22 生命の影
早坂は、黒い影をマントのようにひるがえして志摩みつるの面前に舞い降りてきた。
憎悪に塗られた過去を、滅却した者の目には、怯えた顔で立つその人物が、かつてマインド・ウォーリアを目指したときの同志であったことなど、すっかり忘れ去っていた。
早坂は容赦なく、志摩みつるにむけて黒い影をひるがえした。衝撃で後方に吹き飛ばされた志摩は、倒れた上体を起き上がらせて、早坂に目顔を振りむけた。憤怒に燃える早坂のすがたは、過去に見たことのないすがただった。鬼の形相だった。
咆哮がとどろき渡った。早坂が発した恐怖の声色だった。
倒れ込んだ相手にじりじりと近づいてきた。志摩は、ふたたび吹き飛ばされることを覚悟して目を閉じた。そして心の中で叫んだ。
(思いだして。あなた、勇敢なウォーリアでしょ!)
ふと早坂の動きが止まった。小首を傾げている。何かを思いだそうとしているすがただった。思いだした。面前に倒れ込んだ女のことを思いだした。眉間に深く刻まれた、彫られたような皺が、ぱっと散って、気化したかのように消え去った。大きく見開かれていた鬼の瞳が、小さく丸く収縮した。両頬を引き裂くように鋭角に引き上げられていた口端が、丸く円弧になって柔らかな笑みをつくっている。通じたのだ。志摩の心の声が……。
志摩は右手を高々と上げた。先端の人差し指が、頭上を指し示している。早坂が、隻眼を頭上に振り上げた。指し示されたものを見て、小首を傾げた。
巨大なディスプレイには、勾玉のような白い影が映っていた。それが、早坂が、志摩を撮像した音響陰影であることを察したのは、志摩が、自らの腹部を左手で摩っていたからだった。
死の影じゃない。死の中に授かった生命の影だった。
早坂が、それが、自分の未来だと直感するのに時間はかからなかった。思い返せば、憎悪に塗られた過去だった。過去に抱いた未来は、その憎悪によって悉く消滅させられていった男だった。
白い勾玉とは、その悲劇の男と志摩との結晶だった。二人の輝ける未来だった――。
早坂は全身に纏った黒い影をひるがえした。足元に大きな垂直洞穴がひらいた。真下に丸いドームが見える。隻眼を充血させてドーム中央に建つ尖塔をねめつけた。波紋が尖塔を中心に水面のようにひろがった。ふと見れば、その中を見通せる孔がひらいていた。奥に、うずくまってモニタ画面を凝視する男がみえた。
青白い光を額にうけ、キーボードを操るマイク・ギャラガーだった。
――頭上を咆哮がとどろいた。
(早坂が来た)
心でつぶやいたマイクだった。
両手が独立した生き物のようになってコマンドを打ちつづけている。
面前に映し出されている赤い網目模様の上を、白いポインターがうごめいている。マイクが操作していたのは、禁断の未来地球図だった。
忽然と、その画面がゆれた。黒い影が頭上をひるがえった直後だった。早坂が、マイクにむけて振り下ろした一撃だった。異次元を舞う、マインド・ウォーリアの一撃だった。
ふたたび黒い影が過った。直後に周囲を埋め尽くす電子装置のあちこちから、破壊音がたちのぼった。気づけば、禁断の未来地球図が、白いノイズに覆い尽くされていた。マイクは構わずにキーボードを打ちつづけた。禁断の未来地球図がまた鮮明にそのすがたを浮かび上がらせる。テロリスト、マイク・ギャラガーは手強かった。量子コンピュータをあやつる彼は、異次元に変態をはたせた早坂をもってしても、簡単に駆逐できる相手ではなかった。
渾身の力をふるってマインド・ウォーリアがまた黒い影をひるがえした。
マイクは吹き飛ばされた。蛸のようにうごめく全身には、細かな火花が散っている。それでも気絶を免れたマイクは、キーボードを手繰り寄せた。その脳裏を、サイバーテロ革命の士、染井孝太郎のすがたが浮かび上がっていた。彼が最期につぶやいた声が耳に触れた。
「戦い続けろ」
ダビデスーツの中に帰還していたのは、志摩みつるが装着していた抜け殻のパーフェクトスーツだった。
赤い発熱の色に覆われていた講堂内は、嘘のように静まり返っていた。秋月かおりは、足元に散った、様々な破片をよけながら、志摩が消えたダビデスーツに近づいていった。吹き飛ばされたモニタが、画面を真上に向けて淡くひかっていた。その光のゆらぎが、焼けこげた天蓋に白いまだら模様を描いていた。
秋月は、その淡い光のたわむれを見上げた。「えっ」――。驚いた顔になったのは、たわむれの中から、ひとひらの白い花弁が舞い落ちてきたからだった。
さらに眼をふくらませた。花弁は、ひとひらが床に着地するのと同時に、堰を切ったように大量に降りそそぎはじめたのだ。降りそそぐ白い花弁は、羽音のような音をたてて秋月の全身を巻き込んだ。そしてまたふたたび舞い上がった。気づけば、白い花弁の舞いは、秋月の正面で柱の形になって静止していた。
何かの予兆を感じた秋月かおりが、花弁の集合に目をそそぎこむ。か細い声が聞こえてきた。
「先生」
「志摩みつる」秋月がそっと言い返した。ゆっくりと歩み寄る。現れ出てくるものを受け止めようと両手を差し伸ばした。
その差し伸べられた両手をすり抜けて、秋月の胸の中に落ちていったのは、志摩みつるだった。
「おめでとう」
秋月が発したことばだった。
早坂の未来に向かって囁いたことばだった。 了
ホログラム 樫ノ木 ジャック @kashinoki_mac
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