15 白い花影

 装着してあった圧電パッドを荒々しく引き剥がした早坂は、おぼつかない足取りでダビデスーツから這い出てきた。そして、立っていることが耐えられないかのように、汗に濡れた身体をスツールに落とした。俯き脱力した身体を、両膝に置いた両肘で支える姿勢だった。両肩が激しく上下している。興奮を鎮めているのだ。滴り落ちる汗が、フロアに水たまりをつくっている。志摩みつるが、装着していたHMDを引き外した。早坂の顔面は、赤黒く腫れあがっていた。膨れ上がった瞼からのぞき見える細い瞳は、志摩みつるにむけられていた。何かを乞うような目の色だった。セッションの結果を知りたいのだ。対戦内容は、自らでは判定できなかった。

「よく頑張ったわね。合格は間違いないところね」

 早坂の勝利を確約する志摩のことばだった。ほっと安堵の顔つきになった早坂だった。

 志摩の隣に立つ土屋隆司は、手に持つタブレットの画面を無言でみつめていた。セッション中に計測された、生体データの確認だった。その眼には、何故なのか焦燥の色がにじんでみえていた。想定していた結果とは異なるものを見てしまったかのような……。やがて、独り言をつぶやくように言った。それは、志摩みつるに抗うことばだった。

「これから審議が必要になる」

「何か問題でも?」

 早坂の修了セッションが予想に反して苦戦していたことは確かだった。しかし勝利したのだ。修了規定にある結果を得たことは間違いなかった。志摩は土屋の真意をさぐろうと問いかけた。土屋は、

「様々な視点からの考察が必要になる……そういう意味だ。合否を決めるのは、勝敗だけじゃない」と意味ありげに言い返した。

「どういうことかしら?」納得できない顔の志摩だった。「勝利こそが絶対」を箴言として掲げているダビデプログラムなのだ。執拗に問い質そうしたときだった。土屋の白いジャケットの内側で、スマホの呼び出し音が鳴った。抜き出して耳を当てた土屋の表情が、すぐに困惑の色に染まった。

「何か?」

 異変に気付いた志摩が問いかけた。土屋はそれには応えず、タブレットの画面を無言で凝視していた。愁眉の顔付きだった。口元が微動し、苦し気な声色が漏れでた。

「くそっ」

 ――早坂進一が、生命科学研究所事務局から、親会社である中井光学の解散と、それにともなう研究所の閉鎖。そして、染井孝太郎の悲報が伝えられたのは、それから二日後のことだった。


 ジンクスは生きていた。またしても破られなかった。

 恨めし気な表情で、早坂は、ヴァチカンワインのボトルを見入っていた。「ノッツェ・ディ・カーナ」だった。イエス最初の奇跡を描いた同名の絵画がラベルにあしらわれているそれは、カトリックの総本山、ヴァチカンで行われる、聖なるミサのワインとして認められたものだった。その開栓は、果然ままならなかった。

 突然の研究所の閉鎖、そして中井光学の解散に伴い、修了セッションの結果を待つまでもなく、ダビデプログラムそのものが、消滅してしまったのである。称号は、与えられるその直前になって、指の隙間からすり抜けていったのだ。DARPAが、支援から撤退したのだった。

 原因は、染井孝太郎にあった。脳内戦士、育成装置開発中の爆発事故だった。事故により、染井は命を落とした。そのことがサイエンスライターの耳に届き、過激な育成プログラムが公に晒されることとなったのだ。そして、倫理規定に抵触する、という指摘が周囲に知れ渡り、研究そのものへの非難が殺到した。そのことが、DARPA撤退の理由だった。

 テラスデッキに立つ早坂進一は、手すりに歩み寄って眼下に目をむけた。潮風にはためく旗がのぞめた。世界最大手の半導体ファウンダリ企業、GC社の社旗だった。

研究所の閉鎖にともない、早坂進一は、解散させられた中井光学のホールディングカンパニー、GCテクニカルセンターへ転籍となった。戦士候補としてではなく、光バイオチップの開発者としての転籍であったことは、意外なことだった。

 東京大学情報科学工学研究科に籍を置く染井孝太郎――事故を引き起こした彼は、GC社が開発を行っていた光バイオチップの統括責任者でもあった。彼の思わぬ事故死によって、開発が遅れることを憂慮したGC社が、その代役として、光バイオチップの「開拓者」である早坂進一に白羽の矢を立てた人事だった。

 染井の死は早坂にとって大きな心痛だった。そしてまた、解散の憂き目を負った中井光学関係者を差し置いて、自分だけが再雇用の恩恵を受けることの後ろ暗い気持ちもあった。その躊躇いの気持ちに吹き払ったのが、土屋隆司だった。

 警察庁公安の特務員、土屋隆司に与えられていた任務とは、ハイパーテロリストたちの監視だった。

 量子コンピュータ開発に対しては、とくにセキュリティについて、重大な懸念が指摘されていた。古典派PCをはるかに凌ぐパフォーマンスを持った量子コンピュータが、一般に実用化された暁には、オンライン上に流通している、あまねく全ての暗号キーやシークレットキーが立ちどころに打ち破られてしまい、世界が大混乱に陥ってしまうからだった。開発の監視は、国家的重要事項だった。当局より命をうけた土屋が、ABトレーニングのアドバンストレーナーとして、光バイオチップの「開拓者」である早坂に近づいたのは当然のことだった。意外だったのは、その最中に、関係機関において事故が発生したことだった。染井の死だった。それによる研究所の閉鎖は、土屋を慌てさせた。しかしその後、早坂の監視プログラムを再編させた当局は、早坂をGC社に引き取らせることを画策した。それに従っての、土屋の行動だった。

「君にしかできないことなんだ。優先順位を自覚してくれ」

 土屋から説得された早坂は、ことの重要性、重大性を思い知り、開発の代役を受け入れることを決意したのだった。


 テラスに立って、潮風に吹かれていた早坂が、後方を振り返った。研究室のサッシをノックする音が背後をあがったからだった。濃い栗色の髪をした女が、ひらいたサッシの間から顔をのぞかせていた。

「キックオフ・ミーティングの時間だわ」

 事務補助のカレン・キャンベルだった。

 GCテクニカルセンターは、米国西海岸の入り江が望める丘陵の上に建てられていた。オフィスの特徴は、巨大なドーム型のオープンスペースを中央にして、周囲に担当研究者たちのラボが配されてあるところだった。その特異な構造の理由は、各研究チームの共同作業を横断的に機能させたいためと、そして巨大ドーム型であるのは、センター全体が没入型ディスプレイの機能を兼ねた「試験場」だからだった。科学計算に特化した超高速化、超集積化が開発課題である集積回路とは、たとえて言えば、電子部品の世界におけるモーターカーだった。巨大ドームとは、その性能を図る「テストコース」だった。

 早坂はホワイトボードが立ち並ぶミーティングスペースに足をむけた。目的の場所では数名のスタッフたちが談笑をしている姿があった。プロジェクトリーダーとして配属となったユニットのスタッフたちだった。

 事務方より紹介を受けた早坂は、円卓の上に身体を乗り出させてスタッフたちと握手を交し合った。礼式の光景が停止したのは、最後に紹介された男の手を握り返した後だった。握った手を離そうと力を緩めたにもかかわらず、相手はむしろ逆に強く握り返してきた。何事かと相手を凝視した。知った顔だった。

「マイクか?」早坂の反応とほぼ同時に、「It's been a long time.」の声が返ってきた。痩躯でシャイなその風情は、染井孝太郎の研究室に所属していたポスドク、マイク・ギャラガーだった。

 ――――

 プロジェクタに映し出されていたのは、生前の染井孝太郎が主導して採取したデータだった。アイマスクを介して得られたデータ収集結果だった。

シートを構成するセルは、被験者から採取した測定値によって埋め尽くされていた。リサーチ目的は、個体差をもつバイオチップの素材、スーパーレイヤの純度に影響する要因の寄与率の分析だった。一個の人体の、様々な身体活動や機能、そして脳内にかかわる想い、機能、表象が、バイオチップとして使用されるレイヤの純度に、どのような影響を及ぼしているのかを、それらにかかわる神経伝達物質の解析によって測定しようというリサーチだった。その膨大な量のデータが面前の画面に映し出されていた。

「純度の寄与率として注目すべきは、三つの要因です」

 マイクが説明をはじめた。ポインターで指し示したセルには、黄色いマーカーが塗られていた。

「monoamine-aggressive gene /モノアミン攻撃性遺伝子、period clock gene /ピリオド時計遺伝子、and rhodopsin light- and dark-neutralizing protein /ロドプシン明暗視タンパク質」

 マイクが画面を切り替えた。チャートに換わって映し出されたのは、DNAの泳動パターンだった。

「純度の寄与率は、これらの遺伝子やタンパク質の構造異常に関係しています」

「構造異常?」

 問いただしたスタッフの一人に、マイクは、

「発現要因の過剰な摂取あるいは中毒性を伴った異常な反復行為等、言うなれば、行為依存症であるような、行き過ぎた行為や行動が要因となって、それらの構造に異常を発生させてしまうことです」と説明した。

 そこで画面は被験者リストに切り替わった。限られた検体だけでは不足の母集団を、さらに拡大したい染井が、独自に収集した一般被験者――「生きた人間」たちのリストだった。氏名の項目に、灰色の網点がある者たちが、寄与率の高い要因、「構造異常」を持つ被験者たちだった。早坂の目が、その灰色を辿っていった。……このところ小康を保っていた発作がふたたびあらわれたのは、その中に、自分の名があることを見つけ出した直後だった。

 それから数時間ものあいだ、記憶を喪失してしまった早坂だった。

 意識が戻ったのは、その日の夜になってからのことだった。覚醒したのは、研究室のテラスに置かれたデッキチェアの上だった。頭上は満天の星空だった。不思議だったのは、それが、意識の喪失で混濁ではないことだった。記憶のない間、自分は自分として、確かに「動いていた」のだ。眼前にあるノートPCのメーラーを見てみれば、その送信ボックス、受信ボックスには、証左となるメールがいくつも確認できる。自ら指示をだし、指示を受けた証左となるメールだった。記憶のないあいだ、自分が何らかの作業をこなしていたことは明白だった。しかしそれらの記憶がなかった。

「疲労だよ、きっと」

 自分に言い聞かせるように言ったことばだった。そうでないと疑う気持ちの方が遥かに強かった。しかしそれでも、自身に生じた異変を否定したかった。頭をふって頭上をあおぎみた。星降るような満天の星空――。不思議を象徴する星々だった。自分は、不思議と対峙し、その解明を職業としている研究者なのだ。何の痛みもない、不定愁訴のようなちっぽけな不思議を解明しようなどとは、自分のプライドが許さない……そう決意することによって、早坂は、自らに生じていた不思議を打ち消そうとした。

(心配するな)

 早坂の中で生じている不思議を想う気持ちは、頭上から降りそそぐきらめきによって洗い流されていった。


 GCテクニカルセンターに早坂進一が籍を移してから半年が経とうとしていた。開発成果の試運転のときが早くも訪れていた。それは、自らが手掛けた、初の光バイオチップ試動のときだった。

 ――――

 高速回転中の球形に映り込むスタッフの表情――。それに歪みや揺れが見られないのは、精緻をつくした「真円」だからだった。GCテクニカルセンターのドーム中央で開始されたのは、光バイオチップの中に立体回路を注入するためのホログラム転写作業試験だった。量産化の成功の鍵をにぎる製造ラインに置かれる装置だった。螺旋状の立体回路図をタブレットに映し出した早坂は、輻射線防御用ゴーグルの装着を、ユニットのスタッフたちに促した。装置の覗き窓からみえる球形は、青白いかがやきを漆黒に浮かび上がらせていた。

「制御ポイントは4つ。コンファームを願います」

 スタッフが装着した黒色のゴーグルは、極超短波の非可視光線を遮るためのものだった。その黒色が、装置の周囲にえも言われぬ緊張感を醸し出している。早坂が、ヘッドセットからのびる小型マイクロフォンを口元に近づけた。

「control point P制御ポイントP、Controlling the light curing range of magnetic distillABes磁化蒸留液の光硬化域の制御。control point Q制御ポイントQ、Exposure time and exposure angle control露光時間と露光角度制御。control point R制御ポイントR、Liquid nitrogen gas injection control液体窒素ガス噴射制御。control point S制御ポイントS、Subject control and input/output informABion dABa control被写体制御と入出力情報データ制御」

 早坂がマイクロフォンにむけてふたたび指令を送った。

「制御ポイントP、2度アップ。ポイントQ、コンマゼロゼロ3ポイントプラス」

「カウントダウン開始」

 タイムキーパー担当の声がヘッドセットをながれでた。

 各制御ポイントの数値がめまぐるしく変化しているのは、装置全体が、地球の磁場の影響にも反応してしまうからだった。早坂進一は「露光」の瞬間まで、微妙なずれの状況をスタッフに送りつづけなければならなかった。「テン、カウントダウン」タイムキーパーの声が流れでた――。露光まで十秒を切った。

 早坂の装着したゴーグルに映りこむ、球形の回転運動は、依然として「真円」を描きつづけていた。思いもよらぬ事態が発生したのは露光直前のことだった。監視していた測定数値が異常を示したのだ。制御ポイントQだった。当惑した早坂が、おもわず装着していたゴーグルを拭い取り、装置のなかに目をのばした。直後だった。バイオチップに向けて、立体回路、ホログラムを注型するための白い光が照射された。

「うっ!」

 白い閃光を裸眼で見せつけられた早坂は、うずくまってまぶたを閉じた。その裏側は、浴びせかけられたストロボように白く焼き付いていた。眉間を指でつまみ、首をふり、白い衝撃を振り払った早坂は、眩し気にまぶたをひらいた。視線を球形にのばした。――成功だった。それは可憐な花影のようだった。球形の中にひらいたそれは、革新の結晶体――魅惑の造形だった。(測定数値の異常は、装置の誤操作?)大きな成功の片隅で、小さな異変を否定した、早坂の心の声だった。

 異変は瞬時の出来事だった。成功を歓迎する気持ちが強いスタッフたちだった。彼等の目に、早坂の身に生じていた異常は見えていなかった。彼等が呆然とした表情で見入っていたのは、装置の中にひらいた「花影」の方だった。

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