14 異変

 深夜――。覚醒した早坂進一は、朦朧とした感覚を振り払おうと眉間をつまんでぶるぶると首をふった。ノートPCの黒い液晶画面には、呆然とした表情の顔が映り込んでいた。垂らした長い前髪が額にひっついている。全身が汗で濡れそぼっていた。

 我に返った早坂進一はデスクに置かれたスマホを手にとった。画面にあらわれた時刻に目をそそぎこむ。午前三時だった。

 気を失ってから数時間、座位のまますごしていた。そうは思えない感覚だった。忽然と意識を失った感覚だった。回転椅子を後方に回し、リビングに目を伸ばした。テーブルの上に置かれたカベルネのボトルが黒いシルエットとなって見えている。ボトルの首に掛けられていたのがアイマスクだった。

 ABトレーニングのアドバンストレーナー、土屋隆司と彼が運営する土屋企画が仕掛けた、総長誕生会で催されたボディビルコンテストに勝利した早坂だった。

その実力が認められ、新生京道会総長のボディガード役に抜擢された早坂は、直後、総長に向けて、銃口を突き付けてきたヒットマンを素手で殴り倒した。総長が、行きつけの喫茶店を出てきたところで勃発した乱闘だった。巧みな政治力を用いて勢力をひろげていた新生京道会に対し、そのことを良しとしない独立独鈷の組が、総長にヒットマンを放ったことによる乱闘だった。しかしいとも簡単に返り討ちにした早坂だった。もちろん、そのすべては、早坂を研究試料に仕上げたい土屋が仕掛けたゲームの内だった。

 早坂に対して、総本部の幹部の座を与えることで、功績に応えようとした総長だったのだが、土屋がそれを丁重に断った。彼の本当の正体とは、土屋企画を隠れ蓑とする、警察庁警備局公安の特務員、名だたる闇の諜報部員だった。国内にある反社会的組織を操ることなど、容易い相手だった。

 今や、非日常の中で、極限のスピリッツを育成することを目的としたABトレーニングの役割も終えようとしていた。

 今の早坂進一は、脳内戦士の「試作機」としての資格が十二分に備わっていた。二年に及んだダビデプログラムは、翌週に迫っていた修了セッションを最後に終えようとしていた。昨夜に自宅でひらいたパーティは、ABトレーニングを、陰になり日向になって支えてきてくれたスタッフ達への、細やかな感謝の気持ちだった。発作が起きたのはそのときだった。それは、最近になって自覚しはじめた「意識の喪失」だった。

 失った意識を呼び覚まそうと眉間に皺をよせた。喪失前の情景が蘇ってきた。

 ――早坂は、ワイングラスを手にリビングに身を移した。いつものルーティンを行おうと思ってのことだった。ソファに腰をおろした早坂は、ワイングラスをテーブルの上に置き、その横に置かれてあったアタッシュケースを膝の上に移動させた。中からアイマスクを取り出し、ケースから伸びたケーブルをスマホに接続した。そしてアイマスクを両眼に覆ったのだ。

「ご苦労さま」

 声の主を確認しようと、マスクの片隅をめくり上げた。バルコニーの賑わいの中にいた志摩みつるが、ワインボトルを手に立っていた。面前におかれたグラスに赤い渦紋がたった。志摩へ、謝意の目顔を送った早坂は、スマホ画面に目をふった。眼窩を測定する数値が動いていた。……それから今までの記憶がこつぜんと抜け落ちていた。

 失った時間を蘇らせようと、ふたたび眉間に力をいれた。しかし脳裏に映し出される記憶は、丸いグラスの中にそそぎこまれた、カベルネの赤黒い渦紋を記憶したところで途切れてしまうのだ。

(眠りこんでしまっていたのだろうか?)

 しかしその自覚はなかった。ふと思い出した顔になった早坂が、テーブルに置かれたリモコンを手にとってホームセキュリティを起動させた。ヴィデオクリップが立ち上がり、リビングに設置されたプラズマ・ディスプレイに監視カメラが記憶していた動画が映し出された。――夕暮れのバルコニーには、気心の知れたスタッフたちが、ひとときを楽しんでいる光景があった。自分の姿も映り込んでいる。映像の中の自分は、それからしばらくの間、スタッフと談笑をつづけていた。――そのときの記憶が早坂にはなかった。その後の記憶もなかった。早送りさせた映像には、パーティを終えて、帰り支度をはじめたスタッフ達がいた。彼らを見送る自分の姿も映し出されている。ソファの背に身を沈ませた。……それらの記憶がないのだ。

 早坂はバルコニーに目を伸ばし、暗闇に順応させようとまぶたを瞬かせた。夜景がひろがっている。ゆっくりと立ち上がりバルコニーに歩み出た。瞳をひろがるような星空だった。

 ――――

 ジムエリア内では、早坂進一に対する修了セッションが行われていた。

「いったい全体、どうしちゃったのよ。最後の最後になって」

 張りつめた空気の中を、志摩みつるの叱咤のことばが飛んだ。セッションの第2ゲームが終了した直後だった。ダビデスーツの中に立つ早坂進一は焦燥した顔付きだった。目も虚ろだった。ゲームのスタートは、特殊部隊が、敵のアジトに突入しようとするシチュエーションだった。その先遣役を志願した早坂は、マシンガンを抱え持って、眼前の迷路をほふくで前進しはじめた。そして、最初の交叉ポイントの手前で動きを止めた早坂は、左右の行く手を赤外線で照らし出した。左通路突き当りの壁面に人の気配を察知した早坂は、慎重な動きになって標的が確認されたことを後方の隊員に伝えた。それからさらに窮屈な迷路をほふくで進行し、目的の扉にたどり着いた。

 片膝を立てて臨戦態勢をとった早坂は、ゆっくりとマシンガンを構え直し、扉の物陰に身を寄せた。そして、援護の隊員が一方の物陰に身を寄せたところで、突入の手信号を送った。しかし、特殊部隊が音もなく踏み込んだ部屋の中に人影はなかった。

 突入を果たした隊員たちは、標的が何処から逃走を図ったのだろうかと周囲に探査の眼をめぐらせている。金属の塊らしきものが投げ込まれる音が立った。転がる手りゅう弾は早坂の足元で停止した。室内の天窓を黒い影が過った。眼下の光景を見届けた者の黒い影だった。「しまった」――つぶやいた早坂は扉に向かって駆け出した。猛烈な爆風が襲い掛かってきた。部屋から転げ出た早坂は、通路でうつ伏せになって衝撃から身を護った。破壊された瓦礫が全身に降り落ちてくる。間もなく経って、立ち込めていた土煙が引き視界がひらけてきた。かろうじて脱出を果たせた早坂だったのだが、しかし彼につづいていた隊員たちのすがたは、視界の中になかった。

「――とるべき行動がどういうものであったのか、君、分かっているよね?」

 土屋隆司が怒りを滲ませた顔つきで苦言を呈した。小さくうなずいた早坂だった。セッションにて、とるべきだったのは、部隊の被害を最小に留める決断をし、自らが盾となって、足元にある手りゅう弾に覆いかぶさることだった。その対応ができなかった。一瞬の判断の迷いがミスを呼び込んだのだ。普段であれば、どうということのない局面だった。にもかかわらず対応できなかった。

 セッションは、三回のゲームの内に2ゲームを勝ちとらなければならなかった。ゲームに臨むまえの早坂は、取りこぼすことなど予想もしていなかった。

 しかしもう失敗は許されない。二年もの間、積み上げてきたものの行方が、次回のゲームによって決定する状況に追い込まれていた。早坂の脳裏を、あのジンクスが思い出された。

 目的の頂点に届こうかというその寸前で、何故なのか不思議と標的に逃げられてしまう、あのジンクスだった。そこで早坂は首を横にふってジンクスを振り払った。……換わって脳裏を浮かび上がったのは、ワインのボトルだった。奇跡のワイン「ノッツェ・ディ・カーナ」だった。ジンクスを破りたいため、人知れずに手に入れた幻のワインだった。頂点に立てたその暁に、開栓を決めたものだった。修了セッションを前にして、自らのインセンティブとして手にいれたものだった。

再度、首をふって自らを奮い立たせた。HMDに現れ出てきたのは、白く煌々とかがやく四角いリングだった。修了セッションの最後は、ABトレーニングの最初の舞台と同じだった。

 リングの周囲では、突き上げた拳を振り立てながら、ぐれた若者たちが、挑発のことばを投げつけていた。早坂は、リングの中央に立って対戦相手の登場を待った。

 場内をぐるぐると探照していたスポットライトが、一か所で停止した。黒覆面の対戦相手が丸い光の中に立っていた。直後、早坂の顔色が変わった。あの苦杯を舐めさせられた相手と同じ容貌だったのだ。見間違いかと凝視した。そうでないことを確信させたのは、リングに上がってきた相手が発したことばだった。

「前回は君、命拾いしたよね」

 思わず身構えた早坂だった。

 ――リング上の二人に対して、カエストスが投げ込まれた。早坂は、相手を警戒する目でそれを手にとった。脳裏に、ロンバルディアンの倫理を浮かび上がらせた――勝利こそ絶対。今回は手緩い対応を拒絶した行為だった。対して、対戦者は前回同様、それをリング外に向けて投げ捨てた。早坂は相手の動きを、カエストスのベルトを手に巻き付けながらねめつけた。失敗は許されない。早坂は自らに言い聞かせた 

 ――勝利こそ絶対。

 相手がアウトボクサーであって、対戦を長引かせてはいけないことは前回の経験から知っていた早坂だった。最初の一撃に、急襲を選んだ早坂は、リングのコーナーで背を向けていた相手に音もなく走り寄り、振りかぶった右のカエストスを、その後頭部にむけて打ち込んだ。グローブに仕組まれた鉄鋲のめり込む感触が拳から伝わってくる。じっくりとその手ごたえを感じつつ、拳を引き寄せた早坂は、打ち込んだ先に目をやった。「えっ?」早坂が小さく驚きの声を発した。眼前に、突き破られたコーナーマットがあったからだった。対戦者は寸前で身をかわしていたのだ。背後に気配を感じて振り返った。視界の下方がぐにゃりとゆがんだ。対戦者がはなった右アッパーカットが早坂の顎を打ち抜いたのだ。衝撃で身体が宙を舞い、マットを支える鉄柱に打ち付けられた。アウトボクサーとは思えぬ、早坂の潜在能力をしのぐ猛烈な力積だった。リング外に弾き飛ばされた早坂は、観客からの罵声を浴びながらも、立てた片膝に両手をのせてゆっくりと立ち上がった。再び臨戦の構えをとった。見上げた視界の中を、冷笑を浮かべながら手招きする対戦者――。その頭上を、リングライトが煌々と照り輝いている。

 先制パンチで優勢に立った対戦者は、得意のステップワークをつかって、早坂の周りを軽やかに回り始めた。そのステップに翻弄されるようにして、右、左、とぎこちなく動く早坂は、機械仕掛けの立ち人形のようだった。対して、時折放たれる対戦者の挑発のジャブは、的確に早坂の顔面を捉えていた。時間はかけられない。接近戦に持ち込みたい早坂は、間を図りながら、ときおり突進を図るのだが――しかし悉く、身をかわされていた。

 挑発のジャブは、その一打一打に威力はないのだが、蓄積されるダメージは深刻なのだ。このままのペースがつづくならば、最悪の事態に陥りかねない。早坂は、脳裏にロンバルディアンの倫理の教えを浮かび上がらせた。勝つ手段を選んではならないのだ。勝利こそが絶対――。早坂進一は、何度もみずからにそう言い聞かせた。

「何してるのよ。攻めつづけて!」

 志摩みつるの声が耳奥で聞こえた。そのときふと、体内を込み上げてくるものがあった。同時に、眼窩が充血するのを感じた。瞳に焔が立つ感覚だった。不思議な感情のあらわれだった。今までに感じたことのない感情だった。快感でも不快でもない感情だった。喜びでも恐怖でもない感情だった。「何?」と、つぶやいた口元の口角が、無意識のうちに吊り上がってゆく。眉と目尻とが、同様に、鋭角に引きあげられていった。気づけば、早坂の表情は、眼球を不気味に剥き出させた恐ろしいような形相になっていた。……憎悪という感情のあらわれだった。

 早坂は、手に巻かれたカエストスを解き放ち、解かれたベルトの先端をもって、投擲器のようにぐるぐると振り回しはじめた。その先端を鉄鋲がきらきら光っている。武器にモーメントを生じさせて、数十倍の威力を発揮させようという手段だった。豹変した早坂に対し、場内は歓喜で応えた。リングの中央で、蟹股に踏ん張った早坂の大腿二頭筋が、リングライトを浴びて、彫刻のような存在感となって、黒々と浮き上がって見えている。その立ち姿は、憎悪の形相と相俟って、運慶が彫り上げた仁王像のようだった。

 相手の変貌に、一瞬ひるんだ顔になった対戦者だった。しかしすぐに間合いをとって、また軽やかなステップワークを再開させた。場内は、豹変した早坂を急かす歓声に包み込まれていた。リング中央に立つ早坂が、巨大な上腕二頭筋を光らせながら、振り回すものの先端を、対戦者に向けて打ち下ろした。よろけながらも、寸前のところで一撃をかわした対戦者は、バックステップで態勢を立て直すと、振り下ろした直後の隙を突いて、強烈なボディブローを浴びせかけた。しかし、強力な腹筋力で跳ね返した早坂に、ダメージはなかった。マットにめり込ませた投擲器の先端を引きずり出した早坂は、不気味に片頬を引き上げて、ふたたび獲物を捕らえようという眼になった。燃えひろがる憎悪は、自身の制御を離れて動き出したかのようだった。じりじりと後退りする相手は、気づけばコーナーに追い込まれていた。早坂の憎悪が、追い込んだ獲物に飛びかかろうと蓄勢を溜めた。そのときだった。轟音とともに猛烈な振動がリング上を立ち上り、早坂の身体を大きく上下にバウンドさせたのだ。巨大な太鼓が打ち鳴らされて、周囲の空気を激しく揺らせたような衝撃だった。リングを囃し立てていた者たちが、その衝撃に見舞われて押し黙った。

 見ひらかれていた早坂の赤い瞳が、電気を切らしたロボットのようにぱたりと閉じられた。全身がぶるぶると打ち震えだしていた。真一文字に結ばれていた口の口角が引きあがり、真っ白い歯がむき出しになった。食いしばった口元から怒声が漏れ聞こえた。

「殺すぞ」――その声色は、地底深くから立ち上ってきたような、恐怖のバリトンだった。憎悪に乗っ取られた身体が、制御を失って暴走をはじめたのだ。

 五体を覆う、鍛え上げられた早坂の筋肉たちが、それぞれ独立した生き物のように蠢きだした。胸筋に浮き上がった、血管の網目模様が、早坂の身体を締め上げるかのように、収縮をはじめた。締め上げられている苦痛からなのか、憎悪の表情が苦悶の顔にとってかわった。場内から悲鳴が立ち上った。早坂の五体が、ばらばらに動き出したのだ。巨大な操り人形を、滑稽に動かしているかのような異様な光景だった。その不気味さに、観客が悲鳴を上げたのだ。異様だったのは、踊りだけではなかった。早坂の表情が、全身の動きに呼応するかのように回りはじめた。苦悶と憎悪、歓喜と平静、悲しみと興奮――目まぐるしく変化する、それら情動の顔色たちは、ぐるぐると回転するスロットマシンのようだった。

 それら異様な動きが、減衰の動きに転じたのは、コーナーに佇んでいた対戦者が、ビデオ映像のゴーストのように、忽然と消えた直後だった。

 脈絡なく、ばらばらに動いていた早坂の全身が、徐々に動きを弱めていった。気づけば、早坂の情動の顔色は、歓喜の表情で停止していた。

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