16 破壊工作

 バイオチップの開発は、最終段階に差し掛かっていた。しかし早坂の前に立ちはだかっていた開発課題は、容易に打開できるものではなかった。高純度化問題だった。極超高速演算を強いられる量子コンピュータだった。使用されるプロセッサには、発熱をともなう相当の負荷がかかるのだ。それを克服するために、バイオチップの素材であるスーパーレイヤには、高い純度が求められた。そうでなければ、寿命は、一般的な使用に耐えられなかった。

 レイヤの純度をあげるための様々な分離・精製が施された。超高分子素材をもちいた濾過・吸着。化学装置をもちいた蒸留・分留、昇華、抽出、再結晶化等々……様々に模索を施してはいたのだが、目的の性能を得るには、まだ後一歩、不足だった。

 スタッフ部門から連絡を受けたのは、その課題解決のための新たな取り組みを模索しているときだった。

「破壊痕?」

「そうだ。今すぐに来てくれ」

「どういうことでしょう?」

「聞きたいのはこっちなんだよ。米軍エンジニアリングセンターへベータ版として納入したバイオチップが改ざんされていた。演算レジスタ部分のマイクロコードだ」

「馬鹿な」

「兎に角今すぐに来てくれ」

 降って湧いた出頭命令だった。

「何かあったの?」

 音を立てて受話器を置き、憮然とした顔付きで席を立った早坂の背に、カレン・キャンベルが訝し気な声色を投げかけた。彼女の問いかけが耳に入っていないかのように、無言で研究室を出て行った早坂だった。

 松原がえがく白い光のまだら模様が、テクニカルセンターの通路をゆれている。ウエストコーストを照らすその日差しの中を、スタッフ部門へと向かう早坂の姿があった。後方から、その後姿に目をそそぐカレン・キャンベルだった。背後から見る彼は異様だった。右に左におおきく揺れ動いていたのだ。バイオチップの試動を成功させた早坂だったのだが、そのために昼夜を惜しんで進めてきた開発作業が祟ったのか、衰弱ぶりは、傍目にもあきらかだった。不安に思ったカレンが、フィジカルチェックを受けるよう忠告した矢先のことだった。

 指示された会議室の前にたどりついた早坂は、全身をがくがくと震わせていた。突然の出頭命令に対する動揺と、体調の悪さとが相まって生じた震えだった。それは薬物の枯渇によって生じる麻薬中毒者の離脱症状のようだった。ようやくドアを押しひらいた。会議室内には、五名の部員が早坂の登場を待っていた――。

 冒頭、急きょ立ち上げられた、事故調査委員会の聴取であることが告げられた。その調査官の一人が、テーブルを回り込んで早坂の元に歩み寄ってきた。そして手に持ったノートPCのモニタ画面をひらくと、早坂に差し向けてきた。画面には起動していた3D・CADツールが、問題の回路図を映し出している。バイオチップに埋め込まれた立体回路だった。調査官が口をひらいた。

「破壊工作の痕跡だよ」

 他人事を言う声色だった。早坂が無言になって目をそそぎこんだ。指摘にあるように、一時保管用のレジスタが粉々に破壊された痕跡がみえた。

「プログラマには見えないところで、マイクロコードが改ざんされていた。内部の手による工作だよな。そう疑うのはあたりまえだろ?」

 皮肉を言う口ぶりの調査官を無視するかのように、早坂はひょう然と画面を見つめていた。そのふてぶてしい態度をもどかしく思った調査官が声を荒げた。

「見て分かるよな。最下階層領域にあるレジスタだよ。制御機構の破壊痕だ。君たちカーネルの製作スタッフが疑われるのは当然のことだろっ」

 調査官は早坂の背後にまわりこむと、その肩ごしから腕をのばして画面に指を突き立てた。たしかにレジスタの一部にショートした破壊痕がうかがえた。しかし身に覚えのない早坂だった。だから先ずは、事実を解析するしかなかった。調査官の腕を手ではらい除けた早坂は、キーボードに両手をおいた。そして、コマンドを打ちはじめた。画面はいくつもの断面図をあらわした。立体構造をしたバイオチップは、中心にあるカーネル部分をつつみこむようにして、幾百もの階層、レイヤによって覆われていた。そのうちの数枚の断面を表示させた。早坂はさらに、レイヤのライブラリをあらわし、エディタをつかって中を探査した。プログラミング言語にコンパイルされてあった機械語が、アルファニューメリックの洪水となって画面を上下にながれはじめた。探査の眼が洪水の中に飛び込んだ。瞳が上下左右、目まぐるしく微動しはじめた。

「早坂、君たちの仕業なんだよな?」

 執拗に問いただす調査官だった。しかし押し黙った。

「早坂、真相を打ち明けてくれないか?」調査官は、今度はなだめすかすような声色を発して早坂の肩に手を置いた。

データの洪水のなかを探査していた眼が急停止した。破壊工作をおこなったとみられるプログラムの断片が、レジスタのなかに消滅されずに残っていたのを見つけたのだ。じっと凝視していた目がふとひかった。何かを察知した輝きだった。着目したのは、演算レジスタの記述法だった。それは、制作したプログラマを特定する生体認証のような存在だった。

(染井孝太郎? ――)

 心の中で、それを記述した者の名をつぶやいた。

 しかし直後、早坂はかぶりをふった。眼の焦点が定まらなくなっていたのだ。再度、頭を振った。つぶやいた者の名を記憶から消したいためだった。

「おい、早坂、応えろ!」

怒声を発した調査官は、眼をおよがせながら、何どもかぶりをふる早坂に気づいた。その異様なしぐさを不思議に思った調査官は、早坂の横顔をのぞきこんだ。直後、調査官は小さく悲鳴をあげて後退った。……充血し膨れ上がった左の瞳から、真っ赤な血が、だらりとしたたり落ちたのだ。

「早坂、どうしたんだ?」

 怯えたような、驚きを押し殺したような調査官の小声が、会議室内をゆらゆらとたちのぼった。がくがくと膝をふるわせながら、無言で席を立ちあがった早坂は出口に足をむけた。しかし途中、突然に背を伸び上げた姿勢になってから、弧を描くようにして床に倒れ込んだ。


 以前の早坂進一を知る者であれば、今、到着ロビーをでてきた人物が、当人だと気づくことはないはずだった。白い眼帯が痛々しい両頬は、彫られたように痩せこけていた。両肩を空港スタッフにかかえられて車椅子を移し替えられる姿に、脳内戦士を目指していた往時の面影はなかった。人づてには聞いてはいたし、早坂自身から打ち明けられてもいた。……しかしこれほどの衰弱ぶりだったとは思ってもみなかった。物陰から呆然と彼の姿をながめていた志摩みつるは、ふと我に返って近づいていった。

「痩せただろう?」

 それが志摩との再会を果たした早坂の第一声だった。

 自分を直視できない志摩みつるの気持ちを先回りして言ったのだ。彼女は隠し覆そうとしていたものがどっと込み上げてきて、咄嗟に背を返した。

 早坂は健気にも、静を保とうとしておもわず動いてしまったような志摩の後姿を見て深く息をついた。あらためて自らの失ったものの大きさを思い知らされたのだ。こみ上げてくるものをおおきく深く吸い込んだ。左眼球にみつかった悪性の腫瘍。そのための眼球摘出手術を終えての帰国だった。バイオチップが改ざんされた原因について、調査会は悪性腫瘍におかされていた早坂の過失だと判定した。突然におそってきた発作が改ざんを招いたものと判定したのだった。しかし真相は違っていた。それを押し隠しての帰国だった。

「心配していたよ」早坂の第二声だった。

「ごめんなさい」

 心配されるべき者が口にしたことばだった。理由があった。染井孝太郎の件だった。生前の彼と志摩みつるとは、人知れずに交際をつづけていた間柄だったのだ。そのことを知ったのは、皮肉にも染井が死んだ後のことだった。気づかせてくれたのは、志摩が忽然と早坂のまえから姿を消したことだった。あまりに突然のことに、不審に思った早坂が土屋に問い質したのだ。

「しばらくは落ち着けるんだろ?」

 失踪後の志摩みつるは行く宛てのない毎日だった。それを察して再会を願いつづけた早坂だった。理由があった。志摩を慕う早坂の気持ちだった。それを願いつづけた米国での日々だったのだ。それが通じたとき、皮肉にも、早坂の頼りの綱がとぎれたのだ。GC社を去ったのだった。

「あなたのところにお邪魔していいかしら?」

 躊躇いがちに言った、早坂との暮らしを願う志摩のことばだった。拒む理由は何もなかった――。

 早坂は、キャリーケースを引き寄せた。中から取り出したものを差し向けた。ヴァチカンワインだった。

「今夜、これを開栓したい」

 戦うことを教えてくれた人物にむけて発した、終戦のことばだった。

 ――――

「大事なのは、認知と判断、そして制御。三つのコントロール。……このコースの場合、メインパイロンを左に曲がるところ、レーン認知センサの反応が若干弱くて、大きく右寄りにふくらんでしまいがち。だからハンズオフできないわね。しっかりと左にむけてハンドルをキープしてちょうだい……」

 志摩は、リビングのソファに身を沈めながら、自動運転のためのナビゲーションをおこなっていた。横に座ってコントローラに両手を置いて、指示を受けていたのが早坂進一だった。彼がおもわず苦笑したのは、自分に向けて手ほどきをする彼女の口調が、ダビデプログラムを指揮していたときと同じ口ぶりだからだった。

 暖色が基調のリビングルーム――。リビングテーブルの正面におかれた大型プラズマ・ディスプレイに映し出されていたのは、次週に参加を予定していたロボットカーコンテストのテストコースだった。コンテスト前の、事前シミュレーションだった。遠隔操作で行われるそれは、自宅に居ながら参加できるのだ。

 終戦を宣言し、穏やかな生活をはじめた二人だった。とはいえ、共にもつ先天的競争心には抗えなかった。二人が趣味として選んだのは、ロボットカー競技だった。

 レベル1から5まである、自動運転レベルの中で、コンテストが走行ルールとして規定していたのが、レベル2と3との中庸だった。中庸というのは、レベル2に値する、走行の進行前後とレーン幅左右の、単体の車両運動制御を基本スペックとしつつ、GPSとAIを利用した、動的運転タスクの利用を許可した、限定領域におけるレベル3を含むもの、という規定のことだった。

つまりコンテストにおける走行のポイントは、凡その領域においてはセンサ認知を自動に任せ、手動操作に効果がある部分的領域において、ハンドルとブレーキとを直接に操作することだった。

 志摩の自動ドライビングの才能は、一頭地抜け出ていた。趣味ではじめたものの、その腕前は、始めてから半年も経たないうちに、全国にその名を轟かせるほどになっていた。だから翌週に参加した当該コンテストでの優勝も、驚くことではなかった。すでに一介の民間主催のコンテストでは飽き足らなくなっていた志摩だった。DARPA主催の、アジア発のロボットカーコンテスト開催を知らされたのは、それからすぐのことだった。米軍三沢基地で開催されるコンテストだった。主催するのがDARPAであることに因縁めいたものを感じた志摩だったのだが、構わずに参加を決めた。

 走行ルールは実車の、レベル2だった。もしもの場合のサポート要員を運転席に乗せた実車を、離れた位置からコントロールするルールだった。

 ――――

 四機の迷彩柄のジェット戦闘機が、誘導路をタキシングする背後を、「JAIR」がペインティングされた民間の小型航空機が着陸してきた。その動きが空のエプロンで止まるのを待ってから、誘導路を端まで到達していたジェット機一機が、滑走路にコースを折り返し、爆音を上げて離陸していった。

米軍と自衛隊、そして民間が共有する三沢空港がのぞめる広大な駐車場には、「DARPAグランド・チャレンジ」の横断幕の下、コンテストに参加する者たちが用意したロボットカーがならんでいた。思い思いにオーナー自ら改造した車たちだった。その周囲を、競争相手の車を目利きしているオーナーたちのすがたがあった。志摩と早坂が、この日の為に用意したロボットカーは、四駆RV車だった。

 ――スターターのグリーンランプが点灯して、各ロボットカーが停車していたグリッドを離れ、フォーメーションラップを開始した。その一部を三沢空港の滑走路を利用したレースコースを、各ロボットカーたちがジグザグに走りはじめる。まもなくしてグリーンランプが消灯し、ロボットカーは各自のグリッドに戻りはじめた。そして、最後に戻ってきた車がグリッドの位置についた。それを待って、グリッド後方をグリーンフラッグが打ち振られた。電光掲示されたスターターは、レーススタートに向けて左列端にあるレッドランプを点灯させた。その後の4秒を使って、5列あるスターターランプは、右に向かって一秒ごと、レッドランプが点灯していった。やがて全てのレッドランプが点ってから二秒後、点灯していたレッドランプすべてが消えた。それがスタートの合図だった。

 各車一斉にグリッドを飛び出した。サポート要員として運転席のシートに乗り込んでいた早坂は、猛烈な加速に顔を歪ませている。それを嘲笑うかのように、さらに加速をはたした四駆RVは、スタート直後から、早くも先頭に立った。

自動運転ドライビングの妙とは、自動と手動との絶妙な取り合わせにあった。急カーブを攻める状況で例えるならば、カーブに侵入する初速は、自動に任せ、回り終え、立ち上がる手前でアクセルを踏み込む。そして直線に態勢が戻ったならば、すぐに再びアクセルを離し、マックススピードに設定されてある、アダプテッドクルーズ・コントロールをセットする――すなわち自動運転ドライビングとは、自動と手動、その両者の得手不得手を十分に理解し、二つを取り合わせすることに他ならなかった。そのバランス感覚が、志摩は圧倒的に優れていた。

――その後、20周回を、すべてトップでラップを切った四駆RVは、他を寄せ付けない圧倒的な内容で優勝を果たした。

 ――――

 リビングルームに飾られた優勝旗と優勝カップ。その中央に置かれてあるのが、遠隔操作のためのコントローラだった。それを眺め入る早坂は、思わし気な顔付きだった。かつては遠隔される側の立場だった自分を思いだしてのことだった。今は違った。衰弱していた身体も心も、同様に今は違った。十分に回復していたのだ。志摩との暮らしも、思い通り穏やかに過ぎていた。ほっと安堵する毎日だった。

そんな早坂には、時折思い出される記憶があった。全身に記憶された感触だった。ABトレーニングの時に記憶した、戦いの毎日だった。「勝利こそ絶対」――ロンバルディアンの倫理を箴言として、日夜、非日常的トレーニングに没頭していたときのことだった。そして修了セッション――ダビデスーツを介して全身に刻印された猛烈な衝撃――その記憶を遠ざけたくて、憧れていた脳内戦士になるためのプログラムを、記憶から消し去りたいために、今の暮らしを選択したのだ。尤も、消し去りたいのは、それが不安だからでもあった。いつまた憧れとなって、それが蘇ってくるか分からない。それが不安だった。ジンクスもあった。それを破りたいから、ヴァチカンワインを否応なく開栓したのだ。

今のこの暮らしをずっと続けたい――対して、過去を不安に思う気持ち。二つの撞着した想いが、彼を思わし気な顔つきにしていたのだった。

――その日の朝、穏やかな日々に波紋がたった。宅配で送られてきたそれは、梱包のサイズから、ロボットカー用の部品かと思った。しかし推測はすぐに打ち消された。梱包を解き、中を一瞥したとき、打ち消された。

送り付けられたのは「ダビデスーツ」だった。

 梱包の中には、折り畳まれたスーツ本体、HMD、そしてグラフィックサーバーがあった。

送り主の名に見覚えは無かった。配送ルートを偽装するための工作だと憶測できた。

「誰の仕業よ?」

 志摩のことばに首を横に振った早坂だった。

グラフィックサーバーを梱包する箱の横に、付随する個装箱が目に入った。フラップを指先で開いて中を覗き見た。早坂の瞳が薄くひかった。「GeneralChips」が刻印された球形だったのだ。GC光バイオチップだった。……思えば、その実用化、量産化なるまえにGCを去った早坂だった。面前にあるそれは、その完成がなされたことを告げていた。

 土屋隆司が二人の前にすがたを現したのは、その日の午後のことだった。

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