11 中井光学

 二つの顔貌が似ているか否かを比較する際、最も有効な指標の一つは、輪郭だった。

 その点から照らしてみれば、前頭部が共に大きく、その全体が逆三角形であるところから、ほぼ似ていると判定できた。二番目に有効な判定指標は、眼窩の大きさと形状だった。その点から照らしてみても、大きさ、傾き具合等、ほぼ合致していた。その他の指標である、鼻と口、あるいは顎については、それが相似であるかどうかの判定は留保せざるを得なかった。しかし、その二つが、同一人物であることを断定できる決定的要因があった。……眼の数だった。両者はともに隻眼だった。左眼がなかった。

 永井の手にある複写資料には、本人の写真と、3DCGで作成された顔貌再現による復顔像とが二つ並べて印刷されてあった。はたして永井薫は、刑事の期待通り、両者を「似ている」と判定したのだった。

刑事はつづけて一枚のレポートを差し向けてきた。

「これが、当方で調査した早坂進一のプロフィールです」

 差し出されたものを手にとった。《被疑者ノート》とタイトルされてあった。


 早坂進一(はやさか・しんいち)。1988年4月3日生まれ。現三十六歳。2011年、東京大学情報科学工学部物理工学科を卒業後、同大学大学院情報科学工学系研究科、博士前期課程に進学。2016年三月、博士後期課程単位取得退学。翌2017年三月博士号取得(情報科学工学)。同年四月ポスドクとして同大学院峯岸研究室付。翌2018年四月、一般財団法人生命科学研究所が主催する研究ユニットに入所。二年後の2020三月、当該研究機関解散にともないGC社テクニカルセンターに転籍。翌年十二月、AR装置を用いたオンライン殺人を主導した疑いで、国際手配が伝達され、警察庁指定重要全国指名手配被疑者となる。※2024年5月現在、行方不明中。


 目をあげた永井薫は、沈鬱な面持ちだった。諦観した顔付きにも見えた。

「事件のことは知っていました」

 ゆっくりと立ち上がり窓辺に歩み寄った。主宰するスタジオの応接室だった。林立する高層ビル群の壁面が、夕日を浴びてオレンジ色に照りかがやいていた。追うようにして永井の隣に歩みよってきた牛島次郎は、眼下にひろがる新宿御苑の方に目をおとした。今春の未明に起きた、RV車激突事故現場にほど近い場所だった。

 永井と早坂との出会いのきっかけは、早坂が研究員として所属していた研究所を、永井スタジオのクライアント、中井光学が運営していたことだった。同社の商品カタログ、プロモーション用写真撮影を任されていたのだ。

初めての出会いは、統合報告書、アニュアルレポート用の撮影のときだった。企画されたコンテンツの中に、中井光学の研究紹介があり、その内の一つに、早坂らが取り組んでいた生命科学研究事例の紹介があったのだ。初対面は、その取材のときだった。

 早坂の鍛え上げられた肉体美に一目で魅了された永井薫は、以来、仕事を離れて、被写体としての早坂を追うことになった。その後、当時永井が関心を持ち始めていた3Dホログラム作成技術について、早坂が相談相手になり、永井と早坂とは、より親しい関係を築くことになった。その関係を断ち切ったのが、早坂が関係したとされる殺人事件だった。二年少し前のことだった。

「オンラインリモート撲殺事件」の見出しが、世間を騒がせた事件だった。海外に住む女性事務員がそれによって殺害されたのだ。

 事件直後、捜査関係者から受けた聞き込みは、一度や二度ではなかった。しかし事情を知らない永井だった。色鮮やかにあった早坂の存在は、瞬く間に掠れていった。

 刑事の登場は、忘れようとしていたものが、再び目の前に湧き顕れてきた感覚だった。

「早坂進一に親しい関係の女性がいたことはご存じですか?」

 刑事の問いだった。変死体の身元が、意外にも重要指名手配犯であったことから、捜査の目的は、事件を引き起こした被疑者の動機解明に移っていた。そのための聞き込みは、被疑者である早坂進一を知る関係者に対象がひろがっていたのだ。

 質問をうけた永井の脳裏には、当時に早坂と同じ研究施設に所属し、常時行動をともにしていた女の名前が浮かんでいた。

「志摩みつるさんのことでしょうか?」

 質問を質問で返した永井は、ふたたび被疑者ノートに目をおとした。

早坂が永井の前から姿を消したのは、事件を引き起こす前のことだった。時期を同じくして、志摩みつるが姿を消していた。

 目をあげた永井は、視線を虚空にただよわせた。過去に想いを巡らせようとする顔付きだった。―― その後、志摩みつるから突然の連絡を受けたのは半年前だった。「独立して写真スタジオを持ちたい。開設に協力してくれ」という依頼だった。永井は言われるがまま、システム設備などの助言をおこなった。しかし直後、ふたたび連絡が途絶えたのだ。早坂のこと、行方をくらませていたことの事情、事件との関連――聞き出したいことは山ほどあった。にも関わらず、突然の彼女の出現に、変に気が動転していたのだ。しっかりと彼女を受け止めることができていなかった。

 そのことの後ろめたさに、紹介したシステム屋から情報を得、スタジオの所在を突き止めたのはつい最近のことだった。

 ――スタジオは、グーグルマップだけでは辿り着けない、入り組んだ路地の突き当たりにあった。

 雨中のなかの訪問だった。所在の記されてあったメモ書きは濡れそぼっていた。電柱にある地番と、メモ書きにある住所とが永井薫の目の中で一致した場所は、護岸をコンクリートによって固められた都市河川沿いだった。眼前には中層ビルが建っていた。古びた壁面のひび割れたモルタルが、物悲しい建物だった。……正面の入口脇にある雨ざらしの郵便受け全体は、無秩序に突き刺されたチラシに覆われていた。スタジオの表札は、濡れそぼったその障害物に隠れてあった。

 志摩みつるの親族をよそおい家主に連絡をとっていた永井は、待ち合わせていた家主とともにスタジオのある地階へと降りていった。

「……消息なんて知りませんよ。とつぜんに解約の話を受けたんだもの。なにせ、急な話だったから」

 前をゆく女家主が面倒くさそうに言った。階段を下りた正面に赤いドアがあった。家主が鍵穴にキーを差し込み、おもむろにドアを押し開いた。玄関から中をのぞきこんだ。室内のところどころには放置されたものが雑然とあった。慌ただしく去っていった様子を彷彿とさせる光景だった。

「違約金を多くもらった見返りに、原状回復を斟酌してあげたのよ。こんな建物の地階だもの、なかなか借り手はいなくってね。私、のんびりしたもんよね。掃除はこれからだわ」

 家主は他人ごとのように言った後、「それにしても、この羽虫たち、目障り」と、言って顔前を両手で払った。周囲を浮塵子が舞っていた。

 永井はスタジオの角にあったカウンターに目をのばした。背後のバックバーには、グラスやボトル類が雑然とあった。急きょ退去していったことを物語る光景だった。部屋の中央に立って周囲を見まわしてみた。スタジオ全体を覆う白いクロス張りの壁面のところどころには露光されたような黒い痕跡があった。

「そうそう、見せたいものがあるのよ」

 ユニットバスの前に立つ家主が永井を呼び寄せた。

「ここを現像用の暗室とかいうものに使用していたらしいんだけど」

 家主が照明と換気扇のスイッチを入れた。ドアの下部にあいた空気孔から換気扇の回転音が漏れきこえてきた。おもむろにドアを引き開けた家主は、そのドア陰に身をかくすようにして中に目をのばした。

「暗室だからといって、何もこんなものを張り付けておくこともないと思うのよねぇ」

 内部は赤錆色の鉄板でおおわれていた。家主が拳で叩いてみせた。鉄さびの臭いがただよう空間だった。

「ほら、見てちょうだいよ。あれ」

 身を乗り出させバスタブを指さした。永井が家主の肩ごしから中をのぞき込む。バスタブの縁が、赤茶色の被膜に覆われているのが見えた。内部に足を踏み入れ、バスタブの前にしゃがみこんだ。被膜を指先でつまみ剥がしとる。欠片を翳してみた。昆虫の翅脈のような痕が刻まれていた。立ち上がってバスタブ内部に目をひろげてみた。同様の赤茶色の被膜に覆われていた。永井の目が困惑の色に染まった。被膜は、直径数センチほどの丸い干渉縞に覆われていたのだ。

 感づいた顔になった。暗室として利用していたユニットバスなのだ。何かを露光して記録した痕跡かもしれない。レーザー光が頭にうかんだ。直感した永井は、剥がしとった被膜を持ち帰るのに、適当な入れ物はないかと周囲をみまわしてみた。カウンターのバックバーに置かれてあったグラスを思い出した。

――カウンター越しに身を乗り出させた永井が、ショットグラスに手を伸ばそうとしたとき、肘がトレイの角に触れ、上に置かれてあったアイスペールが滑り出した。永井が咄嗟に押さえこんだ、そのとき、アイスペールの蓋がずれ内部が覗けてみえた。ごろんと動く球形があった。鈍色にひかる結晶体だった。

 手にとり上方に翳してみた、以前に、同様のものを何処かでみかけた気がした。思いだした。量子コンピュータについての話題で、中井光学を取材した際、先方に見せられた試作品だった。

 永井スタジオのかつてのクライアント――。準大手光学機器メーカーの中井光学が、忽然と姿を消したのは、早坂が消息を絶った時期と重なっていた。筆頭株主だった外資企業の暗躍によって解散させられた。そう聞かされていた。クライアントを失った永井にとっては痛恨の出来事だった。

手にある鈍色の球形をみつめていた永井は、騒動の一部始終を知る男を訪ねてみることを思い立った。

 ――――

 色褪せたスチール製のキャビネットの上に、取り次ぎ用の内線電話が孤独に置かれた受付だった。受話器を手に、垢じみた用紙に印刷された内線番号を指先で追い、見つけ出した部署にある番号を押しこんだ。

「はい。技術課ですが?」受話器から、低くぞんざいな声色が返ってきた。面会相手を告げると、その名を呼ぶこえが受話器の向こう側で聞こえた。先方はつづけて、「今から行きます」と発して、にべなく通話を切った。

 受付の周囲に積まれた段ボールの山に目をふった。香港、シンガポール、そしてマレーシアなどのアジア各国から送られてきたものだった。電子部品だった。耳を澄ますと頭上の二階フロアから工作機械の音が漏れ聞こえてきた。事務所が、組み立て工場を兼ねていることは明らかだった。

「久しぶりだね」

 ふりかえって受付の奥にある階段に目をのばした。踊り場から、鉄骨の鴨居に手をかけて階下を覗き見る男がいた。中井光学の元開発技術センター長、関口由紀夫だった。関口は首に垂らしたタオルの端で額をぬぐいながら、接客コーナーに永井を誘った。申し訳程度のスペースに設けてある一角だった。

「こんなところで悪いね。どうしても抜け出せなくてね」  

 関口は時間がとれないみずからの境遇を恐縮して言った。

 手は油にまみれていた。以前は所長という立場の人物であったのに、今では職工の役目を兼務しなければならない男の日常が想像できた。中井光学が解散となった後、外資の日本支社に転籍となった一部の技術職員以外は、皆解雇され元社員たちだった。玩具向けの電子装置を製造販売するこの事務所の部長職としてはたらき口を得た元所長は、幸運の部類だった。

「申し訳ないが、手短に願おうか」

 関口は腕時計を一瞥して言った。永井は懐にあったものを机上に置いた。ハンカチーフにくるまれてあった。慎重な手つきになって四角を四方にひらいた。包まれてあったのは、鈍色にひかる結晶体だった。関口が身を乗り出して覗き込む。それは複雑な光をはなっていた。その表面は、鉛色にひかる金属物のような輝きなのだが、内部を凝視して見ると、薄く透き通って見えるのだ。微細な氷裂のようなものに覆われた内部だった。関口が苦い表情に変わった。所在なげに胸ポケットからセブンスターを手にとり一本をはじきだした関口は、火を点しながら訊いた。

「これを、何処で?」

 志摩みつるのスタジオで手に入れたことを打ち明けた永井は、結晶体の素性を問いただした。

「光バイオチップだよ」

 応えた関口は吸い込んだ紫煙にむせて咳き込んだ。その咳き込む息をととのえてからつづけた。

「光学系が本業だった中井光学は、量子コンピュータ向けの光チップの開発も手がけていた」

「バイオチップというのは?」

 永井は、関口が咳き込む直前に口にしたことばを問い質した。

「三年ほど前の話だが、当時量子コンピュータに使用される量子ゲート用の素子は、シリコーン型半導体に換わる新世代型の開発に多くの研究機関がしのぎを削っていた。実際に数多くの素材が提案されていた」

「バイオチップというのは、その提案の内の一つだった?」

 関口は首肯して、「バクテリア性の有機フォトニック結晶体」ということばを発した。

「君も知っての通り、中井光学は準大手でありながら、独創的な技術力を伝統としていたからね。中井マニアが懐かしいよ」

 言ってから遠い目をした関口は、しかしすぐにひんやりとした表情に変わった。

「それ故に、大きな波にさらわれてしまったんだな」

 自嘲のことばだった。煙草を揉み消す関口の苦笑いは、悲しげにみえた。彼の脳裏を、そのときに演じられた解散劇が浮かび上がっているのだろう。

「すべては、早坂のマッチポンプがしでかしたのさ」

「どういうことでしょうか?」

「光バイオチップの元々は、早坂進一が開発したものだった」

意外な話だった。もっとも、中井光学付属の生命科学研究所での早坂は、生命機能科学についての研究員であったこと以外、詳しいことは聞かされていなかった。

「きっかけは、開発最中に起きた、不慮の事故だった」

「……?」

「事故の詳細については、我々も知らされていないのだが、その事故で、共同研究者が一人死亡している」

「裏付けはあるんでしょうか?」

「……実際、死亡した研究員の訃報が、学会誌に掲載されていた」

 関口の瞳には、憎悪の色が滲んでいた。

「その事故がきっかけとなって、研究所を管轄する中井光学は、世論から非難の矢面に立たされた。中井光学を事実上統治していた外資が、それに嫌気がさした」

 関口がそこで、右手を首で斬る仕草をした。

「早坂は、それが原因で姿を消した?」

 永井の指摘に、関口は「馬鹿な」と吐き捨てて、永井を睨みつけた。

「部外者からみれば、表向きにはそう見えるんだろうな」

「違うんですか?」

「当該外資企業の、米国本社に密かに引き取られたんだよ。バイオチップの開発を進めてゆくのになくてはならない人材だったんだから」

 永井はそこで初めて、早坂が失踪したことの真相を知らされた。

「早坂は、しかしその後、前代未聞の事件を引き起こした」

 それが、世間を震撼させた「オンラインリモート撲殺事件」であることは、永井も知っていた。

 撲殺の一部始終は、動画になってオンラインで流された。しかも「実況映像」となって……。早坂が鬼の形相になって、一般女性事務員を撲殺するシーン――、それが、公開処刑のごとく、実況映像として流されたことは、世間を恐怖のどん底に突き落とした。

 早坂進一と志摩みつるが、本当に失踪したのは、その直後のことだった。

「我々にとっての彼は、希代の極悪人、――疫病神以外の何物でもない」

 面会の最後に吐き捨てた関口のことばだった。

 ――――

 眼下にのぞめる新宿御苑の新緑に、高層ビルの影がおちていた。

「ご協力、ありがとうございました」

 応接室を出ようとする牛島次郎の手にあるジップロックの中には、ハンカチに包まれた「光バイオチップ」の球形が隠されてあった。

 事件の物証として、永井から提出させたものだった。

 牛島は、見落としたものはないかと室内を見回した。その探る視線が停止したのは、掛け時計を横切ったときだった。時計の背後を、淡い灰色の痕跡があったのだ。何かが焼き付けられたような痕だった。

 歩み寄って凝視した。おぼろげに見えていたものが、明瞭な輪郭をあらわした。牛島がひらめいた顔付きになった。その脳裏を早坂の変死体が浮かび上がっていた。四肢五体が、奇妙に不揃いの「形状」だった。

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