7 ABトレーニング

 あたらしく手渡されたメニューにあるスタック重量は想定をはるかに超えていた。

 ダンベルやバーベルの各種ワークアウトにスタックされるウエイトの使用重量が、軒並み二倍から三倍の更新を要請していた。そればかりではなかった。ラットマシンや各種マシンプレスの加速度も、二倍から三倍に引き上げることを要請していた。それをこなしきらなければ、巨大になった現在の自分の筋肉を、よりさらに肥大化させるための超回復をうながすことはできないのだ。しかし早坂は、驚異のメンタリティーを発揮してマシンやバーベルに食らいついていった。

 ジムエリアに大きな衝撃音がたちのぼったのは、早坂が新メニューを開始してすぐのことだった。

 金属同士がぶつかり合う大きな衝撃音は、フロアの異なるクラブ受付カウンターにまでとどろき渡った。

 早坂が操っていたラットマシンのケーブルが切れ、スタックされてあったウエイトたちが、垂直に落下した衝撃で立ち上った轟音だった。

 三百キロを耐えられる強靭なケーブルが切れたのは、課したウエイトをフルスタックにしても、その負荷圧に不足を感じた早坂が、さらに数十キロものバーベル用プレートを手製で括りつけ、強烈な加速度で引き下ろしたからだった。力積に耐えかねてケーブルが断ち切られてしまったのだ。

 早坂が破壊したマシンはその後にも続出した。マシンばかりではなかった。みずからの筋肥大化を、なおさらに極限にまで引き上げたい彼のメンタルと、筋肉の超回復能力は、数多くのバーベルのバーをもへし曲げていった。

 新プログラムが始まってさらに半年、クラブに出入りするようになってもう間もなくして一年が過ぎようとしていた。

 早坂のバルクアップは想定よりもはるかに早く、当初見通していた境地に近づきつつあった。体重は開始当初の二倍の130キロに達し、体脂肪率一桁台――、62キログラムの筋肉量を実現させ、そしてグリコーゲン貯蔵エネルギーは、4100キロカロリーを優に超えるまでになっていた。早坂の威容は、すれ違う者、誰もが振り返るほどだった。

「正直、この短期間にここまで来れるとは思ってもみなかった」

 早坂を称える志摩のことばだった。眼前に立ってポージングをとる早坂の全身を覆うのは、隆起した筋肉のセパレーション。その盛り上がり一つ一つの表皮には、体脂肪率を極限にまで絞り込んだことによる、血管の網目模様がくっきりと描かれていた。早坂自身の達成感も高かった。志摩が指摘してくれていたように、ステロイド等、服薬を使わずにこの境地にたどり着いたことの満足感はこの上もなく高かった。

「私、覚えてるわ。あなたがここで初めてバーベルのバーを握りしめた時の表情を」

 早坂がジムエリアに初めて足を踏み入れたときのことだった。あのときに握ったバーベルの感触が、昨日のことのように思い出された。早坂は、これまで実施してきた肉体開発が、一つの境地に達したことを実感していた。もっとも彼は、残されているプログラムの工程がまだあることを自覚していた。

ダビデプログラム終盤には、より過酷なワークアウトが用意されてあるはずなのだ。しかしその詳細については、これまで明かされることはなかった。――その正体が、《ABトレーニング》という名で、早坂の眼前にすがたをあらわしたのは、後期スケジュールを決定するためのブリーフィングのときだった。

 秘匿すべき内容だとして、クラブにある会議室を施錠しておこなわれていた会議とは、これまでに造形してきた早坂の肉体に、実践力を注入するためのプランニングだった。

「……ABというのは、アクチュアル・バトルのこと。つまり、実戦の略称ね。ABトレーニングとは、相応の攻撃力、格闘能力を身に付けた対戦相手との、他流試合形式のトレーニングだわ」

 志摩の説明をうけていた早坂が、躊躇いの表情を浮かべたのは、その「対戦相手」が、街のアンダーグラウンドで、人知れずに棲む、やさぐれた過激な輩たちだと打ち明けられたからだった。

「あなたが目指すべきは、脳内戦士のためのプロトタイプ。実戦を知らない見掛け倒しではどうにもならないでしょ」

 志摩のことばは、これまでに築き上げてきた早坂の肉体は、未だ魂が注入されていない、着ぐるみのような存在だという指摘でもあった。

「ボクシングのプロを目指していたあなたなら分かるでしょ?」

 志摩は、躊躇いの表情を浮かべる早坂に対して、説得のことばをつづけた。

 かつてボクサーを目指した早坂進一だった。言われてみれば確かに、ひたすらサンドバッグを叩きつづけているだけでは、ダイエットエクササイズ程度の効果しかのぞめないのだ。ボクサーとしての実力を身に付けるためには、リングに上がり、実戦を積み重ねる必要があった。

「お察しの通り、予定しているトレーニングは、ルール無用の過酷なものになることは避けられないわ。でもね、あなたと対戦者の安全は、DARPAと提携している保険会社や医療機関によって担保されているのよ」

 説得のことばは、躊躇いの気持ちを解きほぐしつつあった。そのフェードアウトの動きに反比例し、にわかに現れ出てきた想いがあった。……「戦場」への興味だった。

 肉体開発に対する早坂の憧憬の念は、超人思想と深くかかわっていた。

 ――本当の自由とは、誰の助けも得られない、荒野にたたずむ一人のことなのだ。そんな厳しい世界を、神に囚われずに生き抜くには、自分自身が、力への意思を持ち、強靭な肉体とメンタルとを追及しつづけなければならない。そう説く「超人思想」――。

 早坂にとって、肉体開発においては、手に入れたことの手ごたえをつかんでいた。目指すべき頂点……超人を果たしたい彼にとって、やらねばならないことは、自らの肉体が、超人にふさわしいものなのかどうかを、実践を通して検証することだった。

それを検ためるフィールドとして、「戦場」は相応しい。そう思う気持ちが、高まっていた。

「どうするかは、あなた次第よ」

 志摩から発せられた最後通牒だった。沈黙のなか、志摩は早坂の反応を見定めていた。その顔に安堵の色が滲んだのは、早坂が発した「承知したよ」のことばを捉えた直後だった。

 志摩は、右隣りにすわる男と目を合わせた。ABの裏方役だと紹介されていた男だった。早坂にとっては、初対面の人物だった。

「改めて紹介するわ。アドバンストレーナーの土屋隆司――」

 DARPAが関係する財団本部からの招聘だと説明した志摩だった。尤も、情報統制が徹底された特殊研究機関なのだ。紹介にあった素性が、事実であることを証明するものは何もなかった。鋭い眼光、痩身を包み込む黒シャツに白い背広姿。警戒心を抱かせる風袋だった。「裏方」というミッションも気になった。目礼だけを返した早坂だった。

「……早速だが」

 しわがれた声の土屋は、「取扱注意」が赤く印字された書類を差し向けてきた。互いの眼がぶつかり合った。早坂は無言で差し出されたものを手に取った。

「ABトレーニングの初回プログラムよ」

 早坂が書類に目を這わせた。――『新日本格闘技アカデミー』の文字が目についた。顔を上げた早坂が、説明をうながす目顔を二人に送り込んだ。

「アカデミーとあるのは隠れ蓑だ」土屋のことばだった。

「……?」

 意味を呑み込めない顔の早坂に、志摩が補足のことばを続けた。

「格闘技の名は冠しているものの、その実体は、ルール無用の非合法的決闘や喧嘩をプロモートしている団体なのよ。それを裏隠し、正当な業務に見せかけるために、アカデミーの名を隠れ蓑にしているんだわ」

 本意をつかめない早坂が眉間に皺をよせた。志摩がさらに説明を加えた。

「現在のボクシングは、ルールが作り上げた決闘だわ。そのこと、知っているわよね。ボクシングの元々は、残酷な喧嘩バトルだったということ?」

 古代ギリシア兵士のトレーニング法の一つだとされるボクシングだった。後に古代オリンピックの正式競技となったその原型は、ルールなき喧嘩バトルだった。その残虐性は、興行性と結び付き、観衆を呼び、彼らを熱狂させた。

肘から拳にかけ、牛革製の革ひもを巻き付けたスタイルで行われていた当時の「ボクシング」は、ジャブやストレート、コンビネーション・ブロー等の、知的に洗練された攻撃や防御はなかった。その戦法は、利き腕一本によるフックやアッパーカットなどのスイング系が中心で、目つぶしと噛みつき以外の攻撃が許されていた。それは、競技というよりも、残酷な見世物だった。

 その残虐性をより一層強めたローマ時代は、カエストスと呼ばれる、鋲を打ち付けたグローブで戦い合った。そしてさらに、帝政ローマの退廃的傾向、残虐を好む風潮は、ボクシングの見世物化をよりいっそう、極限まで推し進め、死を招くことを多発させた。

 そのことが、後の中世に至って、古代ボクシングを消滅させる原因となった。ローマの衰退とキリスト教の普及がその背景にあった。以後千二百年もの間、ボクシングは表舞台からすがたを消したのだ。それを復活させたのが、ルールだった。

近代ボクシングは、ルールそのものだと指摘できた。ジャブやストレート等の知的攻撃は、ルールが作り上げた芸術だった。

「この格闘技団体は、見世物としての古代ボクシングを、現代に復興させようとして、全国各地に、アカデミーを隠れ蓑にして展開している。潜り酒場のリングの中で」

 土屋隆司のことばだった。

「潜り酒場?」

「……そうだ。それらアカデミーの大概が、裏カジノを併設している」

 腕をくみ細い瞳をギラリとひからせた土屋だった。

 早坂がふたたび書類に目を落とした。アカデミーの所在地は豊島区西池袋とあった。池袋駅北口周辺、古びた雑居ビルが林立する地区だった。中国マフィアの台頭によってアウトレイジ化が著しいところで、夜間にもなれば、サラ金融店や風俗店が、毒々しい看板を明滅させる地区だった。

「ABトレーニング初回は、このアカデミーとの他流試合だ」

 土屋のことばに片眉を引き上げた早坂は、

「……実施日は?」と低い声色を返した。

 志摩みつるが応えた。

「来週の金曜日。全国大会がひらかれるタイミングよ」

「どうやって潜入する?」

 違法性を自覚している店のほとんど全ては、摘発を恐れて客の登録制を採用していた。一見での出入りは不可能だった。

 問いに腕を組んだままの土屋がいった。

「それについては心配いらない」

 ABトレーニングの裏方をミッションとしている男の矜持をおもわせる反応だった。

 ――――

 実施予定日の夕刻。早坂は池袋駅西口ロータリーに面した雑居ビル内の貸会議室の一室にいた。土屋が手配したベースキャンプだった。室内には志摩と土屋の他に、「後方支援」を担当する、保険会社から派遣されてきた屈強な体躯のスタッフたちが同席していた。

 プロジェクタが点され、最終打ち合わせがはじまった。

「……アカデミーは、漫画喫茶室にカモフラ―ジュされていて、入口を入った最初の部屋には、見ての通り、漫画本で埋め尽くされた書棚を立ち並んでいる」

 説明する土屋が、スクリーンに室内の画像を映し出した。天井の四隅には、監視カメラが設置されてあった。

「身元の最終チェックはこの受付で行われる」

 土屋は赤いポインターを、入口横の受付に座る女性スタッフに合わせた。ABトレーニングの為に用意され、早坂と志摩との二人に手渡されてあった身元確認用のIDは、当然のことながら偽造されたものだった。

「二人は、私の紹介ということでここを通過する」

 早坂が怪訝な表情を浮かべた。土屋とアカデミーとの関係性を疑問に思ったからだった。

(この男、いったい何者?)

 初対面のときからこれまでの間、土屋に対して不審な思いを抱きつづけていた早坂だった。その後ろ向きの気持ちのまま、危険が待ち構えているミッションを遂行しなければならないのだ。土屋と潜入先との関係性はどういうものなのか? 素朴な不安だった。

「――書棚の一部が、入り口になっている」

 画面は、書棚が横にスライドする様子を映し出した。諜報を命ぜられた人物に装着されたアクションカメラが、ひそかに撮影している画像に違いなかった。画面は左右にゆれながら、店内内部に侵入していった。まもなくして、画面の中央に、四角いリングがすがたをあらわした。

 天井から降り注ぐスポットライトによって煌々と白く輝くリングだった。その光の中に、二人のプレイヤが立ち尽くしていた。どちらも戦闘のダメージからなのか、顔面を赤黒く腫らし、両手をだらりと下げていた。その下げた拳には、黒い厚手のサポーターのようなものが巻かれてあった。

「古代ボクシングを象徴する装具だ」

 画面を止めた土屋は、手にある赤いポインターでプレイヤの拳部分を指し示した。金属の鋲が打ち込められてあるのが見えた。分厚い皮革製だった。

「カエストスだ。相手のダメージをより一層高めるための残忍な武器だ」

 早坂の表情が険しくなった。

 再び画面が動き出した後、プレイヤの一人がカエストスをぐるぐると振り回しはじめた。ボクシングとは思えぬ奇妙な動きだった。古代ボクシングの基本スタイルだった。

「念のため、ルールを聞いておきたい」

 実質的にはルール無用のバトルなのだが、自らそれに参加するにあたって、戦い方の参考にと問い質した早坂だった。土屋がそれに応えた。

「――打撃系立ち技の格闘技であるところは、近代ボクシングと変わらないところだが、異なるのは、現在では禁止されている鼓膜破りをねらったオープンブロー、或いは上半身側部以外への、背後や下腹部への攻撃も認められている。……時間は無制限。三人勝ち抜けて一つのプレイが終了する」

「勝ち抜けなかった場合は、当然のことながらABトレーニングの初回は失敗ということね」

 挑発にも激励にもとれる志摩のことばだった。早坂は軽く聞き流した。負けることを想定していない早坂だった。かつてはプロボクサーを目指していたのだ。しかも今の自分は、当時の数倍巨大なエネルギーを蓄えていた。カエストスなど、軽く粉砕する自信があった。

(瞬殺してやる)

 早坂は心の中でつぶやいていた。

 ――――

 二の腕に彫られたタトゥーたちが、激しく波打っていた。観客たちが、煌々とかがやくリングにむけて、突き上げた拳を上下に揺らしているのだった。黄色い歓声があちこちから立ち上っている。興奮した観客たちが、リング上に立つプレイヤを、激しく挑発していた。場内は異様な熱気につつみこまれていた。

 リングを取り囲む客たちのほとんどが、髪を様々に染め上げた若いやさぐれた連中だった。驚いたことは男女比だった。同様の比率だった。

 早坂の登場は飛び入りだった。そのとき、観客の歓声は一際甲高く鳴りひびいた。

黒い覆面を装着した早坂は、観客席のシート上に立ち、巨大な筋肉を剥き出させ、半裸の姿でポージングをとっていた。二人を勝ち抜いたリング上のプレイヤに対して、威嚇の行為をおこなっていたのだ。ルール無用のゲームだった。関係者らの手による意図的な組み合わせを排するため、マッチングについては全て、その場その場での挑戦者の「売り立て」で決定する手筈なのだ。早坂の思惑通り、挑発にのったプレイヤは、コーナーポストに駆け上ってその身を乗り出させ、手に巻かれたカエストスを早坂に向けて突き出してきた。手招きのシグナルだった。早坂は、巨大な体躯に似合わない身軽な動作でリングの淵に飛び移ると、貼られたロープを軽々と飛び越えた。

 リング中央にすすみでた早坂は、みずからの威容を誇示するかのように、両肘を持ち上げて、固く握りしめた拳を内側に引き寄せた。巨大に隆起した上腕二頭筋がスポットライトに照らされて鋼鉄のように鈍くひかった。その早坂に向けて、リングサイドに陣取る競技スタッフの一人から、黒いカエストスが投げ込まれた。残忍な武器であるそれは、一方で、重要な防具だった。しかし早坂は何のためらいもなくリング外へとそれを足蹴にした。素手で立ち向かうという意思表示だった。

 小馬鹿にしたようなその行為に、対戦相手は、憤怒の顔でどす黒いこえを発した。

「殺すぞ、てめぇ」

 ルール無き戦いだった。だからレフェリーがリングに立つこともなかった。

 試合は、相手の右ストレートパンチではじまった。

 向かってくる拳を、左手で右に払うパアリングで難なくかわした早坂は、早速に右ロングフックを相手の左レバーにめりこませた。相手の怒りの形相が、とたんに苦悶の色に染め上げられた。その歪んだ顔面に向けて、高速左ジャブを三度、四度と連打した早坂は、いったんバックステップで身を立て直すと、右腕をぐるぐると回転させながら、勢い強烈なアッパーカットを見舞った。たまらず後方に倒れこむ対戦相手だった。――倒れる者、打ち伏す者への打撃もゆるされるルールなきバトルだった。しかし早坂は、手招きをし、立ち上がるための猶予を与えた。それをさらなる辱めの行為と受け取った対戦相手は、倒れ込んだままの状態で、回し蹴りを早坂の両足に見舞った。隙を突かれて足を払われた早坂が、バランスを保とうとリングに右手を伸ばした。そのせつな、低くなった早坂の顔面に向けて、足裏で踏み抜くキックが飛んできた。たまりかねて転げた早坂をみて、すっくと立ちあがった相手は、脱兎のごとく駆け寄って、倒れた早坂の覆面めがけてロングフックの雨をふらせた。両手でブロッキングするも、倒れ込んだ状態なので防御すべき位置がさだまらない。視界の間隙からカエストスの「牙」がこちらに向かって、何度も飛び込んできた。眼を血走らせて、歯を剥き出しにさせて、容赦ない攻撃をつづける対戦相手――。一転して攻勢に立ったプレイヤに対して、それまで静観していた客席から、「殺せ、殺せ」の大合唱が沸き上った。

 両手で相手のパンチをブロッキングするその内側で、相手の隙を伺っていた早坂は、ふと何かをひらめかせた顔になった。直後に、早坂は両手の力をゆるめて大の字にひろげた。完全なるノーガードの状態だった。思いがけない行為に、何事かと打ち浴びせていた手を止めた相手だった。

「どうした、打ってこい」

 早坂が発した挑発のことばに、我に返った顔の対戦相手は、右腕を上方に振り上げ早坂の顔面目がけて振り落とした。真上から振り下ろされてきたストレートパンチを、数ミリの間隙で顔を横向きにしてかわした早坂は、なおも、「うすのろ、何処見てんだ」と挑発のことばを浴びせかけた。激怒した顔の相手は、今度は、オーバーフックを相手の鼓膜に振りおろそうと、右腕を大きく真横に振り上げた。覆面からのぞく早坂の瞳がきらりとひかった。見れば大の字に広げていた早坂の左拳が、ピクリピクリと蠢いている。初動を待つうごきだった。その左が、本格的に動き出したのは、振りかぶった相手の右拳が弧を描いて振り落ちてくる直後だった。スッと真上に伸びた丸太のような早坂の左腕が、振り落ちてきた右腕とクロスした。

「ギャッ!」

 声にならない悲鳴が聞こえた。倒れ込んだのは対戦相手の方だった。百数十キロを一瞬のうちに繰り出すことのできる、マシンプレスで鍛え上げられた、猛烈な加速度を得た早坂の左拳が、振り下りてきた右フックをいとも簡単に粉砕し、さらに強烈なカウンターパンチとなって相手の顔面にめり込んだのだ。

 ゆっくりと立ち上がった早坂は、倒れ込んだプレイヤを見下ろした。相手はぶるぶると震えながら打ち砕かれた右腕を庇うすがただった。リングの外から「殺せ、殺せ!」の合唱がとどろき渡っている。しかし、リング中央に立つ早坂は、右腕を高々と真上にあげたまま、怯えおののく相手を見つめたままだった。

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