キルミーキルミーキルミー

「行ってこいやカズト」

車の振動を気にしてか咥えていた注射器を持った手で同僚に後頭部を叩かれ檄を飛ばされた。不純物が混じった血流に呻き喘ぐ声を尻目に扉を開けてうるさい夜道を進む。すれ違うリーマンがオレを避ける。ポケットから取り出したナイフを弾いていたら向かいから来た二人連れの女が小さく悲鳴をあげた。

クラブに突入すると先輩の怒号が反響のせいか耳の後ろで聞こえた。

「親の袋ん中で死んどけや高嶋の子種カスが!」

通路を抜けて広間に出ると中身をこぼしたままシャンパンの瓶を高嶋の幹部のこめかみに振り抜くところだった。

「くたばり損ないのクソボケタヌキよお!シャバ出てまで手間かけさせやがんなや舐めやがって!」

銃身で一発殴って、撃ち尽くしたらしいそれをしまって新しい銃を取り出す前にオレは走って喉元にナイフを押し込めた。

見て取れるほど震えているせいで引き金を引けない男の膝を蹴って、そこに乗り上げて胸に刺したものに体重をかける。あばらに引っかかると面倒だから横向きにしているせいで掴みづらい。

「おっ立つくせに種が出ねえのは中々惨めでいいと思わねえか?どうなんだよ兄ちゃん」

先輩を見ると銃口が寝ている男の股をまさぐるように動かされる。また遊んでいるのだと解った。

「タヌキのガキのくせに金玉小せえ奴だな。僕がハジいてやるから心配すんな、外さねえさ。カタギは殺せねえからな」

発砲音がして、立ち上がろうとした人に誰かが銃を向けた。

「それ貸せやカズト」

言われるままに投げた。その直後に振り返った男に腕を打たれてオレはうずくまっていた。

「悪いが綺麗に死なせてはやれねえよ。業を洗えるくらいの血を出して、罪の数だけ腸を引き摺り出す。この長橋の流儀、ふざけて極道の真似事続けやがる高嶋のノータリンどもに解かるかねえ?」

勝手に出る涙で滲んでいても、先輩が口を歪めるのが見えた。床の血溜まりが静かに動いていて、血が流れているのかとぼんやり思った。

「はっ同じやくざならノータリンはお前もだろうが」

「脳が足りねえのは元からだ、僕は野良犬だからな」



天井が見えた。シミがない。蜘蛛の巣もない。ヤニもそんなに吸ってない。最初から解ってしまっていたオレはわざとらしいため息をついた。

「また死ねんかった」

「戻ったらいつか死ねるって」

隣から声がして、視界に入れないようにしていた先輩は並べたパイプ椅子に横になって漫画雑誌を読んでいた。

「三波さんオレのこと待っててくれたっすか!」

「アホか、お前連れて帰んねえと僕が怒られるんだよ!」

だいたいなんだよ3発も撃たれるって、デケえ身体しやがるからだろ。

三波さんがオレの足を丸めきれてない雑誌で叩くので、オレは大げさに、痛え、と騒いだ。


オレは昔から背が高いほうで、幼いながら同級生との心の距離の差は縮まらないのだと諦観していた。高校生になって180を超えた時にはもう養分を得られなかった心は枯れ果ててしまっていた。それでもオレはへらへらとしていた。そうすれば誰かは少し声をかけてくれるのが解っていたからだ。愚かな身体が空虚さを蓄えて縦に長く育っていく。煙突のように呼気を吐き出しながら、オレは出来るだけ隠れて生きるようにした。

迷い込んだ地下で初めて三波さんを見た。返り血を手洗い場で流しながら、血塗れの顔を雑に拭っていた。

それから数日後、上の人に連れていかれた先にいたのは煙草を取り出そうとしていた三波さんだった。急かされるままに覚えたばかりのポーズで火を差し出すと顔を覆う包帯やガーゼを軋ませて三波さんは笑った。

「なんだてめえは?僕の吸い方があるんだから邪魔すんな。それにお前、そんなんじゃ出世出来ねえぞ?」

促されるままに立ち上がると、お前デカいな、とまた笑われた。

「いくつだ?」

「19っす」

「若いねえ、19か……あんまいい思い出ねえや」

三波さんの傷に、それどうしたんですか、と声を出すと、かっこいいだろ?とニヤリと笑った。

「2年前から荒れててさ、とにかく喧嘩売りまくってたんだ。さすがに今は相手は選ぶけどな」


連れて行かれた三波さんの部屋で2、3枚のコピー用紙を渡された。大きめに地図が印刷されたそこには余白を使ってボールペンで書き込みがしてあった。

「この辺の新興宗教施設と後ろ盾がある右翼の事務所、それから勧誘のルート」

「なんでこんなものを?」

「関わると厄介だからだよ。そいつ叩き込んどけ。間違っても顔覚えられんなよ。ちなみに明日はもっと踏み込んだお勉強だ」

左翼はどうすればいいんですか、とオレが聞くと三波さんは、あいつらは自滅するからほっとけ、と笑った。



三波さんが教えると言っていた場所に行くと、とてもゴルフなどしないような所に大きなゴルフクラブが2つ置いていた。なんだか懐かしい感覚がして、オレは少しよろけそうになった。

「ゴルフクラブはな、バットみたいに使えると思っちゃいけねえ。槍だと思え。バランスが先に傾いてる槍。基本的に竿で躱しながら頭で殴って潰すんだ。他にも突きは使える。当たりがでかいから狙って打つとかなり効く」

「昔にゴルフクラブ使ったことあります」

「へえ、ゴルフなんかやったのか?」

「いえ、これで親父を殺したんです」

親父の頭を割った時の感触は今でも覚えている。脳漿が混じってところどころが薄い血の色、白よりは灰色っぽい頭の骨、めくれた厭らしいほどピンク色の肉。

親父が食べなかった残飯を家の裏にぶち撒けて夕暮れが消えた紺色の空を眺めてから久しぶりに長く眠った。最後の夜が穏やかに過ぎていった。

気がつけば母親はいなかったオレにとって3つ離れた唯一の姉は、父親からの暴力に耐え切れず2度目の中絶手術を受けた日に首を吊って死んでいた。床に自分の分も布団を敷いて縄を切っておろしたのも、腫れた顔に布を被せて掻き破られた首筋に食い込む縄を解いたのもオレだった。怖かったけれど、父親が何をするかを考えたほうがゾッとした。後ろで立って見ていた親父はなにも言わなかったけれどすれ違う時に半勃ちしていることに気づいて嫌悪感が追い立てた吐き気をこらえながら、オレは見なかったふりをした。それが正しかったのかどうかは今でも解らない。

姉の亡骸を風呂に入れながら、水道代がもったいないから自分も入ろうと思った。シャワーを片手で固定しながら服を脱いで、ぬるま湯に浸かった。鼻先を首筋に埋めるとそこからは粉洗剤と尿とそれから介護施設の入口のにおいがした。目を開ければそこにいるのに探しても探してもいない姉ちゃんが寂しくて、涙が出そうになったオレは俯いて浮いた背骨を噛んだ。そこからはずっと冷たい泥とゴム風船の味がしていた。

姉から貰った最後の物は電池の切れたゲーム機だった。血を滴らせるゴルフクラブを手放したその腕で、オレは物置に手を突っ込んだ。父親に見つからないように持っていたそれを引き出してオレは電源ボタンをいつまでもカチカチとスライドさせていた。

家を出ると蟻がいた。数匹のそれは迷っていたようで、それを掌にのせてオレは歩いた。家の裏には黒い列が複数出来ていた。乗っていた蟻たちを下ろして、残飯ごと踏みにじった。滑る感触は吐瀉物とよく似ていた。


三波さんはなにも言わないまま遠くを見ながら腕組みをしていた。そのままこちらを見ると、僕も3回見殺しにしたからなあ、と呟いて笑った。

「お前の気持ちが解るとか言ってんじゃねえからな。まあいいや

、じゃあ握ってみるところからはじめるか。それなら出来るな、カズト」

ゴルフクラブに手を伸ばした。指先に触れただけであの時が蘇るようだったからさっさと握りしめた。

「あんま無理すんなよ」

そう言った先輩は腰が異様に引けた変な姿勢でゴルフの真似をしていた。



「昼にお前の顔見せするからな。それまでにちゃんとしたもん着ろよ」

ずっと着回してるからほとんどないです、と言うと余ってるの合わせてみろ、と返ってきた。引っ張り出したもので一番マシな組み合わせを作って出ていくと先輩は目を丸くした。

「へえ、カッコいいな。カズトは背だって高いし、様になってるぜ」

喫茶店まで歩いた。ドアチャイムが意外と重い音を立てたのでオレは少し上を見ていた。

「こっちの背が高いのがアマさん、背が低いのがミツくん。まあカズトからしたらどっちも小さいか」

ミツくんと呼ばれた人が脚を組み替えた。苛立たせることに成功したらしい三波さんがワルガキのように笑った。

「えーと、お二人はどのような職業で?」

訪ねると、二人は同じような動作をした。差し出されたそれがどういう意味を示すのかそんなことはオレでも知っていた。

「警察です」

「暴力団対策課です」

頭が真っ白になったまま言葉を紡ごうとして、ことごとく失敗したオレをアマさんと呼ばれた人が手を伸ばして肩を叩いた。

「三波ちゃんから連絡あってな、手下出来たから見せたいんやって。ほんま犬かっちゅーねん」

「え、え?」

「戸惑うのも無理もありません。でも心配しないで、俺たちは持ちつ持たれつみたいなとこあるからさ。急に捕まえたりはしないよ」

そう言って差し出された手をオレは拒めず握り返した。三波さんが手指の動きひとつひとつを睨み付けていた。

「ミツくん、それ悪い癖だよ」

「今のは悪い癖じゃない、正常な使い方だ」

舌打ちを飛ばして三波さんが椅子にもたれ掛かった。

「面白くないから言ってるんだよ。カズトを上のバカどもと一緒にする気なの」

そう言ってオレンジジュースを一口飲むと深く座り込んだ。

「そんなことは言ってないよ。三波くんこそ彼をバカにしてない?」

「そんな風に見える?」

睨み合いを破ったのはアマさんと呼ばれる体格のいい刑事だった。

「アホかお前ら、このカズトが動けばそのうち解ることやろうが。勝手に話したるな」

おっちゃんが奢ったるわ。カズトはなに飲みたい?アホどもは勝手に払えよ。

運ばれてきたアイスコーヒーに手を伸ばすと、師匠はコーヒー飲まれへんのに弟子のお前が飲めるんやな、と穏やかに笑った。ゆるんで刻まれる皺になぜかオレは力強さを感じていた。



「三波、お前最近何食ってんだ」

新山さんの質問にその人は蒸しパンを噛ってもくもくと口を動かしてから答えた。

「……水」

その言葉にオレは隣を見た。待っていたように三波さんはこちらをじっとりと睨んでいた。新山さんが心底めんどくさそうにため息をついた。

「そんなもんでよく動けるな」

「へへっ、砂糖入ってるからかな」

「そういうことじゃねえよ……だいたい何ヶ月やる気なんだ?もうすぐにに二ヶ月だぞ。いくら上からの奢りが多いからってその分暴れたら意味ねえだろ。いい加減そのカブトムシみたいな食生活直せ」

僕は野良犬だし、と解りやすく拗ねた三波さんを一瞥して、犬は砂糖水だと死ぬぞ、と言った。


連れて行かれたオレでも見たことのあるチェーン店で一つの牛丼を三人で割った。三波さんに難癖をつけられまくった新山さんがもういいから、と一番少ない部分を取って、直属の上司はそれを見て心底嬉しそうにしていた。

「あの、大丈夫なんですか新山さん」

「俺は結構少食なほうなんだよ、驚いたか?」

「まあ、意外っすけど」

黙々と食べているオレたちを眺めてから、新山さんは律儀に手を合わせていた。



俯いたまま黙っていると曲がり角で会ったばかりの先輩が再び喋った。

「なんだやっぱり童貞かカズト?そろそろ女覚えろよ、お前まで口うるせえ師匠みたいにワガママ言うなよ」

「三波さんがどうかしたんですか?」

「あいつは自分が囲って落とした女じゃねえと抱く気にならねえんだとよ」

意外なような腑に落ちるような感覚がしたけれど、同時に面白いくらい噛みグセのある三波さんの相手が心配になった。

「みこすり半で出しちまうんじゃねえぞカズト。こいつは締まりもいいし中もそりゃえぐいからな」

育ちの悪さに運よく比例しなかった性への欲望が無理やりこじ開けられる音を脳に聞いていた。手を引かれるままにオレは倒れこんだ。

巻かれているけど手触りのいい髪に指を通した。

「姉ちゃんきれいっすね」

「でしょ?カズトくんでも解るくらいきれいよ、うちは」

「でもごめんなさい、オレそれしか解かんねえや」

そのまま一気に突き入れた。割れる感覚にも歯を噛んで耐える女の顔に頭がゆれる。馴染むまで身体を休めれば手と違った知らない快楽が骨に染みるようだった。バカになりかけた頭を理性が睨みつけているのを感じながら腰を振った。汗が彼女の顔に落ちた。

「姉ちゃん名前はなんなの?」

「ミソラ、深いに空で深空」

「苗字は?」

「横塚」

興味なさげに煙草を咥えた横顔にオレは笑った。

「いい苗字だね、オレもそれにしようかな。ねえ、ヨコちゃんって呼んでいい?」

「意味解って言ってる?」

「まさか、なんにも解かんねえよ」



数ヶ月が経って二十歳になったオレを三波さんと新山さんはどういうわけか祝わせてくれと頭を下げはじめ、ようやく折れるとろくにものも持たないまま連れ出された。

「無理には言わねえけど煙草覚えとけば損はない。こんなもんでも役に立つ」

立派な煙草屋の前に備え付けられた灰皿へ伸びたものを落としながら新山さんがすぐに入るから先に行け、と肩を叩いた。

「三波さん、これなんですか?」

「ああ、電子タバコか。使ったことないけど先輩方が言うにはまずいってよ」

「ふうん、じゃあオレこれにしようかな」

三波さんはなにか言いたげにぽかんとしていた。

「オレ煙草の味知らねえもん。じゃあまがい物でも解かんないでしょ」



「逃げたぞ!追え!」

怒声よりも数分先にトイレに歩いた三波さんの勘は当たっていた。立ち上がった三波さんがオレについてこいと合図をしたので後を追うと背後に立っていた三波さんに銃を向けられ、言われるままに屈むと口を塞がれトイレの一番奥の個室に引き摺りこまれた。どういうことだとまばたきを数回していると手で制された。三波さんが、人の気配がする、と呟いた。

「ここはよく使うからそれ用の逃げ道がいくつかある。でもサツどももバカじゃねえからな。逃げ出た先でお縄なんてのもある。だからこういう時の逃げ方を教えてやるよカズト」

「どう、するんですか」

「あの換気扇から抜ければいい」

三波さんが指差した先に本当にどこにでもあるサイズの羽が回っていた。

ドアが破壊される音がして突然に何人もの人が押し寄せてきた。顔も知らないような先輩たちの咆哮があがる。

「ははっ、ほら来やがった。先に出てった奴らがチンコロしねえことを祈ろうぜ」

「はやく出ましょうよ」

「まあ待てって」

なんでですか、と語気を強めるとまた口を塞がれた。

「静かにしろ、ここが人で溢れてもドア開けるまで声出すんじゃねえぞ。マッポに僕を売れると思うなよ。いいな」

はい、と呟いた声は掌に消えた。ようやく揉み合いも一段落したようで向こうの部屋は静かになっていた。

三波さんは扉の下からずっとなにかを覗いていた。

「カズト、誰でもいいから死体から銃取ってこい」

「なに言ってんすか捕まりますよ!」

「そう、それが困るんだよなあ」

のんびりとそう言いながら三波さんは首筋をガリガリと引っ掻いた。

「じゃあ死体から来てもらおうぜ」

そう言うとオレに乗り上げた三波さんは腕を伸ばして窓ガラスを引っ掻きはじめた。嫌な音が強弱をつけて立てられる。本気でやればもっとすごい音が出るのだろう、想像してオレは耳を塞ぎたい気持ちになった。

オレから降りた三波さんが静かにしてろよと言った。気配が近いのが解った。硬い足音がする。

「誰かいるのか」

再び顔を床につけていた三波さんが、ビンゴだ、とオレを見上げて恐ろしく笑った。

足音が迫る。心臓が痛みを感じそうなほど跳ねる。三波さんがカンヌキを抜きながら銃を取り出そうとしている。刑事は立ち止まって確認をしているのか2歩もしない内に一度止まっていた。息をのむ。1秒が長い。背中を落ちていく汗にさえ音があるようだ。刑事がいる。間違いなくこの扉の前にいる。視界に入っていたスーツの裾が上がって目の前のそいつが動いたのが解った。オレはとっさに声を出した。男の顔が見えた。

その瞬間ドアが開いて三波さんが動いた。

「ハロー刑事さん、デートの覗き見はちょっとセンスねえよなあ」

扉で挟んだ頭に膝を入れて床にのばした身体からピストルを奪った。振り返った三波さんは口だけで、すぐ出るぞ、と言った。狭い通路を抜けていると、前の人の背中越しに声出してくれてありがとなと聞こえた。

油や何やらで得体の知れない塊になったオレたちは人を避けて歩いて帰ることにした。

「そういえば三波さん、なんでオレに銃取ってこいって言ったんすか?」

「あ?ああー正面突破も悪くねえかなあって……」

捕まりにいかないでくださいと叱ると先輩は綺麗に笑っていた。



訪れた先の扉は開かなかった。5分すれば帰ろうと思って部屋2つ分歩いたところでドアが開いた。勢い余ってか通路まで飛び出した全裸の三波さんがオレをみとめて、悪いな風呂入ってた、と爽やかに笑った。

「あの……三波さんオレのこと見えてますよね?」

「どうした?」

「風邪引きますよ」

言外に服を着てくれと祈れば冷蔵庫からの冷気に怯えた人がようやく下着を履いた。

「お前ビール飲むか」

「オレまだ飲んだことないから飲みます」

「じゃあ飲めよ。先輩から貰ってさ、僕そんな飲めねえのに」

プルタブを引いて傾けるとよく解らない苦い味がした。

「うまいか?これどこのだ?」

口の中を切っているはずの人を止めるよりはやく缶を勢いよく傾けた三波さんはビールを思い切り吹き出して悶絶しながら涙目になっていた。



「カズト、ゲームしようぜ!」

声に顔をあげるとなにやら段ボール箱を抱えた先輩が、この前買ったんだ!と笑っていた。

「いやだめだってお前!くたばれ!くたばれ!」

「Bボタン!Bボタンだ!」

「それはずるいずるいずるい!」

一通りやり終えても誰かが声をあげれば戦いは起こった。朝まで続いても誰も音を上げず、そんな日に限って仕事はキツい。うっすらをクマを浮かべた三波さんがそれでも疲れた素振りなど見せずに栄養ドリンクをオレの机に置いた。

「飲んどけ、動けねえと困るだろ」

「戻って寝たら大丈夫っすよ」

「ばぁか」

振り返るとこちらを向いた意地悪を思いついた子供のような顔があった。

「今日もやるに決まってんだろ、仕事終わり次第僕の部屋集合な」


ブラウン管と男三人に挟まれた3本の2Lペットボトルの中身が音もなくゆれる。背後では扇風機が熱っぽくしおれた空気を掻き回している。リプレイが映し出される画面をぼんやりと見ていた。

「まさか帰るとか言わねえよなあカズトぉ。この部屋に入ったら便所以外立つなって言っただろうが」

聞いてもいない理屈を口にしながら三波さんがコントローラーを突き付けた。新山さんに助けをもとめれば、ゲーム機壊れるまでが俺たちのゲームだ、と言い出したのでオレは考えることをやめて手汗がぬるつくコントローラーをもう一度握った。

結果として3徹していた。最後のほうは記憶がなく、勘違いではなく視界が狭い。働こうにも身体が動かないので背を蹴られるのは前に進む役に立つことを知った。ついてこいと言われて回った先の公衆トイレで死にかけていた三波さんを発見した時は鳥肌が立ったけれど、ある意味名誉を守れたことに関してはほっとした。どうしたのか聞くとあの間に殺しもしてたからなと笑われて面白いから以外のどういう感情がこの人を追い込んだのかが解らなくてゾッとした。三波さんを部屋まで引き摺って戻ると、扉の前に御札を貼られて縄で縛られた忌まわしい濃灰の筐体があってオレの口からは悲鳴が出ていた。それから数日が過ぎていたが誰一人ゲームの話はしなかった。本当に壊れたのかどうかを残った二人は何も言わなかった。



「あれ、お前ゲーム機なんか持ってたの?」

「でもこれ液晶ちょっと壊れてんじゃねえか?」

にゅっとソファの後ろから生えてきた先輩二人にビビりながら後ろを振り返った。

「いや、いいんです。ゲームする用じゃないっすから」

そそくさと立ち上がったオレに口を開いたのは三波さんだった。

「カズトの部屋行っていいか?お前のとこ、元は僕の先生の部屋なんだ」


奥の一室を使わないという約束で安くなっていた部屋にオレはすぐ頷いた。それがこんな巡り合わせに遭うなんて本当に解らないものだ。

「こんなきれいなのに物なんかあるんすか?」

「こういう中に溜め込むタイプだったんだとよ」

三波さんは艶の出た箪笥を撫でながらくだらなさそうに笑っていた。

洋服箪笥の隅に日に焼けたボロボロの和紙があって、持ち上げると半分くらいに短くなった鉛筆が落ちた。古いもの特有の匂いと湿気ったほこりの匂いがした。中から出てきたのはよくある大学ノート数冊だったけれど、その新しさと包み紙の古さに違和感を覚えた。

通し番号がふられたノートをめくると、簡単な目次が書いていた。直感で三波さんへのものだと解った。

「悪い、一人になっていいか」

ノートに目を落としたままの三波さんが静かに隣の部屋に消えた。畳が擦れる音が止まって細い声が長く聞こえていた。


「ゲーム機貸せカズト」

「いやほんと、いいですって」

「気が変わった時に出来ねえのは嫌だろ?ちょっと電池周りいじるだけだ」

それもそうなのかなと無理やり自分を納得させて渡した。この人は変に頑固だから今でも後でも同じだ。

端子を掃除しながら三波さんは何回も鼻を啜っていた。

「帰るわ、今日はありがとな。僕のとこならいつでも来いよ」

差し出されたゲーム機を受け取って、解りました、と言った。ドアが閉まって、足音が遠のいていくのを聞きながら癖で何回かスライドさせた。チャンネルを切り替える瞬間のようにプツリと画面が動いて、そんな少しのことでずっと考えていなかった姉ちゃんがよぎってしまったから、オレは今更浮かんだそれに任せて咽び泣いた。唇に張り付いていた泥と風船の味がようやく消えたのが解った。



走り込みに向けて準備をしていると先輩が背中を叩いた。

「気張れよカズト、高嶋と今度こそ戦争だ。もう次はねえ」

「なんでそんな……」

「奴ら事務所の近くをうろついてやがる。向こうじゃ最近取引が合ったって噂だ。どうせチャカでも取り寄せたんだろ」

曖昧に渦を巻く感情を振り払おうと走った。帰る頃にはそれはもう解けなくなっていた。


ノックの音の軽さで来客の人物が解った。居留守を使えばよかったのに、身体が動いていた。震える手でドアを開ける。やはりと言うべきか、そこにはヨコちゃんが立っていた。

冷えた身体が深く震えている。熱源がオレを脅かす。彼女を押し倒したらどれだけ楽になるんだろうか。せり上がるような欲情が喉を焼いた。爆発しそうな性欲がいつまでも体内にあって、オレはそれがいつもかなしい。粘ついた唾液が糸を引いて口の中が酷く乾いていた。

「ごめんヨコちゃん、オレあんた壊すかもしれない、だから帰ったほうがいいよ……近づかないで」

「壊れんよ、大丈夫、大丈夫だよカズトくん。言ってくれて有難う、優しいんやな。うち、もう何回も壊されてるから大丈夫」

手を引いて迎え入れた身体をドアに押し付けた。噛むようにした唇を舐めるとグロスの味がべたべたと甘くて不快だった。薄く開いた口元を犬のように舌で何度もなぞる。息を混ぜて声を出して脳を勘違いさせていく。安いドアがガタガタと軋む。

大きく開いた脇から手を突っ込んで留金を外した。前に手を回してそこの柔らかさに安堵する。あたたかいかたまりを押し込むと速い鼓動があって泣きたくなった。

何度も口の中を舐める。背の高いオレに屈めというように手が伸ばされて引き寄せられ顔中に軽いキスをされた。こういうことをする時のヨコちゃんが女の子らしくてオレはかわいいと思う。

沈み込む肉の感触が涙腺を撫でる。差し込んで動かせばぬるい水が伝って、オレはそれを無視する。息の音が鼓膜に染みていく。

細長い手がズボンの前を撫でてなにかを言って、オレは小さく謝った。なにも聞き返さなかった。

「ヨコちゃん、気持ちいい?」

硬い扉に押し付けて片足を持ち上げた身体をぐりぐり揺らしながら返事がないことを祈った。舌が動くのが見えて、喘ぐのか話すのかなんてどうでもよかったオレは聞きたくなくて口を塞いだ。

「中やわらけえ……オレ、死にそうかも」

数発を奥に出して、最後は入口に掛けた。引き抜いたものは粘液で汚れていた。それでもサルの習性でゆれる腰が自己嫌悪を煽った。

「ごめんヨコちゃん、すぐ掻き出すね。だからあと2回付き合ってよ。なんでも買うからさ」

「なんでカズトくんが泣くの」

「さあ、解かんないよ」

顔を見られたくなくて掴んでいた身体をひっくり返した。ヨコちゃんはなにも言わず動いて肩幅より広いくらい脚を開いた。きれいな背中を舐めて、腰の曲線に手を這わせてたどり着いた尻を掴んだ。出した精液は形のいいふくらはぎまで伝っていた。

「うちはカズトくんのセックスいいなと思うよ」

「だってオレに教えてくれたのヨコちゃんだもんね」

煙草を咥えた口元に火を出せば大人しく火を点けたあと彼女が笑った。

「カズトくんから見たうちなんなんよ」

「解らないけど、ヨコちゃんはきれいな人だよ」

もう行くよ、さよなら。こんなのでごめんね。

シーツに涙を吸わせてから立ち上がって服を拾った。事務所に発砲があったのは数時間後の朝だった。



細い袋小路の壁を登って目に入ったのは背後から殴られて倒れかかる三波さんだった。

飛び降りるようにして男を蹴って、武器を奪った。三波さんの声に気がつくと、バットは中途半端に壊れていて、男は顔がまるっきり潰れてコンクリートが透けて見えていた。

「三波さん、傷が」

「ほっとけば治る」

「でもそれだと右目が」

「忠告だと思って聞けカズト。ゲーム、やりすぎんなよ」

それから丸腰で来てんなよバカ。

立ち上がって前に歩き出した三波さんはオレを振り返らずそう言って殺気立つ人混みに消えた。


怒鳴り合う声が聞こえて、その方向を振り返るより先に三波さんが転がってきた。顔をあげると数メートルの距離に刀を構えた男がいた。

「なにしやがった!」

「勝手に小僧が吹っ飛んだだけだよ」

オレを無視して振られた刃をギリギリのところで受ける。金属が擦れてバットの塗装が削られた。刀が引かれて、ああ来るのか、と思った。

「次で死ね」

「カズト!」

立ち上がっていたらしい三波さんの声の位置が変わる。強く引き寄せられたけど、そんな距離が役に立たないことは解っていた。

「三波さん、オレあんたの役に立てるなら死んでもいいよ」

笑おうとして失敗したオレの前で刀が火花を上げた。身体を挟んで肩越しに限界まで伸ばした両手に銃を構え受け止めている三波さんが背後で言った。

「ばぁかお前にはそんな小せえ理由しかねえんだ、なら生きてろよ、そっちのほうが楽しいぜ。約束してやる。それに僕はこう見えて強いんだ」

引き金を動かしたまま素早くずらされた銃が肩を貫いた。分散された重みの分だけ刀が下がって三波さんの腕とオレの肩に食い込む。

「次で死ね……だったよな」

「刀が台無しになったんだ、当たり前だろう」

「持ち主が消えりゃ済む話だ」

びりびりと空気が震えている。一触即発と言ってよかった。風が過るのと同時に踏み出した三波さんが男の懐に飛び込むと銃身で顎を打った。

「刀相手にはこうすりゃいい。解っててもやれる奴は少ねえよな」

倒れた男を固定するように銃口が額を押した。土が軋む音がした。

「……三波さん、別に殺さなくてもそいつ動けませんよ」

躊躇いを見せることもなく引き金が引かれる。土埃があがる。出てきた人は心底つまらなさそうな顔をしている。

「バカなんだなカズトは。お人好しじゃなくて本当にただのバカだ。戦場まで来たくせにぬるいこと言ってんじゃねえよ。お前も動けなくなってこいつの気持ちになってみるか?」

前を睨みつけたままの三波さんが鼻血を拭った手の甲を舐めてから、疲れたな、と言った。

「お前シャブ持ってるか?」

「いえ」

「じゃあ探すぞ」

そう言って倒れた死体を漁りはじめたのでオレもそれに倣った。

「ありましたよ」

「ありがと。くれ」

駆け寄って剥き出しの錠剤をひとつ渡した。

「そのまま入ってたのかこれ」

受け取ったそれを笑いながら口に放り込むと噛み潰す気配がした。隠れるようにオレは目を瞑った。どれくらい長い時間が過ぎたのか解らなくなって目を開けると、どこを見ても三波さんはもう消えていた。

入り組んだ路地を走り回って、ようやく見つけた先輩は逃げようとした男を蹴りあげて銃を打ち込んでいた。

「新山、てめえのドス寄越せ」

新山さんに背中を合わせた三波さんが銃を渡しながらそう言った。

「使い方解ってんだろうな」

「それは僕のセリフだぜ?暴発させんなよ」

先輩たちは武器を交換するやいなやそれまでとは違う方向へと突っ込んでいった。折れた金属バットを構えたままオレも走った。向かってくる人を殺したり動けないように刺したりしながら振り向かず行き止まりのゴミ捨て場を目指した。カラスが数羽旋回しているそこの下に、光るものが見えた気がした。

「お前……長橋の新入りか、電柱みたいな見た目しやがって木偶の坊がよ」

「電柱だけは正解だ。木偶の坊かは試してみなよ」

安い挑発にのった男たちが揉み合いになりながら狭い路地を掛けてくる。手にしたゴルフクラブと自分の腕の長さを見て、振り回せる限界の通路のド真ん中までゆっくりと歩いた。

「お前はリーチの長さを活かせ。死にたくねえんなら武器を選ぶのは慎重になれよ、身体と武器ってのは組み合わせだからな。そうすれば戦い方は見えてくるはずだ」

ナイフ片手に地面に転がされ空を見ていたオレを叩きのめしたばかりの新山さんが涼しい顔で言っていたことが頭をよぎる。

走ってくる人の形状を見て舌打ちをする。丁度真ん中に集中したかまぼこ型になっていた。簡単に想像がついたものを見逃したことに嫌気がさす。前線に向けて熱量が加速している。膨らんだそれを押しとどめる術をオレは何故か知っている。もうすぐそう出来ることがオレを駆り立てた。

「ツレの頭吹っ飛んだらさすがに士気は下がるかな」

身を屈めて、一歩前に強く踏み出す。重い感触があった。

顔を上げると半壊した頭部が見えた。感情が湧く前に動いている人間たちを見て縦に振り下ろす。知っている手応えがしたから、オレは壊れてしまいたくなるのをこらえて笑った。


武器を持った人間はほとんどいなくなった。逃げた奴らが大半だけど、残りは多分オレが殺した。だから後ずさって逃げようとする男が目障りでオレは許せなかった。

壁ギリギリまで追い詰めて立ち上がった男の髪を掴む。空いている手をシャツの背中に入れて、隠しておいた鉈に日光を反射させて笑った。

「消してやるよ」

間違いようもない死を見た男が叫ぼうとしたのを前に喉を割いた。小さく音を立てながら息が漏れていて、それに合わせて筋肉が動いていた。吹き出る血の勢いで頭部がゆっくりと皮を伸ばして千切れていくのをオレはひとりで観察していた。



「てめえ何人殺してやがんだよカズトぉ!」

嬉しそうな先輩が銃を持ったまま飛び掛かってきたのを腹に力を入れて受け止める。新山さんがほんとにな、と笑った。

「ほんとすげーなお前!金出るだろうな、今度いいもん奢れっ……!」

話していた三波さんの衝撃を受け止めた頭がゆっくりと倒れて見開かれたまぶたに黒目が隠れていくのを見ていた。

「三波さんっ!」

「カズト!そいつ持って走れ!」

前を向くと新山さんがスコップを持った相手をぶちのめしていた。

力の抜けた三波さんは体躯よりも重かった。それでも走れるだけ走った。路地の入り口まではあと数分だ。

「お前、いくら長いからって刀とかの刃物は使うなよ」

「そっちのほうがもっと殺せて便利っすよ?」

新山さんが見たことのない顔で笑った。短い刃物を使ったのは黙っていた。

「ばぁか、お前が殺しすぎたら俺らの獲物が減るだろうが」

後ろから壊れた叫びが聞こえて、振り向く前に身動ぐ気配がした。

「そのまま走れカズト!僕がここで殺る!」

背負われて走っている状態で人を撃つなんてどういう状況なんだろう。それにだいたい当たるのだろうか。威嚇にしたってこんな絵面を見ていればそんなに効くとは思えない。オレは湧き上がる色々を捨てるように頭を揺らして走った。少なくなっていっても銃声が近くてうるさい。

伸びている人影をなぞるように顔をあげると、路地を塞ぐように見知った刑事が二人立っていた。


「三波ちゃん!……おい、部下になにさせてんねん」

「アマさんがそれ言うの?僕今アマさんよ背高いよ?まあちょっと頭打っちゃってさ」

「全員とりあえず両手だそうか」

「じゃあ僕らがやったって証拠持ってきてよミツくん」

言い合いになりそうな気配を察してか近寄ってきたアマさんが無言のまま三波さんに手錠を片側だけはめた。

「三波、それからここにおるやつまとめて検査すんぞ。特に三波……お前シャブでも食ったな?ちょっと目え変やぞ」


抵抗しようとすれば後ろのミツさんが罪名と懲役年数を唱え出したのでやめた。数分の間に三波さんの懲役は10年を超えていた。

「出し抜こうとかくだらんこと考えてみい、解っとんなお前ら。おれが叩き直したるわ。痛いのんは勘弁せえよ、我慢きかんでやり過ぎるんは性分やからな」


トイレから出ると廊下に立ったミツさんがこちらを見ていた。

「カズトくん」

「えっと、ミツさん?部屋は?」

「大丈夫、今アマさんがやってるから誰もいない。あの人の強引なやり方にはもう慣れたし、それで得られるものは実際多かったんだけどさ、俺だってこんなやり方間違ってると思うよ。逃げようカズトくん。新山くんも君も薬はやってないんだろ?」

「それなら三波さんもやってないです。信じてあげてください」

三波さんの友人はなかなか頭をあげなかった。

トイレから呪詛を吐きながら出てくる姿がうっすらと浮かんだ。通路と廊下の境目に沿って薄い影が凹んでいた。

「くっそ、天河の野郎が……僕が松乃さんに代わって締め上げてやりてえ……屈辱だ、なにが警察だ……」

案の定キレている先輩を尻目に、心配そうに見ていた隣の背広を摘んでオレは笑った。

「ね?だから言ったでしょ」

壁伝いに歩いてきた三波さんがよろけながら手を伸ばして掴んだミツさんの肩に無理やり手を回した。

「一発やろうか三ツ冨。おっさんの弟子なんだろ、師匠のケツくらい舐めて拭けるよなあ?」

「なんだよ、やっぱり捕まりてえんだな三波?」

「ションベンとクソの臭いする草食って育ったんだ。ムショは贅沢なんだろ?三食出るって聞いたぜ。それだけで嬉しいさ」

「何年も暮らしてみろよ、お前ならクソ溜めどものいい便器になれんじゃねえか」

薄笑みを浮かべながら睨み合ったまま三波さんが出てきた道を二人は音も立てずに歩いていった。

「これは銃刀法には引っかからねえよなあ?」

デッキブラシを手にした三波さんが口を歪めた。

「今に引っ張り出してやるさ」

踏み込んだ三波さんが間合いに入ったミツさんめがけて振り下ろしたそれが床を叩いて派手な音を上げた。

「相変わらず大振りだなあ……悪い癖だよ、三波」

「こういうのは数打ちゃ当たるんだろ?」

「見極められたら当たらねえさ」

じゃあ、と呟いて三波さんが壁に向かってブラシを打ち付けた。砕ける音と共に短い柄を残したものと少し長いものに分かれた。拾い上げた三波さんがニヤリとした。

「こうすりゃ2倍だな」

「……クソガキ」

折れたそれを両手に殴りかかったはずの三波さんが足払いをかけた。馬乗りになったままブラシを顔に押し当てる。笑い声が響く。

「便所の味はどうだ?」

少しの時間を置いて離された瞬間塊を押し退けて三波さんの身体を引き寄せると顔に唾を吐きかけた。

「便所の味はどうだ三波、てめえが教えれば済む話だ」

「……不良刑事になりやがって、天河が泣くぜ」

「ああ、泣いて喜んでくれるさ」

鳩尾に指を深く食い込ませて動けずにいる間に立ち上がって髪を掴むと三波さんの顔を小便器に打ち付けた。

「天下の警察がまるでやくざのやり口だな」

「なんだ三波もそんなこと言えるようになったのか」

オレは堪らず飛び出して叫んでいた。

「二人ともやめてください!もう十分じゃないですか!」

よろけながら白い陶器を掴んで姿勢を立て直すとオレを壁際まで追い込んで檻のように手を付いくと、ピンと伸ばした指先をオレの目に突き付けて先輩は呟いた。指よりもこちらを射抜くような目が恐ろしかった。

「止めんなカズト……それともお前も食ってやろうか」

異様な空気に息が詰まりかけて後退ると三波さんが赤い唾を吐いた。内ポケットから取り出したボールペンが宙を舞って床に転がされる。

「カズトくん、こんな最低な上司捨ててウチにきなよ。俺が稽古つけてあげる、もちろんアマさんだって一緒だ。俺らのやり方……少しは知りたくない?」

蹴りかかった三波さんの足が振り抜かれた個室の扉と当たって酷い音があがる。痛がる素振りも見せないまますかさず後ろに飛んでミツさんを挑発した。

「カズトを勧誘してんじゃねえよ、ああてめえら警察は癒着だらけのペテン師集団なんだっけか?悪い悪い忘れてたよ。色ボケ天河の野郎もさっき僕のちんこ見て喜んでたぜ」

目付きを変えたミツさんが走ろうとしたその時、三波さんがニィと笑った。

「悪いな三ツ冨、僕の勝ちだ」

革靴の底が大きな音を立てて滑った。割れたボールペンが乾いた音で転がった。三波さんがそれを拾ってゆっくりと歩く。

「僕はこんなもん1本でも殺せるんだ、これから丸腰でやってやるよマル暴の三ツ冨さん」

開かれた手からペンがまた転げ落ちた。

「しけた組の鉄砲玉のくせして俺らに追われてるだけあるなあ」

「弾には弾なりの飛び方ってのがあんだよ」

後ろを取った三波さんが素早く締め上げた。

「首が取れたらどうすんだ」

「新山とカズトと一緒に埋めてやるさ」

「俺の首ひとつでてめえの組を潰せるんならそれはいい話だ」

背後から羽交い締めにしたまま三波さんはミツさんの耳を付け根から噛んだ。やっと口を離して唾を吐いた頃、三波さんの唇とその奥の歯は赤くなっていた。

「まだ青いな、味しねえや」

「そんなとこは元々味はねえっての」

「もっと熟れたら余さず食ってやるよ」

三波さんが締めていた腕を離すと素早く走って奥の個室に入った。扉が大きな音を立てた。けれど鍵をかけるよりも、ミツさんが蹴りを入れるほうが速かった。身体が重いものに当たる音がする。引き摺り出された三波さんの身体がくるんと円を描くように投げられて、床に叩きつけられる。スーツの端を踏んだまま転がっていた折れた柄を突き付けるとミツさんが笑って吐き捨てた。

「俺らで飼ってやるよ三波。お前だけじゃねえ、長橋も高嶋の連中もまとめて豚小屋にでも入れちまおう。きっと仲良くなれるぜ。それに野放しにして奴らに地下に潜られたら俺ら警察には厄介だろ?そんなやくざどもを飼い殺すのがマル暴の仕事さ」

「天河によくしつけられてんだな……やり方まで似てきやがって、松乃さんから聞いた通りだ」

「当然だろ」

「はあ疲れた……ミツくん、今度喫茶店ね。ホットケーキ奢るからさ、やり過ぎたのは手打ちにしてよ」

「さすがに出来ないよ。ま、傷はアマさんとの捜査でって上に言っとこうかな」

嘘のように穏やかに話はじめた二人が振り返ってオレを見ると、口元に指を当てて、内緒な、と笑った。



背に掛かる怒鳴り声を振り払おうと道路を走って、へばりかけているところで腕を掴まれて脇道に引き込まれた。

「来いカズト、近くに隠れ家がある」

腕を引かれて連れていかれたのは立派な日本家屋が印象的な和食屋だった。

「あらあら三波さんやないの、相変わらずそんな怪我して……私にも素顔見せてちょうだいな。えらいかわいらしいってうちの子らに評判なんよ。そのお連れさんは新入り?」

三波さんは手元も見ずに財布から6枚の万札を引き抜いて置いた。

「悪いサツキさん、久々だけど話してる時間ねえや。金払うけど飯はいらねえ。怒んないでくれよ、すぐまた食いにくる。今すぐデカい広間用意してくれ」

それからなにか使えそうなものも。

木刀や鉄の塊、持ち手がしっかりとした箒、ぶ厚い湯呑みや皿、そしてなにか解らないが小さな桐の箱が部屋に置かれた。

三波さんはそれぞれを確認したあと、胸に差していた銃を抜いて僕に渡した。

叫び声が聞こえて続けて銃声がした。悲鳴がたちまちに湧き上がる。

「外道どもがっ……!」

「三波さん落ち着いて!」

嫌に落ち着いた足音が向かってきて立ち止まった。

「誰だ?姉ちゃんらは呼んでねえよ。まあ全員入ってきたらどうだ?僕がお酌してやるぜ」

蹴り倒された襖の先に立っていたのは高嶋の若頭だった。一拍置いて三波さんは失笑していた。

「こんな煤けた鉄砲玉に富良野さんが出てくんのか?やっぱてめえらもう終わりだなあ」

「終わりは貴様らじゃ長橋のクソ犬……いい加減潰れえや」

「はっ……どこのシマか解ってから抜かしやがれやゲボが!」

掴み掛かって威嚇する三波さんを取巻きを制しつつじっと見ると静かに口を開いた。

「なにを今更、この国は昔から島国だろ」

「カタギ巻き込んでおいて舐めてんなよ富良野……でもなあ、うちの土踏んでそのまま帰れると思ってんのか?ここ歩いた記念だ、てめえの靴だけは高嶋に帰してやるよ」

「やってみろクソガキ、ドブ臭え土は犬のお前が舐めて綺麗にしてくれるんだよな?」

「やるか富良野、帰れなくしてやるよ。まあ酒でも呑めって」

三波さんが日本酒の瓶を掴むと一口含んですぐに床へ吐き出した。

「どうした?喜んで舐めると思ったんだがな……僕が殺せるか試してみろや高嶋の残りカスどもがよお!!」

許容値を超えて割れた怒鳴り声が広間を満たす。オレの脊髄を痺れが落ちて、後ろ手に掴んだ感触を踏み出しながら振るった。木刀が命中した口元が壊れていることに男は目を剥いて呻いていた。

「これもいいけど当たる的が少ないな。誰かゴルフクラブ持ってないの?」

簡単に見渡しても一人もいなかったので俯いて頭を振ってからオレは群れに突っ込んだ。

揉み合いになっているうちにやくざの一人が投げつけた皿が壁に当たって割れた。大きな破片を拾い上げた三波さんが近くにいた男の首に突き立てながら言った。

「この皿幾らすると思ってんだ?揃って貧乏くせえ面しやがって、てめえらの命で払わせてやるよ」

三波さんが手に取った箒が脳天に叩きつける一撃で砕けた。

「撃てカズトお!」

弾を放つと、その風穴へねじ込むように三波さんが折れた先を食い込ませて音を立てて壁に押し付けた。

「そのままくたばれやカス」

夢中になっている三波さんの背後に迫ろうとしている男を見た。焦りながら箱を蹴飛ばす。転がり出たのは彫刻刀だった。手に当たったものを掴んで抱き掛かって固定した首元に4回刺して最後は引き裂いた。

「すごいな三波、そっちのツレも一緒にウチに入れてやりたいくらいだ」

「てめえらの汚え門なんざ誰がくぐるかよ」

「さっきから適当なもん使いやがって、その塊はどう使うんだ?」

鉄塊を指差して富良野は笑った。三波さんが後ろを向くとそれを弄り出した。

「どうした?まさか俺に投げる気か?」

「……カクシって言葉知ってるかおっさん」

「あ?」

振り返った三波さんは指輪のようなものをつけていた。

「これのことさ」

飛び出した三波さんが捕まえた富良野の顔面を徐々に強く掴んでいく。

「よく見せてやるよ」

顔から血を流して悶える富良野が細目を開けて睨んでいた。三波さんは手を広げているようだったけれどちょうど死角になって見えなかった。

「マッサージしようか。組でも僕は上手いって評判さ」

足元に移動した三波さんが手を握りこむ度に富良野は身体をよじって呻いた。足の裏を押し込む度に泡を吹いて背筋が跳ねていた。

「これで当分靴はいらねえな」

嬉しそうに振り返ってこちらに手を開いた三波さんのつけている指輪は、内側に鋭利な針や刃がいくつも並んでいた。

にこやかな三波さんを見るのは嬉しかったけれど、血を浴びた姿はオレには少しだけその目が怖くなった気がした。

「帰るぞカズト、それから来た時より綺麗にゴミ掃除しよう。今度こそ正面突破だ」

引き摺るような音がして、数拍おいて長い腕がオレの足に低い位置から絡んだ。

「しぶといなあ……死んでろよダボが」

狩りをする狐のように飛び付いた三波さんが腕に押し付けて銃声を鳴らした。まだ息が整っていないまま富良野は笑う。

「親が恋しいだろ三波、とっとと松乃んとこ行けや」

「クソが松乃さんを語るな!」

銃を構えたまま三波さんは動かない。睨み合いが続いた。飲むことすら躊躇われた唾液をオレは口端から流した。

「こうすれば来るのは解ってんのさ。その癖直してくれるなよ」

せせら笑った男が指先で下衆た挑発をした。

「下っ端どもが笑っちまうくらいぶちのめしてやるよ富良野っ!」

蹴ろうと片足を動かした三波さんの軸足を手で払って倒すと、素早く床に押し付けた。

「そこで見てろよ坊主……見殺しの気分を教えてやる」

目隠しをすれば三波さんだと解らないような声があがる。肉に覆われた骨に骨がぶつかる音が短い余韻とともに何度も響く。

「狂犬でもしょせんは犬よ……嬲り殺しにしたるわ三波」

胸ぐらを掴んで起こされた上体から力が抜けている。切れた目の上と鼻と口からこぼれた血が流れる途中でひとつになってシャツに大きな染みを作っていた。

意味もなく探ったポケットの中にある質量に後退りそうになってとっさに叫んだオレは前に踏み出して富良野の後頭部に振り上げた塊を叩きつけていた。電子タバコの吸口が短い髪を抉って頭部にめり込んでいた。まだ動き出しそうな頭を見て、折れるまで木刀を打ち付けた。汗が目に染みて我に返ったオレは後ろを振り返った。

「三波さん!」

短いテンポで区切られる息の仕方で、過呼吸だと解った。しゃがんだ姿勢で震える三波さんの背をさする。痙攣するまぶたから半分覗く黒目は虚ろにゆれていて、薄く開いた口からは血と胃液と唾液が混ざったものを垂れ流していた。冷たい手を掴んで力ない重い身体を背負った。

「死ぬな……死ぬなっクソッ!」

冷たい雨を避けるように走って軒先に留まろうと動いた光に顔を上げると、いつの間にか来ていた車から警察が降りてくるのが見えた。

走ってきた道を曲がって住宅街の隅を抜ける。駆け込んだ公園の奥に雑木林を見つけてオレはそこに走った。伸び過ぎた枝が頬を切った。

「なあ……ちゃんと息、しろよ。なんで、まだオレここで生きれねえよ」

丁度いい木まで運びながらオレは呪詛のように同じ言葉を繰り返した。

「富良野、まだ生きてるかな。三波さん、オレが代わりに殺してくるよ。刺し違えるかもしれないけど、ちゃんと殺す。腸を出せばいいんでしょ。罪の数は解らないからあんたを殴った数だけ引き摺り出すね」

ぐしゃぐしゃに濡れたハンカチを熱を持った首筋に当てた。木の幹に持たれさせた顔を上に向かせて、内側から赤くなった目尻に当てる。幻覚のように唇が動いた気がした。

「え……おい。生きてんだろあんた!」

「そんな揺らすな、カズト……ゲロぶっかけられてえのか……もう少し走るぞ、富良野の腸拝みに行こうぜ。空きっ腹じゃ可哀想だ、てめえの首でも食わせてやれ」

笑ってそう言うと切れた口が痛んだのか手で押さえてから親指の先で固まった血を拭って捨てていた。傷口をなぞる濡れた舌が街灯を反射して鈍く光っていた。


「起きろ富良野、メシの時間だ」

「なにしにきた……クソガキ」

「シマ踏み荒らした罰をくれてやるよ、腸見せて僕に謝れや」

荒い呼吸を吐きながら富良野がオレを睨んでから三波さんを見据えた。

「誰が野良犬なんぞに」

言い切るより早く三波さんが富良野の手に噛み付いた。骨とエナメル質が削れ合う低い音がする。血が溜まった唾液と絡んで糸を引きながら垂れた。指をゴリゴリと噛みながら吐き捨てるように三波さんが言った。

「知ってるか富良野?野良犬は縄張り意識が特別に強いんだ、長橋のシマってのはいわば僕の縄張りさ。おら食えよ、てめえの離乳食代わりだ」

三波さんに口を塞がれた富良野は力なく自分の指を受け入れていた。落ちていた刃物を拾い上げると摘んだまま眼前にぶら下げた。

「これはてめえのか?それとも手下のやつか?せっかくだ、一番きれいなやつを使おう」

気だるそうに刃を指先で撫でていた三波さんがドスを富良野の腹に刺した。

「やれや富良野。腹切りくらいは解かんだろ。動けねえんなら僕が手伝ってやろうか」

つま先でゆらしていた柄をぐっと押し込んだ。呻きは血を泡立たせただけだった。ゆっくりと動く刃が腹を割いていく。

「三波さん、オレが代わります」

「余計なことすんな」

「オレきっとこの仕事向いてねえんだ。自分が殺した奴でさえどんな顔してたのか見たくなくていつも壊してた。だから自信が欲しい。自分もちゃんと苦しみながら殺してみたい」

柄を掴んで動かしながら皮膚は伸縮性があるものだと知った。半ば千切るように引き裂いて、ぬめって口を開けている腹に手を突っ込んだ。手応えを引き摺り出すと灰色の臓器が見えた。

「アル中かおっさん、さぞいい酒食ってんだろうな。オレにも分けてくれるか?」

舐めるように顔を近付ければ黒目が少し見えるばかりで、その目玉に血を落としながら手にした塊を噛み千切った。

「なんだよこれ、くっせえ酒呑みやがるんだなあ!まるでクソ汁だわ!これじゃ名酒が泣いちまうよ……」

三波さんが煙草に火を点ける音がした。

「あんま時間ねえぞカズト」

「解ってます」

首に刃を入れて動かしていると、遠くに足音が聞こえた。

歩き出した三波さんを追って横に並ぶとニヤリとした目でこちらを見てから走りだした。

「てめえらお札出たん解っとんな!観念しろや」

「くたばっとろうが全員調べ上げろ!」

警察が声を張り上げるのが聞こえた。

「今日が高嶋組の終いじゃあ!!」

威勢のいい叫びが溶けて離れるまで長い時間がかかった。裏口から出て走ると気づいた刑事たちが怒声とともに追いかけてきた。

「ボケどもが止まっとけや!」

「付いとんのが誰の血かわしがケツまで調べたるわ!」

何キロか走ったところで三波さんが止まった。異様な雰囲気を纏った半端な高さのビルがあった。

「手え離すなよカズト!」

消火が間に合わず十何年経った今も全体が黒く煤けたままのビルの非常階段を三波さんに引っ張られるままに走った。かなり下からだけど、振り返れば顔も見えるくらい刑事たちは来ていた。

「三波さん、もう捕まりましょうよ。オレらのしたことはそりゃ悪だけど高嶋に比べたら……」

「嫌だね。過去掘られたらそうはいかねえし、それにそんなことしてみろよ自分以外の奴の罪も背負うことになるぜ。こうでも綺麗には死なせねえっていう組の流儀には賛成してるほうだ。僕は恨まれてるからどうなっちまうんだろうなあ、カズト」

ここらでいいか、と言った三波さんに言われるままにはめ殺しの窓を割った。後ろを振り向くまえに三波さんがオレを昇ってさっき割った場所へ手をかけていた。

窓から床へ降りると濃い黒の埃が舞った。さっきから壁伝いに歩いていた三波さんが小さくよし、と言った。

「もう一回降りるぞ」

そう言われてオレは階段を確認した。下へ続く通路はとっくに焼け落ちてしまっていた。

「カズト、お前が先に飛んでみるか?」

三波さんが指差した方向には大きなトラックが停まっていた。そこは駐車場でもなんでもなかった。それに対する疑念を振り払おうとしていると、三波さんがサッシに残ったガラスを砕いて取り除いていた。

「本気っすか?」

「迷うくらいならこんなとこまで来んじゃねえよ。大丈夫だって、高くても4階……だからトラックの高さ入れりゃ3.5階だ」

「無理ですよ死にますって!」

運転手と思わしき人物が車に向かって歩いてくる。

「ばかかお前は。そうなりゃ僕も一緒に死んでやる。怖くねえよ」

身を乗り出した三波さんがオレの頭を嬉しそうに撫でてから迷いなくサッシを蹴った。エンジンが掛かったのか車体がぐらりと動いた。タイヤが回り始める音をオレは自分の叫び声で掻き消した。

「な?だから言っただろ」

その人は変則的な風に苦戦しながら煙草に火を点けようとしていた。

「ねえ三波さん、オレにも1本貰えますか」

「あ?お前電子タバコ持ってただろ」

「……落としたみたいです」

しょうがねえな、と目を伏せて三波さんは軽い箱を足元に放った。

摘み上げた箱から取り上げてポケットを探っていると、そっぽを向いたままの三波さんがライターを差し出してくれた。オレは思わず煙草を落としそうになった。

「なんで……出世出来ないって教えてくれたの三波さんじゃないっすか」

「だって僕そんなの興味ねえからな。どうだ、うまいか?」

「ふふっ、最高にまずいや」

風に運ばれた血と灰の匂いが鼻先に触れると、そのまま吹き抜けていった。今日初めて笑ったことが空っぽなくらい嬉しかったことに目を閉じてオレはまた煙草を口にした。



白い天井に見覚えがあって、横に目を動かすと釣り上げられた足が見えてとっさに跳ねると身体に鈍い痛みが走った。

「お前笑うなカズト」

「びっくりしただけっすよ……待って、いつ折れたんですか?」

頬から顎先から鼻筋までガーゼに埋もれたまま憮然とした表情で上を見ていた人がぽつりと言った。

「トラック、落ちた時。それに折れてはないし、ヒビだし」

「だからあの時無理って言ったじゃないすか!」

「うるせえなカッコつかねえだろうが!」

大声を出したら響いたのか先輩は小さく呻いた。

「じゃあ三波さん、オレが落ちた後ずっと無理してたんだ」

「おう、死ぬかと思ったぜ」

笑っていると、看護師さんがノックをして、お客様です、と言った。

入ってきたのは想像の誰とも違っていた。だからオレは目を離せなかった。

「誰だよお前、こいつのアレか?」

「あら知らんのお兄さん、うちはどこにでもおる、あんたらやくざのただの情婦よ」

そう言って奥のパイプ椅子に腰掛けたヨコちゃんがこちらを見渡すと小さく舌を出した。

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