18 新宿御苑トンネル

「くそっ!」

 拳を打ち付けた後に耳にきこえてきたのは、換気扇の回転音だった。面前には、蜘蛛の巣のような、ひび割れた亀甲模様が描き出されていた。破壊された鏡だった。割られた欠片のそれぞれに、自分が映って見えている。どれもが憎悪に燃える形相だった。――憎悪の相手、マイク・ギャラガーは、高純度化を果たした光バイオチップと共に、すでにGC社からその姿を消していた。GCテクニカルセンターに残されていた、培養されてあったスーパーレイヤのDNA鑑定の結果は、マイクが打ち明けた通りの結果だった。

 憤怒の分身たちが、万華鏡のようにきらきらと瞬いている。

 ふたたび拳を打ちつけた。飛び散る鮮血とともに分身たちが、細胞分裂をはたしたかのように視界一面を埋め尽くした。そして尚さらに、早坂をマイクの謀略が襲い掛かった。ダビデスーツを介して発生させてしまった「事務補助撲殺」の実写映像が、オンライン上に公開されたのだ。ダビデスーツの中で鬼の形相をして戦闘行動を繰り広げる早坂進一と、成す術なく、一方的に打ちのめされているカレン・ギャンブルとの二人の行動が、同時に並べ置かれた編集だった。二つの動きが明らかに同期していることが分かる映像だった。マイク等、テロリストの仕業に違いなかった。    

翌日のニュースヘッドライン――。

 ――最高学府出身者による前代未聞、オンラインリモート撲殺事件。

 過日に受診していた定期健診の診断結果、「余命三カ月」、が言い渡されたのは、その翌日だった。悪性腫瘍の転移が見つかったのだった。

 ――くしくも早坂進一のバースデイだった。

 押し当てられた拳を、無理矢理に頭蓋の中に捻り込まれたような衝撃だった。その後に発生した、全身を突き上げるような嘔吐の衝撃は予想外だった。吐き下された物の中に血の臭いが混じっていた。異常に感づき、ユニットバスのドアを引き開けた志摩みつるは、黒い影がただよっているのを目の当たりにした。バスタブの中で、仰向けになって背を反り返らせている早坂の全身を覆う黒い影だった。双翅目虫、ユスリカの大群が舞っていた。顔面はバスタブの淵でがっくりと後方に折れている。ないはずの左眼窩の窪みに青く光るものがあった。志摩に気づいた早坂は右手を差し向けてきた。手のひらは血に汚れていた。

「意外にイージーだった」

 片頬に笑みを浮かべて言った早坂は、左眼窩に突き入れたものを左手で弾いて見せた。バイオチップだった。

「俺の、もう一つのだ」

 それが志摩に言った早坂の最期のことばだった。

 その身を追われ、死に直面していた早坂を奮い立たせた動機とは、脳内戦士、マインド・ウォーリアという称号だった。戦うことの意味を追い続けてきた男の生きた証だった。その証にさらなる輝きを与えるために、彼がやり遂げようとしていることがあった。それは一刻の猶予も許さなかった。テロリストたちの恐るべき破壊工作がすでに動きはじめていたことは土屋隆司から知らされていた。この上は、みずからの身をもってそれを阻止するしかない。所轄の刑事から追われている身の早坂をかくまったのは、他でもない公安に所属する土屋だった。テロリストの目的を察した公安のとるべき手段だった。その期待に応えようと、死を乗り越えて勝つために早坂が選んだ手段が、蟲毒の術だった。

 バイオチップの素材を様々にリサーチしていた中で、「光の化石」の存在を知った早坂が、いつの日か、自分の死期が近づいたときに実行したいと密かに計画していた驚異のタイム・テレポーテーション――。自らの命と身体とを立体ホログラムに替え、時空を駆け巡ることを夢見た、恐るべき脳内戦士の秘術だった。

 ――――

 バスタブの前にしゃがみこんだ志摩みつるは、覆うタブカバーをそっと引き開けた。フェログロミンの赤いかがやきを纏った無数の幼虫たちが、いくつかの臓器のような塊となってうごめいている。その赤い塊の中に青く光る球形があった。眼窩に埋め戻されたバイオチップだった。変態のそのときを待つ球形だった。

 ――表面を覆っていた白い泡が消え、全体が赤黒い皮膜におおわれはじめていた。ミイラのようにも見えるそれは、悲劇のマインド・ウォーリア、脳内戦士の眠れる「蛹」だった。


 警視庁交通管制センターの管制卓が信号システムの異常を発したのは午前二時過ぎのことだった。浮き腰になって管制センター正面に設置されてある巨大な電光表示システムに目を振り上げた警官が、赤い点滅に目をそそぎこんだ。

「――新宿通り四谷三丁目交差点」

 異常地点をつぶやいた警官は、詳細を得ようと管制卓に腰をもどしモニタ画面を地点表示に切り換えた。当該信号システムの制御状況が面前にあらわれた。

「超音波式ドップラー感知器の異常」

 深夜、深閑とした管制センターにいぶかる者の声が立ち上った。同僚が背後にあゆみよってきた。

「落雷の影響か?」

「……分からない。いずれにしても周囲の地域制御に支障が生じるおそれがある。地点感応制御から時間制御に切り替える」

 システムの切り換え指令を送り込むため、画面にシステム侵入許可の画面をあらわした警官は、四角いデータ・フィールドにコマンドを打ち込もうとキーボードを引き寄せた。そのときだった。

「おい、どういうことだ?」

 背後に立って電光表示システムを見入る同僚が驚きの声をあげた。画面を覗き込み、キーボードに両手を置いて管制卓にうずくまる姿勢でいた警官が、ふたたび正面に目を振り上げた。横二十五メートル、縦五メートル近くにも及ぶこのLED表示システムは、皇居を中央にして内堀通り、外堀通りからはじまる都合八個の環状線と環状のドーナッツ型を貫くようにして放射状にのびる幹線道路および一般道を葉脈のようにうつしだしている。――管制センターで稼働するこの巨大な交通管制システムによって、都内の交通流が一目で把握でき、その流れに応じた制御がおこなえているのだ。その制御の基幹となるのが、一万機にもおよぶ地点感応式信号機を配した高度知的感応システムだった。

「環状3号線。外苑東通り」

 警官が指差す先に赤い点滅が連なっていた。信号機の故障を示す赤い点滅は、四谷三丁目交差点を先頭に、外苑東通り伝いに飯倉交差点までのおおよそ三キロもの間を連なっていた。

「関係所轄に有線連絡」

 警官の緊迫した声が立ち上った。


 暗闇に浮かびあるカーナビゲーションは、赤羽橋交差点を下方へとスクロールさせると、東京タワーを中心に、周辺地図を時計まわりに旋回させた。画面の中央には外苑東通りが垂直に映し出されている。フロントガラスをぬぐうワイパーの間欠音が車内をひびいていた。志摩みつるは、手にあるコントローラのブレーキ釦を押し込んだ。車は飯倉片町交差点の手前で停止した。ワイパーの間欠音が止んだ。雨に濡れたフロントガラスを深夜の街灯が滲んでみえている。車窓をぬらす雨の被膜によって車内は見えにくい。

 志摩はおもむろにGPS地点探査釦を押し込むと、雨にゆがんだフロントガラスをねめつけた。応答を待った。

 感知を終え、音声合成がスピーカーを流れ出た。

 ――現在地点、認知。

 志摩は暗くしずんだ声でつぶやいた。

「電撃用モニタリング開始……」

 音声合成がふたたび流れ出た。

 ――モニタリング準備OK。

 志摩は白いサブ画面に視線を移し、表示されてあるテキストを声に発した。

「光子スクリーンナンバー1、電撃準備OK。衝撃時のタイムトライアルパワー、五百万Gヘクトパスカル」

 言い終えてからワイパーのノブを落とした。フロントガラスを覆っていた雨の被膜がぬぐわれて、前方に飯倉片町交差点があらわれた。

 志摩の額を照らす信号灯が、赤から青色に変わった。カーナビゲーションのポインターがふたたび外苑東通りを北上しはじめた。車窓を、ネオンライトの明かりが絵の具のようにひろがっている。車は六本木交差点にさしかかっていた。ゲーセンからファイティングポーズのゲーマーが飛び出してきた。びしょ濡れになって踊り狂っている。志摩は構わずに、アクセルレバーを強く突き押した。

 車は水煙をあげて六本木交差点の高架下を突っ切った。

 急加速を避けることができなかったのだろう、一匹の甲虫がフロントガラスに砕けて散った。生命のかけらも、生きてきた証もないような粉微塵な姿だった。その遺骸を一瞬の内にワイパーがぬぐいとる。志摩は、インパネのカーステに手を伸ばした。雨音と間欠音にDJの声がくわわった。

 ――東京ニューウエイブFMがお送りしますミッドナイト・ミュージック・フラッシュのお時間です。最初のナンバーは、プロコルハルムの青い影。ここスカイサテライトの窓は、深夜だというのにあちこちに発生する青白い稲光りを映し出しています。皆さん、いかがお過ごしでしょうか……。

 外苑東通り周辺地図が、おおきく下方へとスクロールされた。自車位置をしめすポインターがまた上昇をはじめる。前方をみつめる志摩みつるの瞳孔が、緊張でふるえていた。DJの声がプロコルハルムに割って入った。

――突然ですが、只今、東京地方に雷警報が発令されました。ドライバーの方々、運転には十分にお気をつけください。

 行く手前方上空を青い稲妻がはしった。ポインターは、青山一丁目交差点を越えて神宮外苑を入ったところで停止した。街灯の明かりを避け、鈴掛けの並木の陰で車を停止させたのだ。志摩は身を捻って後部座席に置かれてあったヘルメットを手にとった。フルフェイス型の鋼鉄製だった。頭部にまとめられた幾本ものケーブルは、車体上部に取り付けられてある集電装置につながっている。ヘルメット前部の開口部をおおう液晶製のシールドをあけて中を覗き込んだ。内部に張りめぐらされたか細い導線の接続部分を、一つ一つ確かめるようにして目で追う。

 カーナビの画面が明滅した。

 気づいた志摩みつるがサブモニタ画面に目をふった。《帯電完了》が表示されていた。

 決意した顔の志摩が、運転席に座る男にヘルメットを被せた。立体スピーカーに手を伸ばし始動釦を押し込んだ。極超高周波が車内をひろがり、装着したヘルメットのシールドをがたがたと揺らしはじめた。眠れる早坂の全身が振動をはじめたのだ。その隅に、解像度を示すプログレスバーがあらわれた。

 志摩がアクセルレバーをおもむろに押し込んだ。カーナビのポインターは、ゆっくりと神宮外苑内を上昇してゆき、信濃町駅前を越え、まもなくして四谷三丁目交差点で停止した。

 雨足は激しさを増していた。助手席のドアが開いた。雷鳴が降る雨とともに車内に吹き込んできた。運転席で全身をふるわせる早坂の姿を見届けた志摩が、目を細くして独り言ちた。

「グッドラック」

 トレンチコートの襟を立てて車を降りた。振り返らぬままドアを押し閉めた。歩き出してすぐ、志摩はコントローラのアクセルレバーをふたたび突き押した。四駆RVは、直後に、志摩のトレンチコートの裾をゆらせて走り去っていった。

 眠れる早坂進一の視界に見えていたのは、複雑にえがかれた青白いワイヤフレームの光景だった。形として認識できるのは、西新宿の摩天楼群だった。雷鳴が稲妻の閃光と同時にとどろいた。ふと円弧型のワイヤフレームの連なりが前方にあらわれた。円弧の連なりは瞬く間に眠れる早坂の視界を飲み込んだ。

 頭上をバチバチという集電音がひびいていた。円弧の連なりの先端は、その中央で集束していた。新宿御苑トンネルだった。

 ――――

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