10 志摩みつる

 神田川の支流、桜川は、林立する中層ビルの間をながれるコンクリートの都市河川だった。雨雲が似合うような川だった。だから、春のこの時期、遊歩道に連なる桜並木の満開は、より一層華やかに見えた。

「ほらごらんなさい。黒々とした幹だこと」

 灰色の川面に浮かぶ白い花びらを瞳に映していたとき、老女のこえが耳にふれ、秋月かおりはふと目を上げた。

老女は、橋の欄干を前にして立つ幼女を、後方からささえるようにして、一際大きな桜を指さしていた。

 咲き乱れる白い群れの中を、見え隠れしてめぐるたくましい幹たちは、たしかに黒々と見えた。花の白さよりも幹の黒さをいう老女の視点に、秋月はおもわず笑みを放った。

 立ちならぶ中層ビルのむこう側に目をなげると、小高い陵がのぞめた。満開の斜面を紅白の提灯が揺れている。中屋敷公園のある陵だった。秋月は誘われるようにして足をむけた。頂へとつづく丸太を模した石段は、白い花びらに埋まっていた。――頂の広場では、敷きつめられた青いシートの上で宴が繰りひろげられていた。視界のひらけた場所を見つけだした秋月は、シートの端を避ける足取りで歩み寄っていった。

 眼下に、白い花弁を、鹿子模様にしてながれるコンクリートの川が望める位置だった。秋月は、柵から身を乗り出した。春、南風の強くなる昼時、一陣の風に吹かれ、斜面を白色の花吹雪が舞い上がり、宙を塊となる。そして、蝶の一群のようなその花吹雪は、灰色の渓谷に舞い落ち、またてんてんと、鹿子模様となって流れて去ってゆく。白い花弁の連鎖――。秋月は左手のほうに目をふった。川沿いに連なる中層ビルの群れを越して、一際高く建つ三つの棟が見えていた。放射線科医としてつとめる東京メディカル大学付属医療センターだった。中央棟の上部にある時計が、昼の終わりを指そうとしていた。秋月はおもむろに振り返り、来た道に足を向けた。つづら折りの石段をなだらかにくだる。ポケットに両手を突き入れたままの秋月は、陵の中腹で足を止めた。脇には苔むす小さな石積があった。その中央に、周囲に茂るカラスムギに隠れるようにして、ひゅうひゅうと風を鳴らす洞穴があった。その昔、公園の名に由来する中屋敷内にあった上水路跡だった。秋月はしゃがみ込んで中をのぞき込んだ。

 大人がほふくしてようやく入り込める程度の大きさだった。秋月は、この洞穴が鳴らす音が好きだった。じっと耳を澄ませていると不思議な音が漏れ聞こえてくるのだ。……それは、氷裂が響き合う金属音のようでもあり、風鈴の音のようでもあった。おそらくは、あのコンクリートの川から立ち上ってくるせせらぎが、石積みの洞穴内部でひびき合って干渉し合っている音なのだろう。

 頭上をあおぎみた。黒い洞穴に馴れた目が眩さに狭まった。明るさに順応させようと眉間を指でつまんだ。その直後のことだった。体当たりしてくるものがあった。カラスムギを押し倒しながら石積みの脇に倒れ込んだ。

「ご、ごめんなさい!」焦燥の声色が立ち上った。

 はあはあと肩を上下させながら、女が立っていた。足元に三脚が落ちている。出会い頭に起きたことに、女はあわててしゃがみこんだ。荒い息を持続させながら肩にかけたショルダーバッグのファスナーを開いた女は、中から赤いポーチを取り出した。ファーストエイド・キットだった。秋月は、「私は大丈夫よ。それよりあなたのほうこそ?」と気丈に応えた。開かれたショルダーバッグの口から黒色の匡体が垣間見えた。カメラらしかった。秋月はゆっくりと上体を起こすと、白衣についた桜の花びらを手ではらいながら訊いた。

「あなた、カメラマンさん?」

 言った後、間違いに気づいて言い直そうとした。しかし言い直すべきことばが浮かんでこなかった。女は、「それほどのものではありません。カメラ女子です」と応えた。ジーンズにTシャツ、そしてショルダーバッグという出で立ちの茶色のショートヘアは、恐縮した声色で言った。

「桜吹雪を撮ろうと、つい前も見ずに駆け上がってしまって」

 秋月は頂きでみた、白い花弁の連鎖のことを思い浮かべた。

「今ならまだ間に合うはずよ」

 脇に投げ置かれてあった三脚を手にとった秋月は、それを女に差し向けた。――彼女の名を知ったのは、その日の夕刻だった。

 勤務を終えた秋月は、いつものように川沿いの遊歩道を最寄りの駅に向かっていた。保育所に預けている愛息のことを気にかけた急いた足取りだった。前方には、橙色の街路灯が遊歩道伝いにつづいている。その連なりのなかに青い光の街灯が一本立っていた。殺虫灯だった。まだ春だからか、集う虫も少なかった。そのことがむしろ恨めしいのは、周囲を舞う白い花びらが蛾の群れに見えてしまうことだった。秋月は目をそらせた。そのとき、殺虫灯よりもさらに強い閃光が、視界の真ん中にあがった。光の発生源に目をふった。一つ下流に架かる橋がおぼろげにあった。じっと凝視した。視界の中に背を伸び上げて手を振る女がいた。昼間にあったカメラ女子だった。秋月は笑みをひらめかせていた。女は秋月の反応を見とどけてから、足元に置かれたショルダーバックを背に担ぎあげ、駆け寄ってきた。

「いままで撮影だったの?」

「ええ。面白いカットがたくさん撮れて、いつの間にかこんな時刻に……」女は首にかけてあったカメラを手にすると、レンズとフードとを取り外してショルダーバッグの中に押し込んだ。

「お昼のときは失礼しました」

 直立した姿勢になって謝罪のことばを向けてきた。視線が重なり合った。秋月が笑みを返した。カメラ女子は、ほっと安堵した顔だった。ショートヘアをかきあげて言った。

「私、志摩みつるといいます」

 秋月はじっと相手を凝視した。初対面なのに、しかも出会いがしらに出会ったような仲なのに、もうみずからの素性を明かそうとしている。その意図をさぐろうとする眼だった。志摩は、何かを問い質したそうな目顔だった。

「もしかしたら、私に何か?」

 数秒の沈黙がながれた。気持ち負けした顔になって、秋月が口をひらいた。

「秋月かおり。そこの放射線科に勤めているわ」

 目顔を医療センターに振り向けた。ビル塔屋に建つ《東京メディカル大学医療センター》の文字が、夕刻を背景にして白く浮き上がって見えている。

「レントゲンとかですか?」

 素朴な問いに秋月は、

「それよく聞かれるんだけど、放射線科はね、透視読影の診断以外にも治療もおこなっているのよ。がん組織などへの放射線治療なんかもうちの仕事」と答えた。

「知りませんでした」

 また無言になった志摩だった。こころにあることを口にしたいのに、それがもどかしくてできない、そんな顔だった。

「やっぱり何かある、そんな顔よね」

 もう見抜かれている。そのことが、志摩に妙な安堵感をいだかせた。

「今日のお仕事は終りでしょ? お昼のお詫びにお家まで送らせてください」

 立ち話で聞き出せることではなかった。志摩は、遊歩道沿いの車道に目をふった。視線の先のコインパークには、ブリテングリーンに塗られたワゴン車が停まっていた。

 ――車が動きだした。道路に降り積もっていた白い花びらが、走り出した車の後輪にまきあげられ、渦紋を描いている。秋月は運転席に目をふった。アクセルとブレーキとを、左右両足で踏み分けていた。ハンドルと身体との間合いに、テストドライバーであるかのような、無駄のない運転姿勢を感じさせた。その通りの巧みなハンドル捌きだった。うす暗いいくつもの裏通りを、右へ左へとつづら折りをゆく車の乗り心地は、水上を滑るようだった。しかしさすがに、侵入禁止を迷い込んできたトラックと対面したときは、停止せざるを得なかった。トラックは、迷いこんだ獣道で退路を断たれた象のように動けないでいた。後方を振り返り、後続車のないことを確認した志摩は「ちょっと荒っぽいかも」とつぶやいて、ギアをバックに突き入れアクセルを踏み込んだ。同時に、全身を使ってハンドルを切った。視界のなかに見える街路灯の連なりが、弧を描きながら、ぐるりと回った。遠心力で、秋月は車窓に押しつけられた。車はタイヤの軋音を発しながらUターンをはたした。

 するするとハンドルが元の位置へと回り戻った。同時に、エンジンの吹きあがる音があがった。呆然とした顔の秋月が、後方を振り返った。そのときだった。硝子らしきものが視界の隅をかすめた。球形だった。Uターンの際、ショルダーバックから転がり出たレンズらしかった。床に落としてはいけないと思い、秋月は片手を伸ばして拾い上げた。手のひらにおさまるほどの球形だった。車が急停止したのは直後だった。秋月が怪訝な顔色を運転席に向けた。

「道を間違えたみたいです。今のを右でした」

 わざとがましい声色に聞こえた。志摩は秋月の持つ球形を手に取って、ジーンズのポケットに押し込んだ。どう反応してよいものなのか、対応に困るような志摩の振る舞いだった。押し黙った秋月だった。

 道を後進で戻って右折した区域は、街路灯のない造成途中の区画だった。ヘッドライトがハイポジションに切り替わった。しばらく進んだところで志摩が物陰で車を停止させた。

 何ごとかと秋月が志摩に目をやった。前方をみつめたまま無言の顔は、何かを言いたそうだった。

「どうしたのかしら?」

 問いに、志摩は、

「……秋月先生。先日にみつかった変死体、先生のところで解剖されたんですよね」

 唐突というよりも不思議――。そう思える質問だった。秋月は、あっという顔になった。分かった。志摩が隠し持っていた用事が分かった。

 秋月が運転席を見た。

「用事は、そのことなの?」

「それって、今どこに保管されているのかしら?」

 秋月の問いかけを、撥ねつけて言った志摩だった。虚をつかれた顔の秋月を、志摩がにらみつけている。凝固した黒い瞳から、放たれた刺すような視線――。気圧された秋月は、緊張した顔をふっと解いた。

「別のところに安置されているわ」

 志摩の黒々とした瞳に、暖色がにじんだ。

「それがどうかしたのかしら?」

 問いの奥に隠されているものを聞き出したい秋月だった。志摩は首を横にふった。

「ニュースで大騒ぎされていたじゃないですか。だから気になって」

「うそね。やっぱり何か隠してるわ、あなた」

 もう完全に見抜かれている。ハンドルを握っていた手の力がゆるんだ。全身の力が緩んだからだった。この女医は、慈悲の深さを持っている。この人ならば信用できる。そんな想いが志摩の中に湧き現れていた。発見された変死体が、早坂進一であることはもう突き止められているはずだった。もう隠す必要はなかった。むしろ、打ち明けなければならないことのように思えた。早坂は殺人鬼なんかじゃない。誤解なのよ。決意した顔になった志摩は、伏せていた目を振り上げた。そのときだった。車窓をよこぎる黒い影がみえた。人影だった。二個の人影だった。

「降りろっ!」

 怒声と同時に車窓を叩く音が上がった。

「やばい」

 呟いた志摩がアクセルを踏み込んだ。タイヤを鳴らしながらワゴン車が走り出す。停車中、アイドリングでいたのが幸いだった。車窓を覆っていた黒い二つの影は、風に吹き飛ばされたボロ布のように後方に消え去ってくれた。秋月が振り返った。黒塗りの車がみえた。二つのドアが同時に閉じられた。すぐに追いかけてくる。

 区画整理地を、ワゴン車は、進入してきた方向とは逆向きに加速した。追手から初動で大きく引き離したワゴン車だったが、追いつかれる可能性は高かった。そう判断した志摩は、ライトを消してハンドルを切った。車は建設途中のビルの合間にある道へと進路を変えた。速度を落とし、クレーン車の物陰で車を停止させた。秋月が周囲を気にかけながら訊いた。

「誰なのよ、あれ?」

「知りません」

 早い反応が逆に疑わしかった。

「あ、また何か隠した」

 志摩は押し黙った。

「追われているのよね?」

 秋月が小声になって問い質した。しばしの沈黙の後、志摩は意外にも「はい」と肯定のことばを返してきた。

「誰?」

「おそらく、警察です」

 嘘だとは思えなかった。

「何か悪いことでもしたのかしら?」

 そうは思えないから訊いたのだ。

「誓ってしてません。信じてください」

 堪えていた感情に、突き動かされて出たことばだった。澄んだ瞳だった。小さくうなずいた秋月が、つぶやくように応えた。

「早坂進一とあなた、何か関係あるのよね」

 二人のあいだを紐帯する、抜き差しならない関係を直感した秋月だった。志摩が肯定の相槌をうった。

「詳しいこと、教えてちょうだい」

クレーン車の向こう側を、通り過ぎてゆく黒塗りが見えた。

「もう大丈夫よ。行っちゃったわ」

 黒塗りを追う秋月の目が、志摩みつるにむけられた。

「……先生には、伝えたいこと、相談したいこと、たくさんあるんです。でも、今は用意がありません。今度またゆっくりと説明させてください。そのときに真相を全てお話しします」

もどかしげな表情が、荒地を囲うフェンスに向けられていた。視線の先に、作業員用の通用門があった。その向こう側に、最寄りの駅の灯りが見える。

「お願いです。今日のところは見逃してください。かならず連絡を入れますから」

 より強く懇願する口調だった。

「約束よ」

毅然とした口調の秋月だった。じっくりと頷いて、それを無言で受け入れた志摩だった。

「分かったわ、連絡先を教えてちょうだい」

 志摩はとりだした名刺を秋月に差し向けた。受け取った秋月が自らの名刺を差し返した。

 ――東京メディカル大学付属医療センター 放射線科医師 秋月かおり

 目を上げた志摩の表情は、ほっと安堵した顔付きだった。さ迷い歩いていた者が、ようやく掴んだ拠り所だったのだ。

「気を付けてよ」

助手席を降りた秋月が、運転席にむけて言った。志摩がおおきくうなずきながら、

「私、格闘家みたいに鍛えていますから」

と応えて、二の腕を膨らませて見せた。隆起した力こぶを一瞥した秋月が、ふっと笑みを返した。

ワゴン車は、来た道の方向に向けて走りはじめた。秋月がそれを目で追った。リアウインドウを、シート越しに見える、茶色のショートヘアがゆれていた。

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