19 蟲毒の術
乳白色の全身を検査着に隠してベッドに横たわっていたのは、放射線科医師、秋月かおりだった。
その耳奥で、自らを呼びかける声が聞こえた。
「秋月先生」
水面をゆらす落下石みたいな声だった。それがこころの深奥にある湖面を波立たせた。その引き波が、水面の中心に戻ってきて、意識の中心部分を突きうごかした。
「秋月先生……おおきく深呼吸をしろ、おい」
覚醒した秋月かおりは、うすく眼をあけた。狭まった視界の真ん中に水木新平の顔がぼんやりとあった。
「水木さん?」秋月の声を聴き、水木は安堵の表情に変わった。
「ようやくお目覚めかい、手を焼かせやがって」
秋月は眼だけで周囲をうかがった。そこが何処の診察室であるかは、視界の片隅にあらわれた窓枠をみて分かった。遮蔽されていたのだ。視界には、水木に換わって女医の顔があらわれた。顔見知りの神経精神科の女医だった。
「先生、無理なことされては困りますよ」
戒めのことばに反して明るげな声色だった。しかし眼差しは鋭かった。依然、秋月の表情を目診していた。青白かった表情に徐々に色がもどってきていた。確認した女医は水木をふりかえった。
「もう少しだけ安静にしていれば、大丈夫でしょう」
秋月の耳に水木の安堵のため息が聞こえてきた。
四谷南署刑事課の会議室――。白いスクリーンに映し出されていたのは、二つの映像だった。
二つが対照的だったのは、それぞれの映像の主役が、男と女であることだった。片や精悍な顔つきでパンチやキックを繰り出す隻眼の男――一方は、顔を赤黒く腫らし項垂れた状態の白人の女だった。二つの映像で共通していたのは、時刻だった。日米の標準時間の差をあるものの、画面片隅に表示されてあるデジタル時計は、一秒の狂いもない、同期した映像であることを示していた。そしてもう一つ、共通していることがあった。二人共に、同様の装置の中に「没入」にしていたことだった。
その装置が、「ダビデスーツ」であることを牛島に伝えたのは、秋月かおりだった。
「……これは事故だと?」
「間違いありません。早坂は誘導されて、この事故を引き起こしてしまった」
自らのチャネリング体験に基づいて、事件の「供述」をする秋月の話に、牛島が困惑顔でいるのは、その映像が、早坂を指名手配する決め手となった物証だからだった。この一件が事件ではなく事故となれば、世間を震撼させた犯人は、一転して悲劇の人に塗り替えられてしまうのだ。そしてもう一つ牛島には、得心できないことがあった。四駆RV車内で発見された早坂の変死体だった。捜査当局では、その事態を、事件を引き起こした男が悲観して自殺した末路だと断定し、背後にいる志摩みつるには、その幇助の疑いをかけていた。
躊躇い顔の牛島を前に、秋月はプロジェクタに繋がれてあるノートPCを引き寄せた。そしてSDカードをスロットに突き入れて、記録されているものを白いスクリーンに送り込んだ。二つの映像に換わって映し出されたのは、稲光が明滅する映像だった。事故事前の四駆RVの車内の映像だった。
「それを何処で?」
「チャネリングを録画したものです」
早坂の遺体をMRIによって死後画像診断した内容は、秋月が装着していたパーフェクトスーツに、全て録画されていた。
映像は、新宿御苑トンネル内に突入する直前のところで途切れていた。
「彼、DARPAに関連した、脳内戦士というプログラムを受けていました」
「脳内戦士?」
訝る顔の牛島に、秋月は、「刑事さんには理解できないかもしれません」と意味ありげに応えた後、まなじりを決する顔になって言った。
「公安の土屋さん、ご存知ですか?」
昨夜から未明まで降りつづいた大雨で、遊歩道の敷石は墨汁に塗られたように黒く染まっていた。桜川のながれも急だった。コンクリートの護岸の岸から中を覗き込むと、川敷のあちこちが、増水に覆われているのが見えた。
車道を、前後の荷台に新聞を満載した自転車が走ってきた。その配達員の少年は、前傾姿勢の立ち漕ぎだった。前方に面影橋があった。その上を、早朝の散策を楽しむ老夫婦が、互いの健脚を競い合うように足早に渡るすがたがあった。自転車が面影橋を渡ろうと向きを変えた。その動きは、並木の桜が陰になって老夫婦には見えなかった。二つの動きが出合い頭に交差した地点は、面影橋の親柱の横だった。
「あっ!」
老夫婦の妻が、小さく悲鳴をあげてその場にうずくまった。それを避けようと、自転車は親柱にぶつかり横転した。その衝撃で、満載した朝刊の束が、欄干をのり越えて川底に落ちていった。配達されるべきものたちは、折り込まれてあった色鮮やかなチラシを宙にばらまきながら茶色い早瀬に飲み込まれていった。ひざまずく少年は、両手で欄干をつかみながら、ながされてゆくものたちを呆然と眺めている。妻は大事にはいたらなかった。夫に抱き起こされて立ち上がった妻は、がっくりと肩を落とし、うなだれる少年を気遣う気丈さをみせた。「大丈夫かい? 販売店のほうには私が謝りゆくから」しかし少年は何の反応もしめさなかった。俯いたままの状態だった。夫が少年の脇に歩み寄った、
「ごめんなさいね。流された分は弁償させてもらうから」
夫が少年の肩に手をやった。しかし、川底をのぞきこんだまま少年は反応を示さなかった。老夫婦は、それぞれに少年の両脇にしゃがみこみ、横顔に目をやった。
少年はわなわなと口元を震わせ眼を剥いていた。妻は、訝しげな顔になって少年が向けた視線の先に目を伸ばした。橋桁の架かる橋台の下にある川敷だった。そのコンクリートの割れ目に咲く、一本の白百合の横だった。
「あら、あれは何?」
妻は白百合に隠れるようにして横たわるものを指さして言った。夫が立ち上がって欄干から身をのりださせた。ぼろ切れの塊のようなものが見えた。垢じみたかたまりの端から、だらりと垂れた黒いものが艶やかにかがやいている。夫は、それが人の頭髪であることを見逃さなかった。
――――
秋月かおりは窓辺にもたれかかるようにして中屋敷公園を見下ろしていた。東京メディカル大学医療センターの本部棟最上階にあるラウンジだった。公園の丘陵に沿って蛇行する桜川は、昨夜に降った雨によって茶色い急流となっていた。秋月はゆがんだ顔を窓ガラスに押し当てていた。一週間を経過した今でも、チャネリングの後遺症からか、時折からえずきに見舞われていたのだ。言いようの無い不快感だった。表情が晴れない理由は他にもあった。果敢にも早坂の過去に飛び込み、探った成果は大きかった。早坂と志摩みつるとの関係は明らかにされ、早坂の無実が明らかとなった。そしてその背後に、薄暗い者たちが蠢いていることを知らされた。しかし、死を予感した早坂進一が、「蟲毒の術」ということばを残してその後に何を謀ろうとしていたのか……チャネリングは、真相を知る直前のところで途切れてしまったのだ。
からえずきがまた襲ってきた。不快を堪えようと両手を窓に突き立てた。落とした目の中に木深い中屋敷公園がぼんやりとみえていた。
「先生、大丈夫ですか?」技師の伊澤だった。気づかって声をかけてきた。振り返った秋月は、小さくうなずいて「ありがとう」と返した。
「おや?」秋月の肩越しから窓の外へと目を伸ばした伊澤が、不審がる声をあげた。呼応して秋月が背を戻した。
桜川沿いの車道を、数個の赤い明滅がうごいていた。救急車両だった。白衣のポケットの中でスマホがふるえた。手にとって通話ボタンをタップした。
水木からだった。
――――
本部棟地下、霊安センター入口脇に立って、呆然と立ち尽くす水木新平の眼前を、また一つ黒いボディバックが通り過ぎていった。担ぎ込まれ、フロアに投げ置かれる黒い塊の数は二十体を超えていた。混乱をかき分けて秋月と伊澤が駆けつけてきた。伊澤の背には携行型のUSエコーがあった。「それを調べてみて」秋月が、行き交う者に肩をとばされながらボディバックの一つを指さした。伊澤が歩み寄り片膝を立ててしゃがみこむと、背負ってある装置を前方にまわして足元に置いた。ボディバックのファスナーを引き開け遺体の腹部に大量のゼリーを塗りひろげた。即席の死後画像診断だった。伊澤がプローブを押し当てた。小型モニタ画面に音響陰影がうかびあがる。画面を凝視する秋月の目に、スノーノイズがうごめいていた。微細なものが分裂増殖している動きだった。
「生きてるのか?」
背後から覗き込んでいた水木のことばだった。秋月は首を横にふった。
「前兆ね。これから生きて出てくるための……」
こつ然と、霊安センター頭上を大音声が上がった。
「放射線科の方ですよ」立ち上がって耳をたてた伊澤が叫んだ。
――――
音源はMRI検査室だった。
コントロールルームに駆け込んだ秋月ら一行の眼前では、異様な光景が繰り広げられていた。検査室に鎮座するMRI装置のドーナッツ型のガントリには、消化器をはじめとする、様々な金属物がばらばらに引っ付いていたのだ。突如として起動をはじめた装置が、強化ガラス窓を打ち破り、コントロールルームにある金属物を、異常な磁力で引き寄せたのだ。装置につながっている立方体は、赤黒くに発熱していた。光バイオチップが搭載されてあるグラフィックサーバーだった。配電盤に駆け寄った伊澤が、ふるえる手でブレーカーを引き落とした。
桜川の本格的な捜査が始まった。
川沿いを連なる金網にしがみつくようにして、野次馬たちが川底をのぞき込んでいた。眼下にみえるのは、川底を行き来する捜査員たちだった。頭上を伸びるクレーンが、川底にむけて開閉型ショベルが吊り下げていた。浚渫作業は、川底を浚う役割の捜査員が、横一列に隊を成し、集められたヘドロをショベルで引き上げる段取りだった。捜査員を苦しめていたのは暑さや湿気ばかりではなかった。周囲を飛び交うおびただしい量の浮塵子が、作業を難航させる要因だった。川瀬はどす黒く川底は見通せなかった。
「そこの淀みはとくに深そうだ。足を取られるな」
列中央の班長が、右端の捜査員にこえをかけた。淀みは護岸の淵にあった。奇妙な赤褐色だった。真上に排水口があった。垂れ流れ出る赤黒い廃液が鼻を突く。淀みを面前にした捜査員は、横にまわり込みながら淀みをのぞき込んだ。所々に小さな渦をつくっていた。捜査棒の先端を中に差し入れてみた。棒の先端は一メートル入り込んでも底にたどりつかなかった。相当の深さに感じられた。捜査員は上体を淀みに乗り出させて表面をねめつけた。微細な渦がひろがっていた。突き入れた捜査棒をゆっくりと撹拌してみた。すると微細な集合が、大きな一個の渦となって大きな凹みをつくった。捜査員が後退る。その頭上を黒い粉塵が降りそそいできた。排水口から降り落ちてきた煤煙のような黒い塊だった。捜査員が背をまるくして大きく咳き込んだ。
「浮塵子だ。追いはらってやれ」
しぶきを上げながら駆け寄ってきた他の捜査員がスコップを突き入れた。それは奇妙に黒い塊だった。突き入れたスコップの感触には液体のような手ごたえがあった。突如光った。
その直後のことだった。「ぎゃっ!」、浮塵子の大群に覆われていた捜査員が悲鳴を上げた――。
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