祈り

佐野と電話をした夜から三週間程経った。

その日は土曜日で、啓二は明け方からの仕事で午後三時頃帰宅した。雫は休日に出掛ける場合は律儀に連絡を寄越していたから、今日は家に居るのだろうと思った。


アパートの玄関の前で立ち止まり、鍵を取り出して開錠した。家の中は静かだった。疲労が溜まっていた啓二はすぐにでも寝たい気分だった。


居間の戸を開けると、雫が床に座っていた。だがどうも様子がおかしい。彼女は暗い顔をして俯いていて、啓二が声を掛けても反応しない。不審に思った啓二はもう一度、「おい、どうした」と話し掛けた。すると雫はゆっくりと顔を上げ、その言葉を紡いだ。

「・・・二見ふたみ、啓二」


それを聞いた啓二の片方の眉が吊り上がった。そしてすぐに、ああばれたな、と思った。

いつかこんな時が来るかもしれないとは思っていた。その名前を知ったということは、おそらく啓二の職も知ったのだろう。啓二は片手をズボンのポケットに突っ込んで無言で雫の様子を窺った。


「・・・最近、私はあなたの仕事に疑問を持つようになりました。仕事の話をあまりしたがりませんでしたし、まとまったお休みもほとんど無かったですから。そして、あなたの部屋でこれを見つけました」

雫が一枚の紙を手に取った。それを啓二は受け取る。勝手に部屋に入ったのかと言いたかったが、それどころではないので黙っていた。

雫が寄越してきたのは、啓二が過去に作成した「仕事」の報告書だった。

それは雫の母親を殺害するきっかけになった、六年前の新聞記者暗殺の時のものだった。


「・・・そこに書いてある、『二見啓二』という名前、他の報告書にも書いてありました。全てが人殺しに関する報告書でした。あとその名前での雇用契約書も。・・・その二見啓二というのはあなたのことなんですか?」

静かな、しかし僅かに揺らいだ声で言葉を紡ぐ雫に、啓二は「ああ、そうだな」と答えた。彼女がかすかに息を呑む音が聞こえた。

「・・・やっぱりそうなんですね。・・・その報告書に書いてある日付、私のお母さんが居なくなった日と同じです。場所もお母さんの職場と近い。そこに『無関係ではあるが現場を目撃された為、水商売風の三十歳ほどの女を一人射殺した』って書いてあります。・・・これは、私のお母さんの事なんじゃないですか・・・!?どうなんですか!?」

段々詰問する口調になってきた雫を無言で見下ろした。雫の詰問は止まらなかった。

「あなたは、ずっと人を殺して生きてきたんですか!??

どうして・・・、どうしてお母さんを殺したんですか!??私に近付いた目的は何ですか!?私を—」

「少し落ち着け」


啓二が口を挟むと雫は一旦追及を止めた。かわりに両瞳から大粒の涙を流した。

「お前の言う通り、俺はずっと暗殺の仕事をしてきた。お前の母親を殺したのは、報告書それに書いてある通りやむを得なかったからだ。お前に会ったのは偶然だし、引き取ったのは気まぐれからだ。別に何の他意も無かった」

啓二の話を、雫は俯いて洟をすすりながら聞いていた。しかし数秒、そうしていたかと思うと、急に立ち上がり啓二の脇をすり抜け、玄関に向かうと家を飛び出して行ってしまった。残された啓二は翳りの強い表情で雫が突き付けた報告書を見つめていた。



 雫が居なくなった部屋で、啓二は煙草を吸いながら物思いに耽っていた。いつからか煙草はベランダか自室で吸うようにしていたから、居間で吸ったのは久し振りだった。

三十分近くそうしていたが、雫が帰って来る気配は無かった。無理もないだろうと思った。ずっと共に生活していた人間が殺し屋で、しかも自分の母親を殺害していたのだ。彼女の今の精神状態はまともではないだろう。

どこに行ったのかと雫の携帯にメッセージを送ってみたが、案の定無視された。仕方なく啓二は自室に向かった。


自室はあちこちを荒らされていて、書類の入ったファイル等が散乱していた。

仕事上、標的の居場所を確かめたりする為に相手の携帯電話で現在地を突き止めることがあった。雫が携帯の電源を切っていなければ追跡することが出来る。作業を開始すると、現在の場所が判明した。どうやら徒歩より速いスピードで移動しているようだった。速度的にバスかタクシーだろう。それにしても何処に向かっているのだろうと思った。前に聞いていた、雫の元の家のある方ではない。だとしたら、どこに・・・。

そこでふと、思い付いた。一つだけ心当たりがあった。今の雫が行きそうな所・・・方向的にも合っている。

啓二は立ち上がると自室を出て、スニーカーを突っ掛けると外に出て車に乗り込んだ。自分が追いかけてどうにかなるものではないが、放っておく訳にもいかなかった。彼はエンジンを掛けると、その場所へ向かう為に車を走らせた。



 啓二が車を降りたのは、四年前雫と共に来た廃教会だった。

相変わらず中途半端に伸びた敷地内の雑草を踏みしめ、古くなり雰囲気の増した建物の扉に手を掛けた。入口はやはり開いていた。


中に入ると、目に入った光景は四年前とほぼ同じだった。

変わった事と言えば長椅子の木が前より傷んでいることと、教会の奥に人が佇んでいたことだった。


雫は祭壇の手前で空を仰ぐようにして立ちつくしていた。その横顔に、真っ直ぐ伸びた全身に、艶やかな長い黒髪に、ステンドグラスから差し込んだ光が降り注いでいた。啓二が扉を後ろ手で閉めて歩を進めると、それを認めた雫が啓二に向き直った。その白くて凛とした顔に光が落ち続けていた。

「よくここが分かりましたね」

雫は先刻よりも少し落ち着いているようだった。その声はもう震えていなかった。

「仕事上、しょっちゅう人捜ししてるんでな」

「そういえば、そうでしたね」

そうして雫は懐から拳銃を取り出し、両手でしっかり持つと銃口を真っ直ぐ啓二へと向けた。家を出る前確認した時に一丁無くなっていたので、こうなることは予想がついていた。


「六年前、あなたの家に居候することにした私は子どもながらに緊張していました」

銃口を向けたまま、雫は静かに話し出した。

「知らない人について行って良いのだろうかという迷いもありましたし、でもこのままでは生活していけないという葛藤もあって、私はあなたの言葉を信じるしかありませんでした。

最初は本当に不安でしたけど、でもあなたは私に何の害も加えませんでした。家族みたいな感じにはならなかったけど、それでも安心出来る場所があるだけで私は十分でした。

それにあなたは分かりやすい優しさを振りかざしたりはしなかったけど、私の話を黙って聞いてくれたり、私の作ったご飯を食べてくれたり、この教会にも連れて来てくれました。私はあなたを信頼していました。・・・それが、」

雫は銃を構え直した。

「それが、そんな恩人だと思っていた人に、一緒に居て安らげると思っていた人に、こんなものを向けなければいけない気持ちが分かりますか!?

恩人どころか、私の一番大切な存在を奪った人間だと知った気持ちが、あなたに分かりますか!??・・・あなたは」


そこで雫は言葉を切り、嗚咽を漏らした。そんな彼女を啓二は静かに見つめていた。

「・・・お前を引き取ったのはただの気まぐれだったし、金を与えてやっただけで何の世話もしてなかった。恩人でも何でもねえよ、俺は」

雫は変わらず涙を流しているだけだった。

「・・・さて、俺の素性も知られちまったし、お前が俺に銃を向けるっていうんなら、俺もお前を生かしておく訳にはいかねえな」

そう言って啓二が前に踏み出すと、雫は顔を引きつらせて銃を構え直し、後ろに下がった。

「来ないで・・・・・・」

しかし啓二は歩みを止めなかった。ゆっくりと雫に近付いて行く。

雫も啓二が近付いた分だけ後退した。その顔には明確な恐怖が貼り付いていた。

そして雫の背中が祭壇に当たると、啓二は素早く拳銃を取り出し雫に向けた。彼の目に迷いは無かった。

乾いた音が教会の中に響き渡った。



 雫がおそるおそる顔を上げると、そこには先程まで銃を構えていた二見啓二が倒れていく姿があった。それを見た雫ははっとしたように目を見開くと、急いで啓二のもとに駆け寄った。

教会の床に倒れ込んだ啓二の腹の辺りから血が流れていた。雫が反射的に撃った銃弾が命中したようだった。

「ご・・・、ごめんなさ・・・」

倒れた啓二の傍らに膝をつき雫は声を掛けたが、それは啓二を罵倒した時の声色よりも揺れていた。

そんな雫を見て床に横たわる啓二はわずかに笑った。

「思ってたより、良い出来だったぜ・・・お前、暗殺者の才能あるな」

啓二の言葉を聞いた雫の中を衝撃が走った。

「あ、あなた・・・、わざと・・・わざと私に撃たせたんですね・・・!??」

そう、いくら雫が先に銃を持っていたとはいえ、殺しのプロ中のプロである彼が後れを取るはずがない。彼は雫を殺すと見せかけて故意に彼を撃たせたのだ。

「どうして・・・・・・」

視界がぼやけて涙が溢れてきた。その涙が啓二の服に落ちた。啓二は雫から視線を外し、教会の天井を眺めるようにして口を開いた。


「きっと、いつかこんなことを・・・望んでいたんだ。お前じゃなくても、仕事で失敗して・・・標的に殺されたり、標的の仇討ちで殺されたり・・・・・・。俺はずっと、泥の中を這いずり回るように生きてきた。希望も光も、・・・あったもんじゃなかった。誰かが、終わらせてくれるのを待っていたんだ」

途切れ途切れに話す啓二の腹部を染める血が増えていた。雫は慌てて携帯電話を手に取った。

「と、とにかく、救急車を呼びます・・・!早く手当をしないと・・・!」

啓二は首を横に振った。

「・・・言ったろ、『良い出来だった』って。・・・ちょうど内臓に命中してるぜ。もう、助からない」

「そんな・・・・・・」

雫はうつむいて首を横に振った。

「こんな、こんなつもりじゃなかったんです・・・!この銃だって、持ってきた時は混乱してて、護身用くらいのつもりでした。本当に殺すつもりなんて、私は・・・!」

状況を受け入れられないでいる雫を啓二はぼんやりと見つめた。

「お前は何も悪くねえよ」

雫はいつの間にか手で顔を覆って泣いていた。


「・・・そうだ、雫、俺の携帯に「佐野」って奴の・・・連絡先が入っているから、そいつに連絡しろ・・・・・・。あとのことは、そいつが何とかしてくれる」

その言葉を聞いているのかいないのか、雫はただひたすらごめんなさい、ごめんなさいと繰り返していた。

そんな雫を見て再び啓二はふっと笑った。雫と一緒に生活をしていた時ですら、こんなに笑ったのは初めてかもしれなかった。

「それにしてもお前・・・随分デカくなったな・・・・・・。最初は小さかったのに、それが昨日の事みたいだ・・・・・・。こんなろくでもない奴が引き取って、悪かったな・・・、だからせめて、この先は幸せに・・・」

「・・・駄目です、このまま死んではだめです。お願い、死なないで・・・!」

啓二の言葉を遮って雫は彼に縋った。しかしそれは最早届かない祈りだった。啓二は手をのばし雫の長い髪を掬った。彼が初めて雫に触れた瞬間だった。

そして掠れた声で「じゃあな」と言い遺すと、啓二は雫に触れていた腕をがくりと落とした。雫が呼び掛けたがもう反応することはなかった。

雫は啓二に顔をうずめて泣いた。叫び声を伴うそれは永遠に続くかのような慟哭だった。そのまま薄暗い教会には彼女の声だけが響いていた。






新幹線の車窓から見える景色の移り変わりは電車の比ではなかった。

雫は生まれて初めて新幹線に乗った。東京から西に一時間半程行った県にある親戚の家に行くためだった。


あの後雫は啓二に言われた通り、佐野という男に連絡をした。すぐに駆け付けた彼は、あとは自分が処理しておくからここを離れるようにと雫に告げた。いつも仕事でそういった作業をしているから問題無い、警察にも連絡しないとのことだった。

でも私がこの人を殺したのに、とまだ涙声の雫が言うと、「こいつも覚悟していたことだから」と啓二の死体に視線を落として言った。数週間ほど前彼と電話で話した時に、自分が死んだらその始末を頼むと言われていたらしい。「きっとあいつはこういう事態になることを予想してたんだろうね」と啓二の亡骸を見つめたまま彼は呟いた。


そして佐野は啓二から、雫の身の振り方についても頼まれていた。


彼は雫を引き取れる親戚が居ないか片っ端から調べてくれた。

啓二は雫の女性としての安全を懸念して、男が居ない家庭というのを条件に出していた。そして見つかったのが、雫の父親の妹だった。現在一人で暮らしていて、この先も結婚するつもりは無いらしい。雫の父親と母親は駆け落ちだったので親族からの印象は悪いだろうと思っていたが、妹とは仲が良かったそうだ。佐野が養護施設の職員を装って彼女に連絡を取ってくれ、雫も電話で挨拶をしたが温厚で人の良さそうな女性だった。


しばらくは二見啓二の家で過ごし、諸々の手続きが終わると叔母の家へ発つことになった。啓二の遺した預金を貰えば母と住んでいた家で暮らすことも出来たが、それはしたくなかった。



「本当に、何から何まですみません」

親戚探し等の打ち合わせで佐野と顔を合わせると、雫は深々と頭を下げた。喫茶店のテーブルの向かいに腰掛けた佐野はいやいや、と笑って手を振った。

「長年相棒やってたよしみだからね。最後の頼みくらい聞いてやりたかったんだよ。それにこんな綺麗な子と話せて俺も得だし」

佐野はそう言って茶目っ気のある笑い方をした。二見啓二とは対照的な性格なのだな、と雫は思った。


「・・・結局、あの人が私を引き取ったのは、どういうつもりだったんでしょうか。やっぱり罪悪感・・・だったんでしょうか」

会話が一段落すると、雫はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら伏し目がちに言った。

「俺もはっきりとは分からない。確かに罪悪感も有ったかもしれないけど、それだけじゃないと思う。あいつは自覚してたか知らないけど、ずっと他人と関われない仕事をしてきて、やっぱりどこか孤独だったんだと思うよ。そうじゃなきゃ、罪悪感だけで君というリスクのある存在を保護するとは思えない。親戚探しも自分でやらなかったしね。

その証拠に、君と暮らしだしてからあいつ少し変わったよ。君の作った料理を食べたり、外出に連れて行ったって聞いた時は驚いたね」

そう語る佐野は窓の外を見て、どこか懐かしいような目つきをしていた。雫が知らない暗殺者としての啓二と、雫を拾ってからの六年間を重ね合わせているのかもしれなかった。



ぼんやりと回想している間に新幹線はトンネルに入り、そしていつの間にかまた外の景色に戻っていた。


二見啓二を完全に許せたのかはまだよく分かっていない。

彼が居なければこんなことにはならなかったけど、彼と共に過ごした六年間が雫にとって大事なものになっていたのもまた事実だった。


ふと、二見に染みついていた煙草の香りや彼の憮然とした表情を思い出す。

彼はいつも無愛想だったけど、決して無関心ではなかった。


あなたがあだであることに変わりはないけれど、それでもあなたなりに私を守ってくれたことには感謝しています。それと暗殺者という、孤独で暗澹とした人生を送って来たことにいくらかの同情を。私はあなたと佐野さんが守ってくれた人生を無駄にすることのないよう生きたいと思います。


外の景色は相変わらず目まぐるしい。瞳を閉じていると、車内アナウンスが雫の降りる駅の名を告げた。もうすぐ駅に着くようだ。

彼女はしばらく瞼を下ろしたままでいた。教会で最期の瞬間雫の髪に触れた啓二の手を思い出す。

そしてふっと目を開けるともう回想に浸ることはなく、荷物をまとめると座席から立ち上がり足早に車内を歩いて行った。



                            終

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

許し 深茜 了 @ryo_naoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ