塔を目指して歩いた。倉持製鉄所と書かれた塀を越えると工場と思わしき建物があった。片側を山から降りた蔦に覆われたそれは、入り口には風が吹けばカタカタと音を鳴らす蝶番を残すばかりで扉さえなかった。窓はすべて最初から嵌められていなかったかのようにガラスは消えていたが、近づいてよく見ると地面には細かい破片が混じっていた。

トタンに囲われた隙間から大きな焼却炉が見えた。関係者か不法投棄などで都合がいいのかは解らなかったが取っ手部分はなにかの油で僅かに艶が出ていた。

草が伸び放題になっている奥まった場所から声が上がって駆け寄ると、新山が無言で下を指さした。乱暴に毟られた跡に置かれていた名刺には名前をかき消すように、450と書かれていた。


「なんだあれ?」

新山が焼却炉のある場所を指差した。見渡すとトタンの奥の地面に黒い塊が落ちていた。

「は?ゴミだろ」

「あんなとこにあるか普通」

「……カラスが落としたとかじゃね」

走っていった新山にため息をついて僕は遠くの緑を眺めていた。

「靴だった」

「靴?どんなだよ」

「まあ、俺らみたいなやつじゃなかったけど」

遠くから来たらしいホームレスが蓋の割れたゴミ箱を漁って、焼却炉の場所にしばらく消えてから空き地のほうへ大きなビニール袋を括り付けた自転車を押していった。

「カズトさ、スニーカー好きなんだってよ。だから誕生日の時に買ってやったことあるんだ……そんなわけないよな」

灰色のトタンが赤みがかったオレンジになっているのを見て振り返ると太陽はいつの間にか夕日に変わっていた。

ヨゴレにやられた大邑の人間の死体が上がったのは日付が変わった夜中だった。



「勝手に動くな言うたやろが三波。新山も一緒やわ。言葉も解らんようになったんかこのアホが……それをのこのこアイツらの足跡なんぞ拾って来やがって」

大きい身体を持て余すように殴った拳をさすりながらアマさんが吐き捨てた。

「カズトがやられてるかもしれないんです」

「仮にそうなんやったらこっちで保護する。自分を見つけろて言うてるような奴らやぞ。過去の現場から見通しはつく」

強く睨みつければ歴戦の刑事は憐れんだ目を向けたので、僕はまぶたを落として立ち上がった。

「三波!……松乃に代わろうとかお前思うなよ」

背中に掛かった声を振り切るように足を進めた。



「アマさんから絞られたらしいね。聞いたよ。ねえ呑みに行かない?」

「そういえばまだ二人で呑んでないね」

「それなら決まりだな」

飲み屋が立ち並ぶ裏通りを歩いて、あまり飲まない僕を気遣ったミツくんが明石焼きをメインに掲げた居酒屋に入った。

「ヨゴレに拠点があるのは知ってるよね」

「ああ」

「そのほとんどは雑居ビルでね、取引はやりやすくても殺しには向いてないんだ」

運ばれてきたカルピスサワーを一口飲んでから息を継ぐ隙間に、それで、と聞いた。

「あの規模の集団にしては大きな拠点が二つある。それも、ほとんど隣接してるやつだ。連中はそこで殺しや私刑をしてる。倉持製鉄所ってとこと、そのすぐ近くの山を使って小規模ながら太陽光発電を取り入れようとして失敗した朱鷺ケ谷って廃村と壊されたパネルの跡地だ」

一気に口の中が乾いていくのを誤魔化すように酒を煽った。甘さが喉にへばりつくようだった。

「なるほどね」

俯いて声を落とす僕にミツくんは微笑んだ。

「ヨゴレのトップの層は中国系らしいんだ。仲間内では短い名前で呼び合っていて、特にトップの3人全員が名前に数字を充てられるようになってる。ナオ、ミレ、クゼって呼ばれてる。特にクゼって奴は武闘派で色んなことに関わってる」

「他に解ってるやつは?」

「まだ取り調べの最中で名前くらいしか知らないけどタルって奴がいる。ハーフでカズトくんがいた高校に通ってたらしい」

氷しか入っていないグラスを傾けて噛み砕いた。冷たさが熱のこもった身体を際立たせていく。音を立ててジョッキを置いて、長く息をついた。

「乗ってやるよ、その代わり関係のない組の奴ら引っ張ったら解ってるよね」

「三波くんは優しいね、それが仇にならないことを祈るよ。俺も揉み消しは得意なんだ、不良刑事は思ってるよりたくさんいるからね」

「本当にどっちがやくざなんだか」



「サツにチンコロしたのはお前で間違いないな、三波」

スーツの片袖をゆらして狭い扉を締めてこちらを振り返った長身の男が落ち着いた声で言った。

「誰が来るかと思ったら荒坂さんが出てきやがった……カタワになってから随分と暇になったんですか?」

「言うようになったなガキが。新山に頼まれたんだよ、行ってやってくれだとさ、らしくもねえ」

煙草に火を点けて軽く吸い込むとそれを掴んだまま後頭部をがりがりと掻いたその手が伸びてきて僕の顎を掴んだ。

「下手なこと抜かすなよ、この顎潰すぞ」

「僕はチンコロなんかしてねえっての。だいたいそんなことして長橋にも僕にもなんの得があるんですか」

嘲る素振りで笑って睨みつけても荒坂さんの色の濃いべっ甲飴のような瞳は意に返さぬように鋭く光っている。ようやく離れた手が灰の伸びた煙草を口元に持っていくと、再び僕に向かって振りかぶられた。赤い唾が足元に散った。

「知らねえよそんなこと。知ってるのはそれを吐き出した奴だけだ……なんで頭がてめえやその舎弟と新山みたいなガキどもを拾ってくれたと思う?ほっときゃ野垂れ死にがいいとこのクズだからだよ」

「それならうちは全員クズになるな。そのへんの奴らごときに命張るつもりはねえがよ、組長のためなら全力で生き抜くつもりだぜ。僕はあの方の鉄砲玉だからな。しかし荒坂さんも結構手が早いんだな。本当似てやがるや。新山より先に殺してやろうかおっさん。僕はこのままでやってやるよ、片腕相手じゃかわいそうだからなあ」

背中に隠していた棒を延して軽く振った人が指先で軽く挑発した。

「今はこんなもんしかねえがやってみるか松乃の傀儡めが」

「はっ、揃いも揃ってロートルどもはあの人を通してしか僕を語れねえみたいだな」

縛られている椅子を鳴らして立ち上がろうとした時、硬質なノックの音が崩壊寸前の空気を割った。荒坂さんが忌々しそうに舌打ちをしてから扉を振り返った。

「入ってこいよ新山。お前ら纏めて殴ってやる」

「目的はあくまで情報を引き出すことです。それを持っていなかったら開放するのがルールです。それからくれぐれも喧嘩しないでくださいって俺言いましたよね」

「俺と三波のお師匠さんには因縁があんのよ。解らんだろうねえ若いのには」

「知らないです。巻き込まないでください」

戸口に立ったままの新山は冷めた顔つきで淡々と接していた。そうしてどこか焦っているようにも見えた。握り込まれた指先が弾くように動かされている。

「行こうぜ新山、どうせなんかあったんだろ。おっさんは縄ほどいてくれよ」

「ほんとお前は年寄りを使いやがる……」

「男の顎片手で潰せる奴を年寄りとか呼びたくねえし」

自由になった腕に残った縄目の凹凸を少し楽しんでから痺れを払うように後ろへ振った。顔をあげてみても新山はやはり暗い表情をしていた。

「ところで、38歳のべっぴんさんがいるんだがよ……連れてくか?」

「……そいつ、故郷はどこです」

「てめえの女と一緒さ。お前らマッポと組むんだろ?せいぜい嵌められんなよ」

渋い顔に皺を増やしてかっこをつけた表情で笑うと、荒坂さんは新山の肩を叩いて邪魔くさそうに戸口を抜け出ていった。

沈黙で満たされた余白を突くように新山が言ったことへ、僕は言葉を返せなかった。



消灯された病院の通路は間隔の狭くとられた常夜灯が並んでいて、震える足でも簡単に歩けてしまうことが胸にのしかかった。嫌だ、歩きたくない。怖いものはもう見たくない。見送った人たちが浮かぶ。誰も僕の指から落ちていった。薄明かりが重い足を進ませて、普段どれだけの光を浴びているのか思い知らされるようだった。

病室へと続く通路の椅子に腰掛けて祈るように手を組んでうなだれていた新山がようやく顔をあげた。見慣れない鬱蒼とした表情をしていた。

「さっさと行ってやれ」

声に押されるように個室の扉を引いた。ベッドのあたりに僅かな灯りが落ちている。

「カズト……カズト?」

顔は包帯とガーゼに埋れていてそれなのに腫れているのが解った。そのどれにも触れば付きそうなほど濃く血が滲んでいる。

「お前、なあカズト、どうなってんだよ……」

さまよわせていた視線が足に止まった。片足の盛り上がりが途中で途切れている。

「足どうしたんだ、なあ、曲げてんのか?そんな体勢寝にくいだろ。それに、なんか焦げ臭いな……なんでだろうな」

布団を掴んだ手が震えている。結局それを捲ることは出来なかった。

「もう見たか」

いつの間にか部屋に入っていた新山が足を引きずるように歩いて奥にあるパイプ椅子に腰掛けた。

「なあ新山」

「なんだ」

「奴らを潰すために警察と組んだけど、僕らはそれからどうすればいいんだろうな」

ほとんど独り言のようなそれに、新山は下を向いたままだった。



俺がついてるからお前は戻ってろ、と暗い声に追い出された病院をふらふらと後にして、融資を謳う貸金業者の掠れたチラシや電話番号の書かれた紙がガムで貼り付けられている電話ボックスの薄汚れたガラスに手をついて頭痛を堪えていると右耳が機械音を捉えた。

カシャ、と音がして睨んだ方向には長いコートを着込んだ男とも女ともつかない人物が植え込みから身体を覗かせていた。そいつは大きなカメラのシャッターをひとつ切る度に僕に近づいた。ようやく離されたカメラの奥に隠れた左目のある場所には大きなガーゼがあてられていて、それを剥がしながら口を開けた。

「君が長橋組の三波さんか?私は皿梨新聞の記者で井佐美いうもんです。しかしべっぴんさんなんやな。この重いもんかてようやく生きてくれますわ」

現れた目は健康そうだった。目の周りは黒ずんだ痣になっていたが、充血や赤みも見られない。

「ブンヤが僕みたいな奴になんの用だよ」

「いやあ、うちみたいなちっさい新聞社にはネタがなあての。こうやって歩き回らないけんのです。貴様みたいなしょうもないもんはドブのケツでも洗うてこい言うて会社放り出されました。そんなん言うたかてないもんはありゃあせん、なんやらいう法律のせいでドヤ街かてえらいきれいになってもうた、ほんまゲロ出したりたいわ。きれいになって生きる人もおる、せやけど私らみたいなクズはドブさろうてないと死んでまうんよ。こがな気分はよう知っとるやろ?どうせついてもうとる火ぃじゃ、ミソもクソもあるかいや……ぜーんぶ焼いてまおうやないの。戦争は嫌いですか?」

近付いたブンヤが懐から取り出した万年筆を軽く振るってから、鈍く光るペン先を僕に向けた。

「嫌いかどうかは見てりゃ解るさ」

「ははっそらそうやわ……あんた今更足洗えるとでも思っとりますんか?私らなんぞがきれいな水なんかに入ってみいや、臭うてかなわんわ。三波さん、私が書きたいんは長橋が売りよる薬の出処でも今度のありそうな抗争のことでもなあ……あなたのお友達のことよ」

「友達って……」

無意識に後ろを探った手が空を切る。ため息をつくように笑ったブンヤが目を擦ろうとして傷に当たったのか大げさに呻いた。

「これねえ、ちょっと殴られてもうて。冷やしたあても家になんか帰ってられん。夜は事件が起こりやすいからなあ。天河さんにその部下の三ツ冨さん、この二つ言えばあんたかてさすがにもう解りますやろ」

「……はじめましてのわりに本当に僕のことよく知ってるんだな」

「そりゃあファンですから」

言いながらブンヤは骨ばった指を動かして左目を再びガーゼにしまいながら僕を見て笑った。

「ああそれから……最近大邑の死体あがったやろ。あれどうもフェイクらしいで。大邑とヨゴレは組んどるからな。どうせ大邑のヘマした奴が捜査の撹乱目的で使われたんやろ」

へらへらと弧を描いたまぶたの奥で死んだような濁った色がゆれていた。



路地裏は今日も暗くて生ゴミの臭いが風に運ばれて薄く漂っている。馴染みの刑事二人がカジノをテーマにしたガールズバーの入り口を睨み付けながら煙草に火を点けた。新山がシャツの後ろに手を回して位置を直している。4本の銃を胸に縫い付けられた簡易のホルスターにもう一度深く差し込んだ。

「俺らが揃ったんだ、敵なしってところさ……裏切られない限りはな」

「警察ってのは書類がないと捕まえられないよ。まあそんなのをたらたら待ってられるような人間じゃもうなくなっちまったんだけどさ」

「15分や、いけるな」

アマさんが時計を差し出した。21時まで2分と少しだった。

道を進む。さっきの男に続いて二人連れの若い女が入っていった。

音を立てて開けられた扉を無視して背中を追った。靴底の反響が心地いい。新山がゆっくりとドスを抜いて軽く振りながら。ヨゴレの連中は俺がやる、と呟いた。薄いガラスを割って背中から落ちていくような気分だった。

先に広間に躍り出た新山がフロア全体を舐めるように睨んだ。熱に追われるようにトランプ台に飛び乗ってそこに乗せられたグラスを激しく蹴り落とす。痙攣しそうな喉を開いた。

「大邑どういうことかはもう解ってるよなあ!」

「てめえらネタはあがってっからなあ!法にのっとって僕らが叩きのめしてやるよ!」

飲み口が割れたワイングラス拾って叫びながら向かってきた男の口に押し込めて固定したまま横っ面を蹴り飛ばした。奥に置かれたクリスタルの灰皿を掴んで、膨らんだ腹目掛けて飛び降りてみると思ったより丸かったそこに片足が滑って少し体勢を崩した。

「ようおじさん、丸っこくて可愛い体型はいいけどよ、ちょっと腹出すぎじゃねえか?」

脇腹を蹴るとくぐもった声で呻いた。残りが来ないことに周りを見ると新山がさっさと足が竦む程度に切りつけているのが見えた。

「はあ、あいつずるいわまじで……つうわけでおじさん、気絶しような」

顔を近づけてキャバ嬢直伝の笑顔を向けると男は短い呼吸とともに涙を流した。見せつけるように高く掲げた灰皿を振り下ろすと横を向いてだらだらと吐瀉物を流した。

「悪いな、殺すなって言われてんだ」

鳩尾に押し込めたガラスをもう一度持ち上げて喉を穿つように叩きつけた。

動く気配のない奴らを睨んだまま後ろへ下がっていくと、一人の男が怒号とともに突っ込んできた。素早く後ろへ走って、熱帯魚が泳ぐ水槽を掴んで厚いガラスの面を頭に打ち付けた。派手な音をあげて床に落ちたそれの底に厚く敷かれた砂利に手を伸ばす。

「おっとまだ食うなよ。口に溜めてろ」

閉じきれていない口元に拳をたたきつけると石の擦れ合う音が気持ちよかった。落ちていたサイコロを二つ掴んで見せつけてから口に押し込む。

「さて丁か半か……てめえはどっちに賭けたい?」

殴りつけるたびに頬肉から伝わる石の感触が面白い。手が痛くなってきた頃になると削れて薄くなった肉から皮膚を突き破ろうとしているのが見えた。立ち上がって蹴り飛ばすと小さな音がして空いた穴から小石が落ちた。うすら赤い唾液とともに口から転がりでたサイコロをしゃがんで見つめてから笑った。

「あーあ、割れちまってら。これじゃ引き分けだな」

手に乗せたそれを見せてやると、男は半目で変な呼吸をしていた。

「死ねや長橋!」

叫び声に振り向くと丁度飛んできた角瓶が鼻に命中して、力が抜けた途端に数人の男に抑えつけられた。新山が振り返って叫んだ。

「ちょっとそこから離れてもらいましょか」

ふと落とされた場違いな空気の声の方向を探していると、馬乗りになっていた男が倒れかかってきた。シャツの片側が見る間に血で濡れていく。繊細なレースのあしらわれたドレスの裾が揺れる。

「誰だよ……女」

「ほんまに厚化粧はいややわあ。見分けてすらもらえんようになる。髪は自前でいうんがぼくのこだわりやったのに、こないなもん被せよって、アホちゃうか」

「……おい、あんたまさか葵んとこの」

「お久しぶりです三波さん、今回の件はわたしらも知っとるとこの末端が関わっとってな。ほんで新入りのぼくが送られたんや」

的確に殺す手つきは相当に手慣れたもので、暗殺者という言葉が脳裏を過ぎった。血溜まりに滑りかけたヒールを纏った足を取り繕うように笑うと、僕に近づいて歌舞伎の女形のような仕草でうやうやしくお辞儀をした。それは異様な空気とバーの妖しい照明の中では女装をした男というより、もっと別種の美しいいきものに映った。男の髪を伝った返り血が唇に落ちた。

「それにしてもチンピラ組織潰すごときであの孤高の長橋がサツと組みよるんか。いくら直参のうちでも呆れてものも言えませんわ」

「ヨゴレと大邑は繋がってるんだ。見逃すわけにはいかねえだろ」

「さあ、どやろなあ。なんでも多いほうが楽しいやろ?血も死体も。その楽しさをよう知っとるはずやろうが、あんたらは」

まだふらつく頭を押さえながら上体を起こして胸ぐらを掴み思い切り引き寄せた。鈍い音がして再び脳が震えた。

「お仕事は終わったんだろ?消えろやオカマ野郎」

「犬畜生」

「てめえはその犬に狩られるクソ狐じゃねえか」

新山が近づいてきて男の胸ぐらを掴んだ。

「クソ野郎が好き勝手に殺しやがって……!」

「ほな殺さんかったらええんやな?」

微笑を浮かべたままでそう言うショート丈のジャケットの内側からガバメントを出すと見もせずに腕を動かしながら声の上がった方を数発撃った。生きている証拠に長い呻き声があちこちであがる。

「これでかまわしまへんのやろ?」

雑に拭った口紅を頬にまで伸ばしながら痩身の男はやくざとは思えない壮絶に妖艶な笑みを浮かべた。銃を再びジャケットの奥にしまうと奴は、もうすぐ兄貴が迎えに来てくれるさかいきれいにしとかんとあかんねん、せっかく似合うからて買ってもろたのに失望されたらいややろ?と言いながらトイレへと消えて行った。

「で?残ってる奴らは?」

「俺が知るかってんだ」

「それなら呼んでみっか。よおクソッタレども!ビビって隠れててもションベン垂らしたらバレちまうぜ!?さっさと出てこいやチンカス野郎が!」

数秒の沈黙のあと震えた怒声や罵詈雑言が湧き上がって、二人でその中心に突っ込んだ。

「おい、抜かねえのか」

「刀が汚れちまうだろ、鞘でじゅうぶんさ」

壁に飾られていた本物のダーツの矢を束ごとひっ掴んで捕まえた男の頬に刺した。貫通する手応えを感じながら悶絶する男を投げ捨てた。黒服にボトルを頼んで渡されたアマレットの瓶で迫って来た奴のこめかみをフルスイングで殴る。

新山の近くまで歩いていると伸びていたはずの男がスラックスの裾に噛み付いてきた。

「あぁ?死んでろよ」

足をふるって蹴りを入れると仰向けになった男は荒い呼吸をしていた。

新山の隣に行けば追い詰められた相手がしつこく後ずろうとしていたのを踏んで阻止した。新山がようやくドスを抜こうとした、その時だった。

「はいそこまで、21時18分大邑組幹部とその構成員および450構成員確保!」

声がして振り返ると扉の細い隙間を通って出てきたのは手錠を持ったミツくんとアマさん、それから数人の見知らぬ刑事だった。湧き上がる疑念に背筋が痙攣のようにぴくりと動いて、僕と新山は弾かれたように武器を構えた。

「……売ったのか?」

「そうじゃない、落ち着いて」

「じゃあそいつらは」

「ヨゴレへの捜査に不満があったのは俺だけじゃないってこと。ここにいるみんなは信用していい」

銃を向けたまま睨みつけているとくたびれたワイシャツに時代外れの太いネクタイを少し緩めて薄い灰色のジャンパーを羽織った野暮ったい格好の男が僕を見て目を細めた。

「なるほどねやっぱり三波か。5年前とは顔つきが変わったな」

「……誰だよおっさん」

「なんだ、聞いてると思ってたんだが。それとも松野は天河の話しかしてなかったかな……ああ失礼、名前がまだだったな。俺は最後に奴の取り調べを担当した刑事の山野田だ。お前も隣で受けてただろう?」

睨んだまま銃口を向けて近づいても山野田という男は気にも止めていないようにポケットに手を突っ込んで、取り出した煙草にゆっくりとした動作で火を点けた。

「そっちの兄ちゃんの名前は知らねえが……ドスの中身がよく似ているな。荒坂の弟子か?よかったら連れてきてくれよ。時期は早いがうまいおでんの屋台があるんだ」

「荒坂さんは警察に引っ張られたことなんかないと言っていたぞ」

「ああ、だって俺とあいつは立ち飲み屋で意気投合したクチだからな。おい、車は足りるか?入るだけ詰め込め」

近寄ってきた冴えない顔をした中年の刑事が、今のうちに帰ったほうがいい、もうすぐ署の連中も来るから、と僕らに頭を下げた。壮年の刑事は振り返ることなく追い払うように後ろ手を動かした。

いつの間にか降っていた夜露に濡れたアスファルトが安ネオンの明かりを硬質に映している。

「三波」

「なんだよ」

息が詰まりそうな数秒の間を置いてからうつむいた横顔が言葉をこぼした。

「お前はもう少し慎重になれよ。大事なものを守りたいのならな。そうしていれば少なくとも俺はなにかを失わずに済んだから」

「そうかい。カズトに伝えとくよ」

そう言ってやれば見てとれるほどの自己嫌悪を浮かべて小さく笑った。

「……悪いな、助かる」



まだ包帯やガーゼは当てられているが血の滲みもなく、見えている部分に酷い怪我は見られなかった。薄く開いた唇は荒れて皮がめくれている。見回りに来た看護師に頭を下げた。

「なあ看護師さん、ちょっとカルテ取ってきてくれ」

「三波!」

「持ってこいっつってんだよ、早くしてくれ。時間ねえんだ」

静止の声すら感情を燃やす追い風になるだけで腹の底では熱された黒い塊が居座り続けているようだった。おろおろとしていた看護師がベッドの横に立って布団の段差を眺めながら懺悔のように言った。

「この人、焼かれたんだと思います。足の傷、血が固まってましたから……熱した鉄を当てたような。もう切ったから解りませんけれど傷口に痕がついていました」

空気が重くて、呼吸をすれば肺に鉛が落ちてくるようだった。ゆっくりと移動した新山が包帯からはみ出た髪を指で撫でていた。

ドアが勢いよく開いて、息を切らした刑事たちが入ってきた。ペットボトルの水を軽く含んでから、並んだパイプ椅子にそっと座った。

大振りなベットの縁を撫でたまま僕は口を開いた。

「ごめんミツくん、それにアマさん。今日は新山と一緒にカズトのこと見ててくれよ。僕は仕事が入ってんだ」

落としたトーンで言えばみんなが小さく頷いた。頭を下げて僕は病室を後にした。

病院から出て右に曲がったところにある電話ボックスの中にいたブンヤがガラスにもたれて受話器を肩で挟んだまま掌をあげるとひらひらと揺らした。

「ほな案内するさかい。はぐれへん程度についてきてや」

寂れた通りまで出たところでブンヤが振り返って手招きをした。

「ヨゴレの秘密知りたいんやろ?三波さんやさかい特別に見せたるわ。ポリはぎゃあぎゃあやかましゅうてかなわんわあ」

「さっさと見せろよ」

「ちょっと待ちいて……はて、車どこ停めよったかいの」

一直線に見渡せる通りに車のような影はなくて、それをみとめたブンヤが落ち葉の山を蹴り上げた。爪先が丸っこい形しているくたびれた革靴が日差しで照っていた。

「すまんすまん、パソコン開くから前乗ってくれ」

「なんでそんなもんいるんだ?写真じゃないのか?」

「ええから乗れって。欲しいんやろ、あいつらの秘密」

古いワゴンRは片側ドアで、回り込んで助手席の扉を開けた。車は全体的に塗装を塗り直した痕があり、とこどころが削られて元の地が見えていた。ガーゼをダッシュボードに置いたブンヤは痛むのか目を抑えて呻いていた。少しして離された掌の上には玉を切ってくり抜いたようなものが乗っていた。

「あんた義眼だったのか……」

「ああ?なに言うてんねんこっちも生きとるわ。こいつは被せとるだけ。ま、ずっと塞いでるから慣れるまでちょっと見にくいけどな」

人を食ったような表情をこちらに向けると、僕の前に顔が近づけられた。ブンヤの左目は光に晒されないせいかもう片方と比べると全体的に色が透けていて、それから目尻側の白目の大部分が内側から滲ませたように赤く染まっていた。

「これ見てみいや三波さん、カナダのエロ親父たぶらかして半分金出させたった高級品よ。壊れるまで使うつもりやねん。それも知らんとあのクソ上司がほんまいきなり殴りやがって、沈めたろか。どや?つけとるヒト様なんかより役に立つやろ?」

「は?え、これ?」

動きに合わせてモニターに映し出されるものが変わっていく。鼻先まで近づけられたものが下がっていくにつれて動揺を浮かべたままの僕の顔がはっきりと映っていた。

「カメラ。見えへんやろ?そらそうやわ私かて解らんもん」

「まさかお前これで」

「正解。ま、私が欲しいんは血反吐が出るような事件やさかいそうそう撮りはせんけどな。そのためにガーゼ当てとるわけやし。私は私の正しさを信じとるからなあ。目えくらい安いもんよ。ジャーナリズム、クソ食らえってな」

「……逃げろよ、こんなとこいたらお前死んじまうぞ」

「ははっどのみちもう袋小路におる身ですからな、楽しみにしときますわあ」

笑いながらブンヤはパソコンを少しの間弄ると、あったあった、と楽しげに呟いた。

「こいつが私が見届けたヨゴレのやり方や。画質は堪忍な」

再生された映像には遠くに横たわる男が映っていて、外ではなにやら喚いている声と金属音が聞こえた。その内歩いてきた数人はへらへらと笑ってなにごとかを投げ付けている。

「これ、日付はいつだ?」

「これが一番新しいから……10月の20日やったかな」

心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。そしてこの映像はカズトがやられるものだと強く確信した。長身の男はなにか噛まされているのかずっと呻き続けている。

男が持った鉈が振り上げられ、右足首より少し上のところに下ろされた。骨に食い込んだ刃を力ずくで抜き取るとまた一撃振り下ろす。骨が割れて砕ける低い音は離れた距離でも拾えた。

「誰か鋸貸してくれや」

遊びでも楽しむかのように下劣に笑いながら男は鋸を仲間に渡すとカズトに近寄った。

「高校で同じクラスだったでしょうて言ったくらいでのこのこ来てくれて……有難うねえカズト。昔からほんとお人好しだったもんなあお前。お人好しって書いてバカって読むんだぜ?知ってたか?俺、バカは大好きなんだよ」

傷口を削られながらカズトは血の混じったあぶくを吐いていて、それを見て男は嬉しそうに笑った。

「もうすぐで楽になるぜカズト。せっかくクラスメイトだったんだ特別に処置もしてやるよ」

その時気づいたけれど映っていない奥の方でパチパチとなにかが燃える音がしていた。せり上がる胃液に眉を顰めながら必死に飲み込んだ。酸が喉を焼く。

男たちが手にしていたのは鉄棒や焼きごてで、どれもが火の色を纏っていた。暗がりを照らす赤に転がった靴の影が浮かんでいる。

「止血してやるよ」

いっせいに飛びかかると次々に焼ける音がした。火の点いた煙草を水につけた時の音を何倍にもしたような、そんな音だった。ブンヤは皺のついた痩せた煙草を吸いながら無表情に電話ボックスから取ってきたピンクチラシを眺めていた。



ドアをノックされて扉を開けると息を荒げた新山が上がり込んで僕の前に小さな写真を突きつけた。

「掴んだぞ三波、タルって奴だ。こいつがやったって証言が出た。三ツ冨さんが言うには裏も確実らしい」

新山が見せたのは監視カメラから現像したらしい荒い写真だった。元々の画質が良くない上にそいつだけを切り抜いているから鮮明ではないが、目鼻立ちや顔の形、癖のある長い髪の毛や体格は読み取れた。一通り眺めて新山の手から写真を奪った。遮りの声を素通りしてジッポから火が伸びていく。紙の特性もあって中々燃えなかったが、僕はずっとその顔を睨みつけていた。

「こいつが行きそうなとこ解るか」

「解らない、ただヨゴレを追っていて気づいたことがある」

「なんだ」

「奴ら、殺しや私刑をした場所にはその後何回かは必ずくる。見回りかなんなのか、理由までは解らないがな」

煙草を揉み消してから立ち上がって伸びをした。両手を軽く振りながら新山を見る。

「じゃあ今から行くか。車出してくれよ」



派手に傷のついたものから雨風に晒されているもののほとんど新品同然のものまで、何台も雑に停められている場所は全体がフェンスで覆われ侵入禁止と錆びついた看板がぶらさげてある。そのひとつひとつを軽く押して確かめるとひとつだけ簡単に動くものがあり、下を見ると地面には真新しい開いた時の跡があった。

新山が何本か纏まって落ちていたゴルフクラブを手に持った。

車体に隠れて耳を澄ますと漏れ聞こえるくらいのクラブミュージックを流して揺れている車から下品な笑い声が聞こえた。

「……車に乗ってるのか?」

「そうみたいだな」

声の方向を新山が強く睨んだ。そこは車の台数が少なく、簡単に見つけられそうだった。しかしその場所の向かいには一台も停まっておらずかなり回り込まないといけなくなる。逃げられないことを祈りながら息を殺して進んだ。

15分かけて回り込んであと車ひとつ分と言うときにアクセルを踏んだのか車体がぐらりと揺れた。止めるよりも先に走り出した新山がフロントガラスを叩き割るとそのまま運転席まで回り込んで窓を突き破ると鍵を開けて男を引きずり出し地面に叩きつけた。鳩尾をぐりぐりと踏みつけながらも新山は冷めた顔をしている。

「てめえヨゴレだよな。なにしに来たんだ?タルって奴知ってるか?」

倒れたままえずいている頬を数回叩いてから新山に足をどけろと手で示せば不満そうに離された。

「どうなんだよ、返事次第じゃ帰れねえと思えよ。僕らのやり方はチンピラとは違うって知ってもらわねえと」

苦悶の表情を浮かべたまま軽く頭を振った男が薄目を開いて僕らを見た。

「タルは組織に入る前からの友人だ……簡単には売れっ?」

風を切る音がして顔の3分の1ほどはあるクラウン部分が耳の少し横に落ちて土埃をあげた。

「悪い悪い素振りのつもりだったんだが、ちょっとずれちまった」

いつの間にか煙草を咥えていた新山が楽しそうな声をこぼした。威嚇するように細い息を繰り返す男が震える声で叫んだ。

「大義もねえくせにやくざのクズ野郎がっ!」

言い切られる前に反応した新山が男の顎を掬うように掴んだ。

「大義は知らねえが命を張れる人間はいるさ。同じクズ同士どっちがいいクズか試してみるか?」

顎を掴んだ手に力が込められて、骨が軋む例えがたい音がする。1分ほどして新山が手を離した。

「……なんてな。荒坂さんのようにやるのは俺にはまだ早いみたいだ」

痙攣している男に背を向けて歩き出すと、土がなにかと擦れる音が聞こえた。先に振り返っていた新山がクソッと悪態をついた。車の下から黒ずんだ血のついた鉈を引きずり出した男が立ち上がって声を上げた。

「タルの代わりに俺があのお友達みてえにしてやるよ!」

ゴルフクラブから手を離してスーツの内側からベレッタを取り出した新山に目を見張っている内に銃声と倒れる音がした。もう一度クラブを拾い上げて近寄ると威嚇のように腹へ一撃を入れた。

「おい新山」

「止めんな三波。こいつは俺にやらせてくれ」

途中で曲がったゴルフクラブをへし折るとその先端で唇をなぞった。

「こういうやり方は元々俺の性に合わねえんだ……しかしかわいい後輩をやられたからなあ、そこで思ったんだ。ここはひとつ、あいつの流儀に沿ってやろうとな」

細長い金属がゆっくりと口に押し込まれていく。やわらかい肉に当たったところで新山がぐっと力を入れた。男が口の隙間から血を吐き出して噎せている。

「そんなに喉が痛いか?漢方薬を飲めよ。あれは効くぞ。しかし……」

お前にはこっちのほうがいいな。

音を立てて引き抜いた金属をもう一度差し込むと今度は地面に食い込むくらい体重をかけた。白目を剥いて痙攣している男の動きが徐々に弱っていくのを見つめていた。音楽は一番の盛り上がりを見せているところだった。

「あの銃、荒坂さんが僕にくれたやつだろ」

「お前にとは言ってなかったぞ」

「しかしあのおっさんとお前がベレッタか、あれは綺麗なネーチャンが持つから決まるってのに」

「撃てりゃいいさ」

不法投棄の山を適当にバラして棄てるために死体を動かすと男の首元に出来た血溜まりで溺れかけている蟻がいて僕はそれを踏み潰した。



部屋を出たら扉の前に立っていた新山が僕の荷物を見て少し驚いたようだった。

「武器全部持ったか」

「おう」

相槌を打つと手が差し出されたので僕はそれをはたいた。

「なんだよ、半分なら持つぞ」

「いらねえよ、これは僕のだ」



長い癖毛をひとつ括りにして、背中に回された旧ソ連軍仕様のタンカースジャケットの特徴的なマスクはところどころにストリートを思わせる装飾がされていた。シルエットの崩れたやや緩めのジーンズをがに股で動かしながら塀に刻まれた文字を指でなぞってから男はその奥へと入っていった。後を追って製鉄所の門を超えると数メートル前に先程の背中があった。音を立てずに近寄って、数歩踏み込めば掴める距離まで来たところでわざと派手に武器を取り出して振り返った男の驚愕した顔を焼き付けるように目を見開いた。

後ずさる男が焼却炉まで入ったところで一気に畳み掛けた。軽い悲鳴を上げて身体が倒れる。新山がパイプ椅子を燃えかすが散らばる前に置いた。

「てめえがタルか。弟子が世話になったな……病院まで連れてってくれたんだろ?あいつ歩けねえからな」

羽交い締めにして椅子に下ろすとヒステリーのように暴れる肢体を縛りやすいように押さえつけた。縄の食い込んだ腕をなだめるように優しく撫でさすってやる。

「カズトの怪我止血してくれたんだよな?僕らでてめえの顔の止血してやるよ」

袋を広げると濃い油の匂いに頭が浮きそうになった。新山が、油多すぎたな、とようやく笑った。

「ガキ連中は加減ってもん解らねえからな。だからバカなんだ。上手くやるにはどうするか、条件を満たせばいいのさ。この素材は最初は燃えやすいんだけどそれなのに結構火に強い。出来るだけ長く火を保つ必要がある場合はどうするか、もう解ってるよな?」

袋越しに聞こえる悲鳴を刻むようにジッポを鳴らせば、金属音をなにかに勘違いでもしたのか男はより一層激しく叫んだ。

「肉は程よく火が通ったやつが好きでね、赤すぎるのは苦手なんだ……なあ、お前はどうだろうなあ」

新山がジッポを投げた。上へ昇るように白く広がった光のいくつもが小さく爆発して眩しい。熱気が肌に沿ってうねり、呼吸をすれば肺が焼けるのを感じた。離れようと踵を返しても新山は立ったまま動かずに炎の奥を睨んでいた。光を受け止めた大きな目が揺れ動く波長に合わせて色味を変えていく。その姿は僕には火に魅入られた獣が重なるようだった。

出入り口近くの壁にもたれて時間を見ようとしてため息をついた。太陽が沈みきりそうな様子を見ると20分も経った頃だろうか、新山の近くまで歩いて時間を聞けばおよそ外れではない答えが帰ってきた。近くのボロいビルから持ち出した消化器を未だ燃え盛る炎に向ける。勢いが消えるまで3分は掛かった。

横倒しになった椅子から真っ黒に焦げた袋を剥がすと、皮膚の表面は完全に溶けてなくなり爛れたものが真皮の深いところまで焼かれた肉の上に縮れていた。新山がナイフで火傷の上をなぞると男は小さく呻いた。

「随分きれいに焼けたんじゃねえか?汚え顔もそのうちつるつるになるぜ……おい、なんか喋れや」

焼け残った髪を掴んで強くゆすれば軽い感触とともに髪が千切れた。舌打ちをした新山がどすどすと歩いてきたと思うとなにも言わずタルの頭部を踏みつけた。

「死に損ないは一生死に損ないでいろ。クソッ、てめえみてえな奴にカズトは……!」

男の身体を引き摺って焼却炉に突っ込もうとしていると、奥から転がり出てきたものがあった。拾い上げたそれは片足だけの黒い、カズトに買ったものと同じ型のスニーカーだった。


「ねえ、誰のこと隠してんの?どうせタルだろ?」

男の声がして振り向くと、出入り口の向こうに背の低い中学生ぐらいの少年が立っていて、こんなガキもヨゴレなのかと思った。

「心配しないでよ。俺はヘマした奴がちゃんと殺されたか見に来ただけだ。おかげで処分する手間がはぶけたよ」

ポケットに手を突っ込んだままペラペラとガキが喋った。嫌味なくらい大人ぶった仕草がいちいち鼻についた。

「あれ?そんな靴まだあったんだ。とっくにゴミになってると思ってたよ……ああ、それともあんなバカの靴なんてゴミになる価値もねえか」

ゆっくりと近寄ってあるだけの力で殴りつけた。肉の奥に骨の手応えがした。倒れ込んだ男に馬乗りになってもそいつはニヤニヤと僕やその近くに立つ新山を交互に見やるだけだった。胸ぐらを掴んで至近距離で睨みつける。

「戦争してみるかいヨゴレのクソガキ」

「抜かすなよ兄ちゃんこの国は法事国家だぜ?」

また会おうよ、今日はこれでさよなら。

するりと僕から抜け出すとガキは瞬く間に薄闇に消えていった。



病棟の重いドアを開けると担当の看護師が僕たちをみとめて顔を明るくした。

「いつもカズトさんのお見舞いに来てくださる方たちですよね。今日は他のお二人はいらっしゃらないんですか?」

おそらくアマさんとミツくんのことを言っているのだろうと思って、今日は少し、と僕は濁した。

「早く行ってあげてください。あんな目にあったのに、彼ったら本当に前向きなんですよ。私たちのほうが元気づけられるくらいです」

なにがあったんだろうと思いながら個室の扉を引くと、いつもは寝ているはずで見えない背中があった。音に反応した頭部がこちらを振り返ると、少しくたびれた笑顔を向けた。

「三波さん、新山さん、オレ心配かけてごめんなさい」

言い切る前に走っていた身体を飛びつくように痩せた背中に預けていると、正面まで回ったらしい新山がカズトの肩に額を擦り付けていた。

「謝ってんじゃねえよバカ野郎が……!」

「もうすぐ戦争だ、足の分だけじゃねえ、傷のひとつまできっちりケリをつけさせてもらうつもりだ。だからお前は今は休めよカズト」

新山の横に僕も回り込んでいると、カズトは少しだけ考えたあとに顔を上げて、ニィと見たことのない、彼にしては悪い顔をした。

「オレねもうすぐ包帯取れるんです」

「……よかった、って言っていいのか?」

新山が左足とふくらはぎの上側を残しただけの右足を比べるように眺めていた。

「それでね、義足作りたいって言ったら先生からOK貰えたんですよ!」

「カズト、お前……」

「別に無理しなくていいんだぞ」

冷めた声を投げてから耐えきれないというように新山は頭を垂れた。パイプ椅子が軋む。

「もう、もっと喜ぶと思ったのに……ふふ、なんてね、嘘です。大丈夫ですよ。自分で決めたことだから。それにオレ、まだまだ走ってたいんです。新山さんとも、三波さんとも」

それにこのタイプの足に合う義足だと結構走れるみたいですよ。

そう言ってカズトは今度こそ快活に笑った。

病棟を出る前に歩み寄ってきた見たことのない看護師がお辞儀をしたのでこちらも慌てて頭を下げた。

「どうもはじめまして。私はここで師長をしている者です。カズトさんの足は私共が全責任を持って死力を尽くさせて頂く所存です。ですからご安心して、あなたがたは生活してください」

単純で、だからこそ力強い言葉だった。お願いしますともう一度頭を下げて、今度こそ扉をくぐった。



部屋をノックされてドアを開けると珍しく私服の新山が、出るからお前も着替えろ、と言った。適当に合わせて出ていくと数メートル先にいる新山がこちらを振り返るってすぐにまた歩き始めた。

走る道がどんどんあぜ道に変わっていく。荒れたコンクリートで車体が揺れた。2時間ほど飛ばしたところでやっと新山がエンジンを切った。

「どこ行くんだ?」

「神社だよ」

「はあ?なんでまた」

「来れば解る」

急な階段を下るとそこには急勾配を申し訳程度のコンクリートで固めた狭い通路の脇に野菜の無人販売所があり、小さなシートが飛ばないよう重り代わりに置かれた小銭や数枚のお札が入った大きなジャムの空き瓶があった。短いレンガ造りのトンネルを抜けて階段を登る。樹齢700年をゆうに超えるというケヤキが面積の大半を占める神社を見るのかと思ったら新山は迷いもなく本殿を抜けて分厚い石造りのトイレをノックしていた。ひとつの扉に目つきを変えた新山がそのドアノブを激しく回して、ようやく開いたドアから現れた人物に僕は目を見張った。

「よお久しぶり」

「あれえ?どこぞのチンピラか思たらあんたらとは、ははっこら大当たりですの。しかし新山さんは服でえらい印象変わるんやなあ」

洗った手を神経質なまでにハンカチで拭きながらブンヤは反吐を吐くように笑った。

「相変わらずうるせえ奴だな。俺らはな、あんたの言うとおり警察と組んだよ。ヨゴレの奴らと戦争しようと思ってるんだ」

「ふうん、それで?狙いはなんなん?」

「ヨゴレのことを記事にしろ。とにかくでかいやつだ」

数秒の間を置いてブンヤが失笑した。

「やくざが人の小指人質にとってなにを言いよるか思たら、ネタのほうから歩いてきよったわ。私もそろそろ売れ時かいの。ほんで、出処は?」

「さあな、てめえで考えろよ」

「なるほどねえ……はっ、クソポリども。やくざ面しおって今のうちに笑うとけや。私に見られた奴は終わりなんよ。さて、次はどこに隠れるとしますかいな」

ガーゼを軽く押さえると、ブンヤは頭を掻いてあくびをしながら境内の拝殿やこじんまりと立てられた社に向かって適当に礼をしながらどこかへ歩いて行った。

新山が注連縄の巻かれた大きな木を素通りして一本の木の前に立った。

「さっきのデカいのもそうだが、この木もここのご神木でな、種は黒くて硬いから数珠にもなるらしい」

「ふうん、作ってもらえんの?」

「解らない、でも俺たちはまたすぐに人を送らないといけないからな」

横目で見た新山はやはり鬱屈とした影を背負っているふうに見えた。

「また来ようぜ、ここ。今度はちゃんと三人で参りにな。カズトなんかこんなとこ来たことねえんじゃねえか」



病棟をゆっくりと歩いて扉の開け放たれた大部屋を覗いた。シーツや布団にかけられた白いカバーが起こす清潔な香りを、これもまやかしなのだろうかと息を吸い込む過程で思った。

「よう、来たぞ」

「あれ?早いっすね」

髪をゆらして振り向いた部下の少し肉付きがよくなった顔の線をみとめて少しだけ笑ってみせる。

「戦争に行くからな」

「オレはなにすればいいんですか」

近づいてベッドの上に袋を放った。中身が滑って顔を出した。上着を脱いで椅子にかけた。

「これ……」

ボタンを数個外してシャツを捲りあげる。抜き取ったそれをそのままベッドに放ると布が擦れる音がした。

「頼む、巻いてくれ。腸変形するくらい強くだ」

カズトがさらしを見つめたまま、はい、と答えた。

「出来ましたけど……どうですか?」

「はは、ちょっと動きづれえや」

「えっ、駄目だったら」

「いいって、これぐらいじゃなきゃ意味がねえ。ありがとよ」

カズトがさらしを撫でて、どんな意味があるんですか、と聞いた。

「これ何重にもきつく巻いただろ?すると一太刀浴びたくらいなら中までは届かねえらしい。ま、大半はゲン担ぎかな」

「ふふ、それならなにかの間違いで新山さんに切られても平気っすね」

「そん時は撃ち殺してやるまでだな」

服を着てじゃあな、と告げればカズトは座ったまま深くお辞儀をした。

病院内のコンビニで新聞を確認すると、大手にはさすがに載っていなかったがこのあたりにしかない地方紙には2面の欄にヨゴレと大邑の金銭のやり取りについてやヨゴレの起こした過去の事件や拷問の詳細が細かく書かれていた。



「あっは!三波さぁん、見よったかぁ?私もちゃんと仕事するんやで!」

場違いに明るいブンヤの声がして辺りを見てもその姿はなくて振り返るとクラクションが馬鹿みたいな音量で鳴った。停められた車に駆け寄るとアマさんが後部座席に身を乗り出して舌打ちをしながらブンヤの髪を鷲掴みにしているところだった。ブンヤは気にもとめずに、記事書かせてくれたお礼にガムやるわ、と言いながら長い腕を伸ばして僕の手に細長い板ガムと紙を握らせた。

助手席にいたミツくんが車を降りると申し訳なさそうな顔をあげた。

「ごめん、俺たちの今日の突入は少し遅れる。山野田さんたちに先に行ってもらえるように話したんだけど、この件は署内でも内密だし俺が指揮官だからって……ここが山って時に本当にごめん。この記者がヨゴレの関係者かどうか調べなきゃいけないんだ。さっき呼ばれてたけど三波くんの知り合いなの?」

「あー、そいつのカメラマンのたまごで、そのモデルなだけだよ。本業は記者みたいだけど潰れかけの会社で部下蹴落としてまで自分の机守ってる奴さ。叩いたって埃しか出ねえぜ。さっさとヨゴレの連中潰して待ってるから僕らが風邪引く前には迎えに来いよ」

「有難う。出来るだけ早く行くよ」



新聞の切り抜きを見ながら新山と歩いた。ブンヤから貰った紙には手描きの簡単な地図と地名が書いてあった。製鉄所を通り過ぎても廃村らしきものはなくそのまま300メートルほど歩いたところでY字路があった。地図をくるくると回してみると、確かにこの場所が示されていた。

「じゃあ朱鷺ケ谷はこっちか」

「そうだな、行こうぜ」

進もうとした僕の肩を新山が掴んで前へ踏み出した。

「こっちは俺に任せてお前は製鉄所まで行け」

「はあ?」

「向こうは狭くて俺の武器じゃやりにくい。お前にとっては利点を活かすことが出来る。だいたいガキ連中倒すのに俺ら二人もいるかよ」

煙草に火を点けて深く吸うと、新山は振り返らずに進んでいった。


製鉄所の塀を撫でて息をついた。雑念を追い出すように頭を軽く振って、足を進めた。

扉のない工場の奥でなにかが光った。駆け込むと均等に並べられた機械や空中で入り組んでいる通路があって、その半ばに剥き出しの幅の広い変わった刀と改造された見慣れない銃を持ったマンバンヘアをラフに纏めた男がいた。

「タルの野郎片付けてくれたやくざだろ?結構若いんだな」

「てめえはヨゴレの誰だ」

「トップ含めて仲間からはクゼって呼ばれてるよ。創設メンバーってやつさ」

「なるほどな」

スーツから銃を取り出して伸ばした腕を軽く振るとクゼはニヤリと片方の口角を吊り上げた。

「この刀あんたは見たことあるかい?大陸のほうではこっちが主流なんだ。もっとも、こいつは処刑人しか使えないやつだけど。それに刀と違って片手で扱える。ま、取引まで漕ぎ着けるのは大変だったけどな」

「はっ処刑人気取りとはなかなかに最高だな、寒気がしてきやがった。取引相手についてって帰っちまえばよかったのによ」

「てめえこそ尻尾巻いて帰ると思ってたぜ」

「半殺しで引き渡す約束してんだよ」

大きい機械に素早く身を隠して銃を向けたクゼを横目に赤錆た階段を上った。地響きのような発砲音は反響を伴って感覚を狂わせる。勘を頼りに睨んでもすでに立ち昇った大量の白煙が目隠しになっていた。目を凝らして光るものに向けて撃っても大振りなそれに弾かれてしまった。不利な状況を考えて、日が落ちる前に勝負をつけるか、どうにかして外まで引き摺り出すしかないと思った。細い通路を進んで壁際へ飛び降りる。まとめられた資材から使いやすそうな金属を引き抜いて煙の中へ飛び込んだ。見渡していると細長いいくつもの銃口がこちらを捉えているのが見えた。とっさに伏せた瞬間また腹に響く轟音がして走った激痛に右足の肉が抉れたことを悟った。

「心配するなこの銃は殺せるようなものじゃない。お前らの動きを止めるためのものだ」

足音がこちらへ迫ってくる。煙の隙間から一番幅が広くなった刃先が見えた。刀の中心部分を目掛けて弾が無くなるまで撃っているとクゼが目を歪めて笑った。

「こいつの獲物になるのがそんなに怖いのか?大丈夫だ、一瞬で殺してやるよ」

2丁目を取り出して背後に隠したまま鉄棒を引き摺らないようゆっくりと移動する。触った感触から機械は十分に頑丈そうだった。

「ならさっさとこいよ。ま、そう言った奴らはほとんど僕に殺されたけどな」

挑発してやれば煙の中から姿を現したクゼは額に青筋を浮かべていた。機械の隅から除く靴を目にした奴が刀を振り上げて走りかかったのを見て僕は細く刻まれた溝に沿って渾身の力を込めて機械を動かした。硬いものがぶつかる激しく耳障りな音が火花とともにあがる。怯んだ隙を逃さず肩口と足に弾を撃ち込んだ。脱いでいた靴を履くついでに転がった改造銃を拾って刀に命中させて、衝撃で数メートル吹き飛んだ刀を数回機械に叩き付ければ銃弾を受け止めた古いそれは真ん中あたりで折れた。倒れている男に刀を投げて笑えば男の顔は見る間に憎悪で染まっていった。

「殺してやる……!」

「もう聞き飽きたっつうの」

折れた刀を持った手で足をかばいながら歩き出したクゼはポケットからたまご型の何かを取り出した。あれは。

「おいおい嘘だろ」

「昔から自殺が趣味なお国の奴には丁度いいと思わねえか?」

抉られた傷に割いたシャツを巻き付けて走ってクゼの襟首を引っ張るのと、軌道を変えられた手榴弾が工場の半ばめがけて放たれたのはほぼ同時だった。

爆風に飛ばされ入り口付近で荒い息をしていると天井付近に張り巡らされた金属の折れていく軋みが聞こえた。倒れ込んだクゼにを引き摺ってなんとか這い出した。片手に持ったままの刀を奪って喉に突き付けてほどけた髪のかかる顔を覗きこんだ。息を切らしてはいるが目はギラギラとしたままだ。

「お前、目きれいだな。親はどこの国だ?ちょっと話そうぜ」

握ったままの刀を首元から離せば男は舌打ちをした。

「知るかよ、解ってんのは俺が今いる国の言葉も満足に話せねえ奴ってこと……俺みたいな底辺が生きるにはただひとつ。まず魂を売る。その後は人生を千切って売り渡す、その繰り返し。それでもデカくなれなきゃ末端のシャブ売り、よくてもてめえらやくざどもの下請け。薬屋に土下座してやくざの2Bに媚びて、ようやく日銭が貰えるんだ」

「そりゃご苦労なこった」

煙草に火をつけようとしたら胸ぐらを掴まれて煙草ごと下唇が千切れるかと思うくらい噛みつかれた。なにすんだよ、と落とせば血が滴った。

你他妈的不要舔我舐めやがって

「やくざからすりゃてめえらなんざ舐めるにも及ばねえさ」

「……操你妈目の前で親でも殺してやろうか

「悪いな、僕は親の顔なんざ知らねえよ」

取り返した刀を横たわったまま大きく振り上げた身体に飛び込んで撃ち抜いた肩を掴んで親指を脇に思い切り食い込ませれば小さく呻いて武器を落とした。力の抜けた隙をついて頸動脈を圧迫してやれば、ガキが強い目が僕を睨んだ。

「你这该死的……!《死に損ないが……!》」

「それはてめえもだろうよ、东亚病夫アヘン狂い

「闭嘴吧,日本人黙れよジャップ

取り出した銃で横っ面を思い切り叩くと血が地面に飛んだ。突然胸ぐらをを掴まれたかと思うと力任せに揺さぶられて脳がくらくらしている隙に身体を返されて撃たれた足を執拗に踏まれた。

「嘿,你这个没有才干的日本杂种。《ようノータリンのクソ日本人ちゃん》俺はな、日本人どもにどんな目に遭わされたか……腐った雑巾食わされて授業中にマスかかされて教師連中におもちゃにされて……それがてめえらにっ!てめえらみてえなクズどもに!解るかよクソッタレが!」

震えるまぶたを無理矢理開けて身体を起こして鷲掴みにした髪ごとクゼの顔を地面に叩きつけた。

「共感でもすると思ったか?悪いがぬるい場所で生きてねえんだよ。てめえがどうしてきたかなんか関係ないね。カズトのことが僕の動く理由でお前らの事実だ」

刀を掴んだのをみとめて、銃を出しながら立ち上がって睨み合ったまま構えて引き金を引こうとしたその時にクゼが血を吐いて、胸のあたりに染みを広げていった。ゆっくりと崩れ落ちたクゼの背後から現れたのは、タルを始末した時にいたガキだった。

「は?」

「うざかったんだよねこいつ。トップだか知らないけど命令ばっかでさ。有難うね、追い詰めてくれて」

正体のしれない激情にかられるまま間を詰めて、かがんでナイフを抜き取ろうとしているガキの頭を銃で殴った。

「クソガキっ……!なにしたか解ってんのか!」

「んー、証拠隠滅ってとこ?上がいなくなりゃ烏合の衆だもん。逃げるには好都合じゃない?頭の足りない奴らは放っておかなくても捕まるさ」

銃を構えようと動いた時だった。背後でなにかが動いてまばたきをするとガキの首筋に細いキリのようなものが刺さっていた。

「安心しいや。ちょっと動かれへんようにしただけで死んどりはせんさかい」

「狐野郎……なんで」

「ぼくには竹川宗司って名前がちゃんとあるわ」

倒れたガキを見つめたまま刺していた物を引き抜いて竹川は呟いた。

「三波さんはどうせこのガキ殺せんで逃してまうやろ思てな」

「生け捕りで渡す約束なんだよ」

「甘いなあ、こんな末端のしかも初犯にどんだけの刑つく思てんねん」

「でもこいつはかなりの情報っを?」

衝撃が走って俯くとガキが僕の血の染みたシャツ越し足へ突き刺したナイフを力任せに下げるところだった。ようやく広がった痛みに潰したような悲鳴が出て息を荒げて倒れ込むと竹川がナイフを持った腕を後ろに締め上げて折ろうとしていた。

「やめろ……殺すなっ」

「アホにも程があるやろうが貴様!まだぬるいこと抜かすんか!」

「喋らせなきゃ、いけねえんだ」

身体をよじって抜け出そうともがいているガキが一瞬顔つきを変えると僕に目元だけで笑った。後ろに回した左手で刃ごとナイフを掴み取るとなんの躊躇いもなくそのまま首をかっ捌いた。倒れ込んで僕まで這い寄るとガキは絶命する直前に、あんたのせいだよ、と笑った。おびただしい血が指先に触れていた。竹川は目を見開いてすぐに険しい顔をしていた。


サイレンの音で目を覚ました。どれほどの時間倒れていたのだろうか。すでに竹川はおらず、ドスを抱き込むように地面に座りこんだ新山は致命傷はないようだが珍しく傷だらけだった。コンクリートに転がったまま塞がれたような空を見ていた。顔の上を這う蟻たちが僕を見つけては笑っていた。



大邑へのガサ入れが行われ、ヨゴレの大半が一斉検挙された。残ったトップのナオとミレは逃走し、3週間経った今も規模を広げ捜索中だという。木枯らしが頬を打って、冬の入り口にいることを悟った。

「兄ちゃん、聞いてくれや。夜中になんや音するな思たら、仏さんが上がりよったんです」

「は?」

「いや、最初は生きとったからとりあえず横にして身体に毛布かけたりはしたんですよ、でもどんどん衰弱していって……」

「そいつはまだ寝かせてあるのか?」

頷いたホームレスが自分の小屋を開けた。遺体は小さいブルーシートを何枚も組み合わせたもので覆われていた。震える手で顔の部分に指をかけた。いつもある紅茶の香りはドブの臭いに掻き消されていた。

「……こいつ、大邑の」

何度も殴られたのか白く浮腫んだ顔は頬骨のあたりがひどく擦り切れて、片目は腫れた肉の奥で潰れた組織がまだ眼窩に残っていた。歯が折れて生々しい歯茎が赤く覗いていて、首には絞められた痕が痣のようになっている。服を手で裂くと腹には十を超える刺し傷があり、なにより左胸には熱した鋭いものかなにかで点描のように450、と文字が書かれていた。シートを剥して服を探ると尻側のポケットから名刺が出てきて、泥の膜越しに大邑の組長の名前が見えていた。

「のう、兄ちゃん。よかったらそいつ埋めてくれや。わしら墓も持たんのよ」

「それは僕も一緒だよ」

「こいつの戸籍、ちゃんと売れよったかいの……ヨゴレは殺す前にそいつの戸籍奪うんや。長橋の兄ちゃんは知っとるか?」

降って湧いた震えが脊髄をなぞり深く激情を抉った。胸ぐらを掴むと濃い饐えた匂いがした。

「なに知ってやがんだじじい……!」

老人は皺の隙間から諦めたような色を覗かせていたが、すぐにそれもやめて目を伏せた。

「……わしはあるセンターで教師やっとりました。中国の子が大半でした。ある日13歳くらいの子が戸籍について聞いてきたんです。簡単に教えて、その日は終わりました」

そう言ってため息を長くつくと申し訳なさそうに掴んでいる手を擦るので、僕は力を緩めた。男は穏やかな顔を作った。

「その子には戸籍のことを何度も訪ねられました。他の人にも聞いて回っとったみたいです。寒い冬でした。年末年始の休みの間もわしは繁華街を中心にパトロールをしとりました。その時にあの子を見ました。年の近そうな子たちと笑っていました。内容までは解りませんでしたが。あれは2月やったかな、とにかく何人かの子らはもうすぐ卒業する頃でした。わしは教室で書類をまとめていたんです。だんだんだん、と廊下から音がして、泣きそうな顔をしたあの子が飛び込んでくると書類を掴もうとしました。その手には真新しい血がべったりとついていました。事件だと解って警察に行こうと言ったのですが彼は嫌がりました。錯乱しているのだと思ってすぐに家まで連れて帰りました」

大ぶりな手の震えが悲しみや自己嫌悪から生まれたものではないと本能で感じた。呼吸の音が鋭く小屋を満たした。

「頼む、続けてくれ」

「なにかを食べさせようと戸締まりをしてコンビニに走りました。子供の好きなものなんて解らないので、おにぎりとサンドイッチとカップ麺を買って戻りました。その子はサンドイッチを少し囓ってすぐにそっぽを向きました。他人の家では緊張するだろうと思って、早めに布団に入ることにしました。夜中に目を覚まして隣を見ると、あの子はいませんでした。冷蔵庫を開けながらトイレかなと思っていました。廊下を挟んだ部屋から物音が聞こえました。大きな懐中電灯を持ってドアを開けると、そこにはあの子と他に少年と少女がいました。なにかを言われたのですが、早口の中国語だったので解りません。歩いてきたその子がわしを指差して言いました」

この人が今回の戸籍売ってくれるおじさん。

顔を青くしてもはや喘息の発作のような息をしている老人の背中をすった。肋骨がパラシュートのように大きく開いてはしぼむ。間違いなかった。このホームレスはヨゴレに嵌められたひとりだ。

「結果としてわしは戸籍を失いました。奪われた、というのが正しいですかね。誰かの密入国やいわゆる背乗りに使われていると思うと、やりきれません」

そうして丸くなった姿勢のまま分厚い綿シャツの胸ポケットから小瓶を取り出すと僕に手渡した。底に敷かれた綿の一部は黒っぽく変色していて長い間変えられていないことが解った。認識するのが嫌でまばたきを繰り返す。それでも何度も見たことがある、これは。

「……爪なんか、どうして」

「戸籍を差し出した時に、彼が二人で話をしたいと言って残りの子たちを追い払いました。怖くて仕方がありませんでした。職もやめることになったわしらはもう教師と生徒ではなく、食われるのを怯えながら待つ獲物の居心地でしたから。すっと握った手を差し出すと、わしの前で開きました。そして片方の手を見せて、全部失くすのは可哀想だからおじさんにぼくのこと少しあげる、と言いました。桜貝のような綺麗な爪を見せながら、あの子は、ナオと呼ばれていた子は昔見たような笑顔をしていた、気がします」

「じゃあ、これはナオの」

「そうです。なにかの手掛かりになればと思って持っていました……これからはあなたが持っていてくれますか?こんなホームレスの話を警察が聞いてくれへんことくらいわしかてよう解っとります」

言い切るとじいさんは外へ出ていってしまった。小瓶をしばらく眺めていたら銃声が聞こえて足をもつれさせながら外へ出ると、じいさんが腹から血を流して倒れていた。

「じいさん!どうしたんだ!」

「すまんな兄ちゃん、こうなることは遅かれ早かれ解っとったことや。わしは奴らの過去を知っとる、おまけに始末もされてないとなればヨゴレのトップから追われるのも無理はありません。それからわしを撃ったのはおそらくナオじゃろう。あの子は獲物に執着する子でしたから」

顔をあげてあたりを見渡すと、ドブ川を挟んだ向こうにまだ10代に見える痩せ型の男が立っていた。胸元から取り出した銃を躊躇いなく向けてもそいつは物怖じしなかった。

「てめえがナオか、よく出てこれたな」

「少し忘れものをしたんだ」

無表情のままナオはドブと原っぱを繋ぐ板を歩いて自分が撃った男に近づこうとするのを僕は背後から封じた。

「どの面下げて会いに来てんだ?てめえこの人撃ったんだろうが、これ以上なにしようってんだ!」

「哦,已经平静下来了ああもう静かにしてくれ……この人を撃ったのは、もう苦しんでほしくないからだ」

「……どういうことだよ」

腕を緩めると、男はしゃがみこむと横たわって僅かな呼吸を繰り返すじいさんの頬に手を当ててから、ナオはそっと額をすり寄せた。

「先生、おれは先生と別れてからもずっと爪が伸び切ったら剥していました。贖罪ではないですがおれなりの責任です。これが昨日剥したものです。これなら鑑定を行えるかもしれません」

「なんなんだよ、ヨゴレは結局警察に引っ張られたかったのか?」

「……最初はおれたちを否定した人間への復讐だった。1年もしない内に仲間に入りたいって奴らが50人はきた。膨れ上がる組織を纏めるには納得させられる大義が必要だった。介護施設でろくに言葉も通じないまま孤立してくたばる老人どもがおれたちの未来だ。それに見向きもしないこの国の腐った目を潰すのがおれたちの役目だった。走れなくなって、捕まりたいと思ったのはおれだけだったけど」

「くだらね、それで何十人も巻き込みやがって」

じいさんのダウンジャケットから煙草を取り出して火を点けてから顔の側に置いた。

「ムショ行ったら何年食らうんだろうな。ま、知ってるとは思うがこの人は戸籍がねえからな、墓参りは出来ねえと思っとけよ」

「……医生,我爱过你,再见」

冷たくなりはじめたじいさんに縋りついて声を殺してナオは泣いているように見えた。閉じられたまぶたの上を一匹の蟻がさまよっていた。

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