第27話 溶解する屍 6




「本当に誰もいらっしゃらないんですね」

 伝統や年季を感じさせる本館内部の雰囲気に圧倒されそうになりながらも、福井は何ものも見落とすまいと観察を心掛けた。とは言え、目に入るものと言えば、幅の広い廊下がいくつか交錯し、左右の壁には絵画が掛かっているだけ。たまに台があって、その上に古そうな壷や花瓶、胸像が置かれている。生活空間は二階にあるのだろう。

「これからの三日間、ここには私一人。手伝いの者達は皆、別館一階にある一室に泊まらせます」

 廊下の格子模様をそれとなく見つめながら、福井は着いていった。白と黒のタイルが十字路を過ぎると、黒と焦げ茶になり、また十字路を通過したら今度は焦げ茶とクリーム色になった。

 面白いなと感じ、それを口にしようとした瞬間、先を歩く琴恵が不意に立ち止まった。螺旋階段の口を傍らに、福井へと振り返る。

「先に二階がいいかしら? あなたは高いところがお好きのようだから」

「見てたんですか」

「そのための変装って言ったはず」

「なるほど。それじゃ、ここは素直に、二階から見させてもらいましょう」

 階段を一歩ずつ昇っていく。ステップには柔らかな布と滑り止めが施され、足音が全く響かない。対照的にむき出しの手すりは、冷たいカーブを天に向かって描いていた。

「二階だけでなく、屋上にも通じているのですね」

「推理作家でもだまされました? あれは形だけ」

「形だけ?」

「扉の絵が壁に描かれているのです」

「ははあ」

 若者らしくない声を漏らし、足を止めると、福井は目を凝らした。

「本当だ。見事なだまし絵ですね。階段も途中からは偽物。絵だ」

「他にもこういう仕掛けが少々。以前住んでいた家族か、それとも建築設計者か、誰の仕業なのか不明ですが、とても茶目っ気のある遊びでしょう?」

「うん。面白いですねえ。別館やホールにはない? あるんだったら、そっちも見てみたいな」

「ないわね。お客様に見せるつもりはなかったのかしら。こういう物こそ、みんなに見せて楽しむのが普通と思えるんだけれど」

 最後は独り言のようになった琴恵の返事。再び歩き始め、やっと二階に到着した。

「これは広いなあ。一部屋ずつ見て回るのは、骨が折れそう」

「折角だから、もう一つ、ヒントを。ヒントを得るためのヒントだけれど」

「はあ」

「中ではなく外に目を向けなさい。これがヒントよ」

「部屋にヒントはないってことですか」

「さあ? でも、正直言って、さっきは驚いたわねえ。別館の三階からエントランスホールを見下ろしていたでしょう? あの発想で正解」

「ヒントを素直に受け取り、つなぎ合わせると……」

 最後までは喋らず、福井は行動に移った。庭に面した窓を求め、廊下を急ぐ。程なくして見つかった。廊下と廊下が交わった角に、本来は不必要な“遊び”のスペースが作られており、その壁の一部がガラス張りになっていた。顔を寄せ、下に視線をやると、庭の様子が見える。

「あ!」

 この瞬間、福井の表情は驚愕し、すぐさまほころんだに違いない。

「花壇にメッセージがありますね。花、何ていう花か知らないけれど、たくさんの色を使って、文字を浮かび上がらせているんだ!」

「微妙な段差を付けてあるから、普通にあの花壇を眺めても奇妙な模様くらいにしか認識できなようになっていてね。本館のここからでなければ、読めないの。さあ、何て書いてあるかしら」

 微笑混じりの問い掛け。福井はガラスに右頬を押し付けた。

「アルファベットで二文字、かな。手前はIだ。その向こうが……B?」

 福井は口中で「び、び、び」と繰り返した。意味するところを掴めない。

「ローマ字じゃなく、英語だとしたら、BI。こんな単語、あったっけな。僕はあまり英語は得意じゃないから……。あっ、頭文字という考え方もできる。こういう名前の人が関係あるのかもしれない」

 思い付くままに喋っていると、くすくすと笑う声が耳に届いた。

「風のせいで、花の配置が少し乱れたかしらね。Iじゃなくて」

「――1ですか?」

 見直す福井。確かに、1にも見える。

「B1だとしたら、これはもう地下一階しか考えられません」

 振り返って意見を示す福井に、琴恵は「いいんじゃない?」とだけ応じた。

「どこかに地下室があるんだ?」

「ご名答。でも、どこにあるかは――」

「当然、本館でしょ」

 即答する福井。琴恵はさすがに目を丸くした。

「根拠があるっていう物言いね」

「根拠というか推理というか。だって、秘密の地下室なんて代物は、遊び心がないと作らない。三つの建物の内、遊び心が発露しているのは、ここ本館のみです。だまし絵があるんだから。そのだまし絵の一つが、屋上へ通じるように見せかけたドア。逆に、床の単なる模様に見えたタイルの一枚が、実は地下への扉。ありそうな機知じゃないですか」

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