9 ロンバルディアンの倫理

 深夜の臨海道路――スマホの画面に映し出された『ABトレーニング3』の表示を確認した早坂進一は、前方を疾走する標的に目を伸ばした。フルフェイスの内蔵スピーカーから志摩みつるの声がながれでてきた。

「旧車會、チーム名、横濱倶楽部」

 確認した表情の早坂は、左グリップのレバーを握りしめてクラッチを切ると、全身を沈み込ませるようにして、右手アクセルを全開まで絞り込んだ。軸受けを突如失ったエンジンが、空ぶかしの甲高い咆哮を轟かせる。直後に早坂の左手が、握りしめていたレバーを突きひらいた。レッドゾーンを振り切ったエンジンの猛烈な高速回転が、一転、異物がぶつかり合う不快な噪音を巻き上げながら、ギアの軸受けに激突した。その衝撃で、後輪と地面とのフリクションが、耐え切れずに白い空転の煙を巻き上げる。せつなに、前輪が悍馬の前脚のごとく跳ねあがった。ウィーリーとよばれる片輪走行に転じた早坂は、そのバランスを絶妙に保ちながら、標的の前方へと躍り出た。

「……なんだ、あの野郎」

 横濱倶楽部の先頭を走っていたバイクが抜き去っていったものを追いかけようと、スロットルを振り絞った。

「おい、待てよ、こら。ふざけてんじゃねぇぞ」

 追い抜きざまに、怒声を浴びせかけてきたのは、後部シートから身を乗り出させて黒い倶楽部旗を打ち振る男だった。

「止まれ、こらっ」

 打ち振られる旗によって視界を遮られた早坂は、進路を左右に変えながら悍馬の跳ね馬をあやつっている。その車体の陰から狙っているのは、『ABトレーニング3』に相応しい戦いの場だった。

 思い返せば、『ABトレーニング1』においては、飛び込みで参加した潜り酒場のリングで、三人勝ち抜きの最後にあらわれた長身の男に煮え湯を飲まされた。敗北こそ免れたが、思わぬガサ入れに救われた、と言われても致し方のない内容だった。そして六本木のクラブVIPルーム内で立ち回りを演じた『ABトレーニング2』。総勢十名もの名だたる半グレたちを打ち負かしたものの、しかしそれも、みずからが餓死寸前のところまで追い込まれた状況は褒められたものではなかった。脳内戦士のプロトタイプになるための条件として、教書ダビデプログラムが課す、ABトレーニング――。たしかに、その非日常性は、ありふれた坐臥では決して味わうことのできない、大量のドーパミンを体内に発生させてくれる。その刺激は、心身のパフォーマンスを劇的に高めてくれる。

 ロンバルディアンの倫理が思い出された。「勝利こそが絶対」――ABトレーニングは、その命題が真であることを否応なく突き付けてくるのだ。

 後方からは、車輪をフェンダーから歪にはみ出させ、車高を極端に低くさせた四輪の主力部隊が、火花をまき散らしながら迫ってきていた。低い車底と地表のアスファルトとが擦れ合って発生させる火花だった。鳴らされるクラクションと、ロー&ハイを交錯させるヘッドライトとが、早坂を急き立てていた。前方の煽りバイクと挟み撃ちする作戦だった。片側四車線の臨海道路をいっぱいに蛇行しながら、あらわれた獲物を集団になって追い立てる光景だった。

 しかし早坂の瞳は冷ややかだった。追い立てられているように見える早坂は、しかしウィーリーを絶妙なバランスで維持しつづけながら、むしろ集団をみずからが選んだ「戦場」へと誘導しているのだった。その跳ね馬が、後輪を回転軸にして進路を後方に転回させた。跳ね馬のヘッドライトが、ホームセンターのロゴマークを暗闇の中に照らし出した。虚を突かれた主力の四輪部隊が動きを急停止させた。その間隙をねらって、前輪を地表に着地させた早坂は、アクセルのスロットルを全開に振り絞った。悍馬は主力部隊の脇をすり抜けるようにして、ホームセンターの駐車場へと滑り込んだ。逃すまいと横濱倶楽部の一団が、タイヤの軋む音をまき散らしながら、灯の消えた暗闇の駐車場へとなだれ込む。

 深夜の臨海地区にあるホームセンター。早坂が誘い入れたのは広大な敷地の半分以上を占有する駐車場だった。視覚が頼れるのは車両のヘッドライトだけだった。その漆黒の中央に悍馬を停止させた早坂は、おもむろにライトを押し消した。追っ手の一団は、消えた獲物を照らし出そうと車両を不自由にあやつっている。しかし消えた悍馬は視界にあらわれてくれない。

「くそっ、消えやがった」

 集団の先頭で、倶楽部旗を手に持つ男がつぶやいた。その直後だった。暗闇から男めがけて黒い影がとびかかってきたのだ。男の手にある倶楽部旗の柄が一瞬の内にへし折られ、先端が男の顔面を振り払った。

「ギャッ」男は悲鳴をあげながらバイクから転げ落ちた。後部シートでの一瞬の出来事に、運転シートに座る男が何事かと後方を振り返った。強烈なストレートパンチがその男の顔面を打ち抜いた。衝撃に男はバイクを横転させて地面に倒れこんだ。

「どうした?」

 暗闇の中の出来事に、後方主力部隊の男たちが、四輪のドアを開けてぞろぞろと繰り出してきた。5台の車に分乗してきた輩は、総勢二十。男たちの手には金属バットや角材といった凶器が握られている。ビールの空き瓶を持って苛々と揺らしている者もいた。追い詰めたはずの獲物が、こつぜんとそのすがたを消してしまったことに、焦れている動きだった。

「早く探し出せ」

 どすを利かせた声だった。横濱倶楽部の首領らしき男だった。しかし凶器を手にして周囲をうかがう男たちの視界は、車両のヘッドライトが照らす限られたエリアしか見通せない。そのことの苛立ちも手伝っているのだろう、男たちの動きに統率されたものが見られなかった。バラバラな動きだった。早坂はその瞬間を待っていた。暗闇の中に身を潜める彼の脳裏が、バラバラにあるその標的たちを繋ぐ「導線」を描きはじめた。如何にして効率的に仕留めるかの戦いの導線だった。描かれるべきは、ビリヤードを衝く者が脳裏にえがく、軌跡のような幾何学模様だった。決意した早坂の脳裏にその模様が燦然と浮かび上がった。最初の標的は金属バットを持つ二人だった。そこを起点として、バックスピンを利かせた身体を、そのさらに後方でうろつく三名に激突させる。そして、金属バットと角材とが飛び散る、その剣幕に乗じて、集団の本陣よろしく数名がたむろする塊に、鍛え抜かれた鋼鉄の全身でブレイクショットを見舞うのだ。見舞われた塊は、文字通り散り散りに飛び散って、本陣としての機能を消失してしまう。その後は、一人一人、その怯える顔を見定めるようにして止めを打ち込めば良いのだった。

 ――――

 ――戦闘の幾何模様を、暗闇の駐車場の中に描き切った早坂は、止めを見舞う相手に歩み寄った。横濱倶楽部の首領だった。地面に横たわる首領は、怯える顔で命乞いをしている。早坂は被っているフルフェイスの中で小さく言った。

「容赦しないぜ」

 それは横たわる首領に投げつけた言葉ではなかった。もちろん独り言でも、無意味に吐いたつぶやきのことばでもなかった。見れば早坂の右人差し指が、フルフェイス後方に取り付けられた通話ボタンを押し込んでいた。発したことばは、外部に向けて投げかけられたものだった。首領の悲鳴は直後に暗闇を立ち上った。ヘッドライトが交錯する漆黒のホームセンター駐車場――その真っ只中に、早坂進一が悠然と立ち尽くしている。その横に一台の車が近寄ってきた。

「お疲れ様」

 運転席の窓が開き、志摩みつるの微笑があらわれた。たった今、早坂が発した言葉の受け手だった。

「完璧だったわ」

 称えることばを受け、相づちを返した早坂が助手席に乗り込んだ。長い息をつき、シートに深々と腰をしずめた早坂に手渡されたのは銀色のアタッシュケースだった。染井孝太郎から依頼されてあったスーパーレイヤを測るアイマスクの本体。早坂は、無言になってそのトップカバーをひらき、中からケーブルにつながれたアイマスクを取り出した。リクライニングシートを後方に倒した。手にあるマスクで両目を覆った。ミントの香りをともなった爽やかな装着感だった。発光するLEDが、閉じた瞼の内側を様々な色に染めている。戦闘によって発せられたドーパミンが、依然として体中をめぐる興奮状態にある早坂は、LEDの変化する動きに合わせるようにして、深呼吸を繰り返した。

――落ち着きを取り戻した早坂は、アイマスクを装着したままの状態で戦いを終えた今現在の自分の気持ちについて思いを寄せてみた。ABトレーニングを開始させた当初こそ、ロンバルディアンの倫理、すなわち「勝つために手段を選ばない」倫理を訝る気持ちがあった早坂だった。その基本姿勢は今も変わらない。しかし実戦を重ねるに連れて、その思いに軌道修正が迫られていることを感じはじめていた。

 目的が手段を正当化する――その命題が矛盾することは明らかなのだ。何故ならば、目的(勝利)の為に手段を選ばないということは、勝つための手段を追求することに他ならないからだった。つまり、目的が手段を正当化するならば、手段(の開発)が目的となってもおかしくはない。……であれば、勝利するために敗北する手段があって良いことになる。

そこに至ってロンバルディアンの倫理は崩壊する。しかし一方で、「勝利こそが絶対」であることを、ABトレーニングは否応なく突き付けてくる。勝利とはいったい何なのだろうか? 戦いとは? 三度のABトレーニングを積み重ねてきた中で、早坂は、その答えを追求したい気持ちに捉われ始めていた。

「ABトレーニング4の詳細を教えてくれ」

 志摩に迫ることばが口を突いた。


 ホテル宴会場のステージ背後を飾る舞台看板『株式会社東海エンジニアリング代表取締役社長、還暦祝賀会』とある社名が、反社会組織、新生京道会のフロント企業であって、暴対法に対するカモフラージュであることは明らかなことだった。――新生京道会直系組長及び親戚団体の関係者、合わせて数百人が参集したホテル宴会場「飛翔の間」だった。

 ステージ上では、その主役の盃に、祝杯をそそぐための酒瓶を手に持った関係者が列をつくっていた。新生京道会総長田島直久の還暦を祝う人々だった。会場に整然とレイアウトされた二十数台もの円卓に陣取る出席者の中には、著名な芸能人の顔も見受けられた。

「それでは、銀座すみれ会の女将さんたちから、お祝いのバースデイソングを披露していただきましょう」

 会の中頃、司会のことばを受けて、ステージ上にぞろぞろと登壇をはじめたのは、銀座の夜を競い合う女将たちだった。和洋取り混ぜた色とりどりの華麗な衣装を身にまとっていた。間もなくして羽織袴すがたの総長の席の前に、巨大なバースデイケーキが運び置かれた。生バンドの演奏がはじまった。女将たちはステージに用意された二本のマイクの前に思い思い歩み寄り、演奏に合わせて身体を揺らしはじめた。合唱がはじまった。

 女将たちが1コーラス目を歌い終わり、間奏となったところで司会者が参集者全員の起立をうながした。2コーラス目は会場の全員で合唱しようというのだった。椅子を押し動かす音が、宴会場を一斉にひびきわたった。

 生バンドを指揮するタクトの動きがより大きくなって、場内は否が応でも盛り上がってゆく。会場のあちこちから、総長の誕生日を祝うことばが飛び交う中、2コーラス目がはじまった。アルコールの勢いもあるのだろう、拍子外れの手拍子が混ざり合っている。ステージ中央に座る総長は、取り巻きが耳元に口を寄せて読み上げている出席者名に耳をかたむけている。満面の笑みだった。

 六十を前にして、総長に昇りつめたこの田島直久が、当初に所属していたのは、総本部(京道会)とはシマの離れた三次団体だった。地方に居を構えていた青山組だった。その若頭であった田島が、名だたる直参組長を差し置いてトップを取れたのは、一にも二にも、その時流を読む秀でた先見性だった。二代前、当時の京道会総長が、跡目相続が原因でヒットマンに暗殺された直後、田島の親分だった青山稔は、関係の深い分裂側に参加する腹を固めていた。しかし田島は、それを読み誤りだとして、「残留」を懸命に説得した。結局のところ、義理のある分裂側と、それを阻止しようとする田島との板挟みになった青山は、引退を選択――配下構成員を田島直久に託した。果たせるかな、そのことが幸いしたのは、その後も続いた総本部周辺での激しい跡目争いによって、総本部そのものの組織力が弱体していったことだった。その隙を突くように、その頃には総本部の遠縁である立場から、中部地区ブロック長に収まっていた田島は、漁夫の利を得、総本部のシマへと「逆」進出を果たしたのだ。京道会に「新生」を冠したのはそのような理由からだった。

 ――会場をこだまするバースデイソングの大合唱がつつがなく終了すると、会場をながれる曲が、しっとりとしたバラード調に変わった。ステージでは、大きな花束を抱え持った銀座すみれ会会長女将が、中央にすわる総長田島の元へ静々と歩み寄ってゆく姿があった。花束贈呈の儀だった。一際大きな拍手が沸き起こる中、花束が総長に手渡された。総長の面前に置かれてあったバースデイケーキのローソクの灯が吹き消された。

 檀上横で直立する司会者が、式次第に落とした目を振り上げて次なる演目を口にした。

「――さて皆さま、お待たせいたしました。本日、総長誕生会のメインイベント。新生京道会総長杯争奪、ボディビルコンテストを執り行いたいと思います」

 直後に場内のあちこちから拍手と歓声とが沸き起こった。演目を待ちかねていた者たちからのものだった。

「総長ご自身、ボディビルに勤しんでおられ、日頃、その効果を喧伝されていることは、皆様ご存じのことと思います。そして皆様のとくに若手でいらっしゃる方々の間では、ボディビルディングが人気であることは聞き及んでいるところです。本コンテストは、そうして日頃鍛えておられる皆様の、その成果を発表してもらう場でもあります。……では只今より、出場者を募りますので、参加希望者はステージ前にお集まりください」

 司会の言葉を受けて、この瞬間を待ってたとばかりに、椅子を後方にとばして円卓を立ち上がった若い衆たちが、ステージを目指して走り寄ってきた。その内の何人かは、ネクタイに両手をかけて早くもその結び目を解きにかかっている。

「無礼講です。身に着けているものは、どうぞそのまま床にお脱ぎ棄てください」

 ステージ前に集まってきた男たちが、身に着けていたカラフルな色のタキシードをむしり取るように脱ぎ、足元に投げ置いてゆく。皆嬉々とした顔付きだった。会場の女性陣からは、悲鳴とも歓喜ともつかない黄色い声が立ち上る。予めこのときのためにと準備をしていたのだろう、タキシードを過ぎ去った者たちは皆、コンテスト用のビキニのトランクス姿だった。その半裸が立ちならぶ光景の中で目に付くのは、鍛え上げられた筋肉のバルクアップもさることながら、全身に彫られたタトゥーたちだった。

 手渡されたゼッケンをトランクスに装着した参加者たちは、思い思い、ウォームアップのポージングをとりはじめた。それは、参加者それぞれが得意のポーズを決め、相手よりも優位に立とうという、水面下でのつばぜり合いでもあった。

 審査するのは総長――。総長のお眼鏡にかなった者が総長杯を獲得できるのだ。副賞百万円もまた参加者には魅力だった。

 二十数名ものコンテスト参加者は5人毎の5チームに分かれて予選を行い、その内の勝者が決勝ステージに勝ち進む方式だった。会場からはゼッケン番号を叫ぶ、しわがれた声が乱れ飛んでいた。所属する組の代表でもある参加者に対して、それぞれの組員から投げかけられるどすの効いた声援だった。それに応えるかのように、ステージ上をうごめく筋肉のバルクアップが、きらきらと光り輝いていた。

 ――会場内を一際大きな歓声が沸き上がった。決勝ステージに進むことのできる最初の予選勝者が決まったのだ。

 勝利した者の咆哮、それを称える者たちの驚喜。そして敗者たちの怒号――会場内は、応援と罵詈雑言とが乱れ飛ぶ、異様ともいえる熱気に包みこまれていた。2チーム目、3チーム目と予選ステージが進んでいった。そして予選最後の5名がステージに上がった。直後に、会場のあちこちからブーイングが立ち上った。5名の内の一人が、黒々としたタンニングの身体だったのだ。それまでは、雷神や釈迦如来等の神仏系、或いは唐獅子や鳳凰等の霊獣系等々、思い思いの和彫りの図案を、白い全身に覆っていた参加者ばかりだったのだが、しかし登場したその男の身体は、紋柄をもたないタンニングの身体だった。だから異質だった。その異端に対する反抗のブーイングが場内を立ち上った。

 紋身の構成員が減少している渡世人社会のご時世とはいえ、しかしそれを、カタギとの間のケジメの記号として、今現在も重視している新生京道会は違っていた。専属の彫師も複数人にいて、タトゥーを尊重する意識は依然として高かった。だから今ステージに立つ異端に対し、訝る視線が交錯したのは当然だった。

 もっとも、対外的外交問題については、戦闘手段よりも話し合い外交を重んじていた田島総長だからために、二次三次の傘下組織レベルでの合従連衡は頻繁におこなわれていた。ステージに立つその異端も、最近になって移籍した組の構成員である可能性もあった。

「早く進めろ」

 会場を立ち上った突然のブーイングによって、滞っていた進行を促す田島総長のこえだった。司会者が場内の騒ぎを鎮める中、最後の予選がはじまった。

 この日のために、全身に彫られた紋身を黒色のフィットネスタイツで覆い隠し、密かに、日々のトレーニングに耐えてきた組の代表たちだった。その負けられない気持ちが、過剰な戦闘意識を焚きつけていた。鋭角に折りたたんだ肘を頭上高くに引き上げて、上腕二頭筋の出来栄えをこれ見よがしにライバルの面前に突き出す者――前傾させた上半身の前で、両拳を突き合わせ、両肩を盛り上げながら食いしばった顔になって隣人にガンを飛ばす者――予選ステージの水面下では、傍からは見えにくい、緊迫した光景が隠然としてあった。

 そんな予選最後の対戦の中で、タンニング男のバルクアップは圧巻だった。浮き出た血管が、黒いメロンの網目を連想させる巨大な筋肉量――。ノミで叩き彫られたような筋繊維の鋭い切れ上がり。素人の眼から見てもそのパフォーマンスは他を圧倒していた。そのことは、同じステージ上にいる対戦相手も自覚していた。自分たちが勝ち上がるためには、最大のライバルを蹴落とさねばならないのだ。ポージングの水面下で行われている争いの第一手とは、その最大値を集団になって取り崩すことだった。だから対戦者たちが、早々に、タンニング男の周囲を取り囲んだのは至極当然だった。

 タンニング男の顔面すれすれに、剥き出させた白い歯を突き出して挑発する者――リフテイィングした肘で、タンニング男の優れた筋繊維の「彫刻」を覆い隠す者――様々な手口を使って、最大値を取り崩そうとする見えない争いがステージ上で交わされていた。そんな緊迫した状況の中、とつぜんに一人の対戦者が尻もちをついた。

 ポーズをとろうとタンニング男の踏み出した右膝が、対戦者の大腿二頭筋を強く押しやったのだ。それでなくとも周囲を取り囲まれたことによって、窮屈を強いられていたタンニング男だった。踏み出したその足には、そうとうの力積がかかることになった。その力に耐えきれず対戦者は倒れ込んだのだ。

「テメェ、殺すぞ」

 水面下での無言の争いは、それゆえに対戦者に対して過剰なストレスを与えていたに違いなかった。哀れに尻もちをつき、両手を後方に立てながら吐き捨てた威嚇のことばは、ステージを見守る者たちから色を失わせた。面目をつぶされた対戦者は、銀色の眼になってゆらゆらと立ち上がると、それまでのポージングを、戦いの構えに換えて、右胸に彫られた雷神をみせつけるようにしてタンニング男に歩み寄ってきた。

「おい、こらっ」

 再び浴びせかけられた威嚇のことばに、しかしタンニング男は平然と横向きになると、左足の踵を上げ、ロックさせた両腕をわき腹に押し付けた大胸筋を強調するポーズで応えた。焦れた顔の雷神は、なおも詰め寄ってタンニング男の右手首に手を伸ばした。――雷神の背中に彫られてあった昇り龍が、逆さになってステージ上に叩きつけられたのはその直後だった。

 ステージ中央に立ち尽くす早坂進一の足元には、無残に打ちのめされた紋身の入れ墨が、抜け殻のように横たわっていた。

 一瞬の出来事だったため、共にポージングを取り合って競いあっていた他の参加者たちは皆、虚を突かれた呆然とした表情だった。予選を見守っていた会場の者たちは、事態が飲み込めないためか、ぼんやりとした目顔を交わし合っている。暫しの沈黙がながれた後、ステージ中央で一部始終を見守っていた田島総長が、御付きに向かって問いかけた。

「どこのモンだ?」

 眼前に立つ、見慣れない男の所属団体を訊いているのはあきらかだった。御付きが名簿に目をおとした。その目が元にもどった。

「土屋企画の若い衆、早坂です」

「土屋? ……」

 意外そうな顔で宙に眼をただよわせている田島だった。

 新生が冠される直前の京道会は、様々に離合集散を繰り返していた。その中にあって、当時、京道会二次団体の渡部組傘下にあった土屋企画は、分裂騒動の最中、京道会から一時距離を置いていた。京道会総本部が、兄貴分である渡部組を差し置いて土屋企画を直参としたのは、新生を冠した最近になってからのことだった。以前から土屋企画が取り組んでいたハイテク事業関連のシノギが、急激に上向き、甚大な上納金を見込めることになったからだった。

 田島が意外そうな顔でいるのは、そんな土屋企画は、辣腕の弁護士を抱え持った、いわゆる経済やくざであることを思い出したからだった。眼前でくりひろげられた構成員の武闘行為は、その憶測を否定するものだった。

「おい、貴様。総長の前で、ずいぶんと出過ぎたことしてくれるんじゃねぇか」

 ドスを効かせた威嚇のことばを早坂に向けてきたのは、すでに予選を勝ち抜き、ステージ後方で待機していた男だった。両肩から両胸にかけ、左右シンメトリで彫られた向かい獅子が、スポットライトに照らされて色鮮やかに咆哮の図を浮かび上がらせている。

 早坂はしかし、「先に手を出してきたのはあっちだぜ」と言い返すと、何食わぬ顔でポージングの動作にもどった。

「おい、こらっ」

 向かい獅子は怒鳴って、早坂の肩に手をかけた。

「聞こえねぇみてぇだな」

 向かい獅子が宙を舞ったのはその直後だった。無残に仰向けになった咆哮の図は、総長の面前で気を失っていた。

 総長は早坂に目をふった。

「……もういい。お前の優勝だ」

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