6 マインド・ウォーリア

 ジムエリアには、ベンチプレス用のフラットベンチが整然と並び、ベンチ横には、磨かれたバーベルの鋼鉄のかがやきが連なっていた。焼き入れされた黒いダンベルが斜めに並ぶラックの向こう側には、チェスト、フット、それぞれ専用の、多種多様なプレスマシンが立ち並んでいた。

 立ち止まった早坂は、先をゆく志摩を呼び止めると、両手に拳をつくって、上下する仕草を見せた。ベンチプレスにセットされてあるバーベルに触れたい、というシグナルだった。志摩が承諾の相槌をうった。早坂は、ベンチにみずからの身体を横たえてバーを両手に握った。懐かしい感覚が全身によみがえってきた。両肘をベンチの下方に深くしずめてから、胸筋に力を入れてバーを押し上げる。仰向けの視界を、ジムエリアを照らすスポットライトが交錯していた。そのまぶしさの中に、かつて、ボクシングにのめりこんでいた頃の自分の姿が鮮明に浮かび上がっていた。

 ――自転車エルゴメーターを用いた、無酸素パワーの測定を終えた早坂は、有酸素マシンが並ぶカーディオエリアを横切り、目的の検査測定装置の前に促された。

 装置は、直径二メートル、高さ三メートルほどの円筒形の構造だった。上下にある正円のフレームを、側面に立てられた数本のパイプが支えている構造だった。構造体内部には、数十本もの細いワイヤが張り巡らされてあり、そのところどこに、圧電パッドが取り付けられてあった。

「圧電スーツの機能を拡張させた装置よ。一度の測定で、複数の生体データが測定できるわ」

 志摩の説明に、早坂は、ワイヤの一本を指ではじいてみた。弾性を持った素材だった。

「ワイヤには、様々な力積がかかるように、重さと加速度とが可変できる機能が搭載されているのよ。それによって、受動的測定機能だけでなく、能動的トレーニングマシンとしても活用が可能になっている」

「能動的?」

 問い質した早坂に、志摩は、「あなたの得意な、対戦型競技よ」と応えて笑みを浮かべた。

 早坂が元ボクサーの眼をひからせた。

「先ずは、使用方法の手本をみせるわ」

 志摩は、黄色いウインドブレーカーのファスナーをおろすと、左右にひらいた前立てを背後にめくった。

あらわれた志摩の全身は、トップスと、黒いショートパンツから伸びるレンギスとが調和した、美しいプロポーションだった。

「……先ずは上肢から」

 上体を屈め、張り巡らされたワイヤの中に、両手両足を突き入れた志摩は、全身を装置内部にもぐりこませた。そして、圧電パッドに記された数値を確認する目で、それぞれに指定された、自らの身体部位に、装着していった。両腕と上半身への装着を終えた志摩は、ワイヤを押し伸ばすようにして腰を折ると、伸びたレンギスの裾を捲り上げ、両足の各部位に圧電パッドを装着していった。そして、くるぶしへの装着を終えた志摩は、屈めていた身体を、正面で直立させた。

「最後に装着するのがこれ」

 志摩は、装置上部に設置されてあったヘッドマウントディスプレイ(HMD)を両手にとった。

 ――――

「うっ!」

 おもわず苦悶の声を漏らした早坂だった。覚悟はしていたが、想像以上の衝撃だったのだ。

「キログラム重にして120キロほどね。普通の男子が力いっぱい拳で殴りつけた衝撃力とほぼ同じだわ……でも、あなた思っていた以上に頑強よね。ふつうであれば、軽く倒される威力だもの。さすがだわ」

 にこやかな表情で、過酷な内容を口にした志摩みつるだった。

 早坂が測定装置の中でおこなっていたのは、能動的機能を生かした対戦型競技のデモンストレーションだった。蓄勢を溜めた伸縮性あるワイヤが、その力積を、圧電パッドを通じて、早坂の腹筋に見舞ったのだった。志摩はさらに、

「もっと強いの、試してみる?」と言って、悪戯っぽい笑みを向けてきた。

「オーケー。今の二倍で」

 受諾のことばで応えた早坂は、両腕で顔面をガードする臨戦の構えをとった。かつてプロボクサーを目指した男だった。実力は未だ枯れてはいないはずだった。志摩は手にあるタブレットに、先ほどの二倍となる負荷値を打ち込んだ。

「いくわよ」

 宣言のことばの後、タブレットの画面にある「決定」ボタンをタップした。装置内部に張り巡らされたワイヤたちがビューンという振動音をふりたてながら様々に伸縮をはじめた。身構える早坂の全身の筋肉たちが、力積を受けて、ぷくぷくとうごめきはじめた。まもなくして一際甲高い振動音が立ち上った。

 右、左に揺れ動いていた早坂の上半身がぴたりと停止して、両足の大腿四頭筋がぎゅっと凝縮した次の瞬間だった。早坂の右腕がシュウッという風切り音をあげて虚空に円弧をえがいたのだ。その直後、鈍い音が立ち上った。まなじりを引き上げ、眼光をするどくさせていた早坂の表情がニヤリとわらった。

 驚いた顔になったのは志摩の方だった。

「うそでしょ」

 プロボクサー並みの、250キログラム重の力積によって、早坂の身体が吹き飛ばされるだろうと予想していた推測が、みごとに外れたのだ。

「どういうこと?」

「腹部に向けてはなたれた力積を全身に分散させ、衝撃をよわめた。ついでだから、一発、でかいのをお見舞いしてあげました」

 平然とした口調で言った早坂だった。

「あなた、凄いわ」

「素人ということでもないからね」

 謙遜して返した早坂だった。驚きの顔の志摩は、手にあるタブレットに映る測定データに眼を落とした。採用を拒むようなデータはどこにも見当たらなかった。志摩は落としていた目を早坂にむけて振り上げた。

「あなたの採用、今決定しました」

 早坂は、装着されていた圧電パッドのクリップを取り外す作業をしながら、清々しい表情を返した。

「早速だけど、これに目を通しておいて」

 志摩が早坂に差し出した冊子の表紙には、『ダビデプログラム』が記されてあった。

「生体データ計測スケジュールと、試料製作のための基本的なところのプログラムね」

 ワイヤを掻いくぐり、測定装置から潜り出てきた早坂は、差し出されてあったものを手に受けた。そして額の汗をタオルでぬぐいながら、表紙をめくり巻頭の図表に目を這わせた。レイアウトされてあったのは、美術解剖学を思わせる身体各部位の写真やイラストだった。

 目次をひらいた。章立ては、第一章「基盤演習」をはじめとする全六章によって構成されていた。早坂がそれぞれに目を送った。

――第二章「生体・生物学講義」、第三章「神経科学工学講義と演習」、第四章「マイクロ・ナノテクノロジー技術」、第五章「神経薬理学」、そして第六章「ロンバルディアンの倫理」。

「基盤演習というのは?」

 早坂が問い質した。

「文字通りよ。マインド・ウォーリア、つまり脳内戦士として、必要最低限の筋力や持久力及びそれを維持するための各種の生理機能を構築してゆくためのトレーニングだわ。あなたのその身体、二年で二倍にしてもらうわ」

「二倍?」

 現在の65キロを、130キロに増大させる相撲レスラー並みの造形目標だった。

「驚くことじゃないわ。そのうちに分かるはず。その魅力がね。……スケジュールのところ見てちょうだい」

 促されて、早坂は巻末に二折りで添えられてあったページを引き開いた。二年間で完結すべき全工程が記されてあった。各章はおのおの色分けされてあって、そのそれぞれが、様々な取り合わせによって、横断的に進められてゆくことが一目で分かるスケジューリングだった。

 志摩が思わせぶりな口調でつづけた。

「もちろん、研究助成金という名目で研究費が出ます」

 志摩は《交付内定書》が表題にある資料をさしむけてきた。直接経費の項目にある予算額を見ておどろいた。二年間で数千万。ポスドクの身にとっては余りある甚大な金額だった。

「目指すのは、二年後に行われる成果発表のための修了セッション。そこで認められれば、正式な脳内戦士のプロトタイプとして、抜擢されることになるわ。それからもう一つ重大な義務を伝えておきます」

 早坂が片目尻を引き上げた。

「これからあなたの身の回りに生じる全てのことに対して、あなたには守秘義務が生じます」

 早坂が小さく同意の相槌を返した。

「今後は、演習をはじめとするトレーニングや座学について、一切のメモを禁止します。それに伴い、このプログラムは、私の監視下の中でのみ目を通せることとします、筆記は厳禁です」

 情報統制が徹底されたプログラムの条件だった。

 厳しい表情をしながら、同意の相槌を打った早坂が訊いた。

「同じプログラムは他でも?」

「……我々の他、世界各地で行われているわ。密かにね。このジムは、その内のジャパン・ステーションというわけね」

「日本では、私の他に?」

「今のところ、競争相手は一人ね」

「誰だい?」

「今は応えられないわ。順調にいけば、そのうちに分かるはず」

 意味ありげな志摩の応答だった。

「もう一つ伝えておくことがあるわ」

「……?」

「今から私は、あなた専属の、パーソナルトレーナーです」

「パーソナルトレーナー?」

 おもわず、オウム返しに反応した早坂だった。志摩が続けた。

「二年間、あなたのメンタル及びフィジカルについて、開発と管理を担当させてもらいます。明日から早速、トレーニング開始となります。今後とも、よろしくお願いいたします」

 ――――

 ボクシングを絶ってからブランクのあった早坂だった。とはいえ、体力維持を欠かせなかった甲斐があって、プログラムに対して、筋持続力、筋回復力、そして心肺機能等、早坂の身体は想像以上の対応力を発揮してくれていた。志摩からワークアウトとして課せられたスクワットやベンチプレスのセット量は、すぐに物足りなくなり、早くも追加を課すほどだった。しかしながら、その後も一日七時間近くもの基盤演習に費やしていった早坂だったのだが、トレーニングを重ねれば重ねるほど、筋肉は引き締まってゆくばかりで、肥大化の兆候はあらわれてくれなかった。

 新たな食事プランが志摩から手渡されたのは、プログラム開始後、一カ月ほど経った頃だった。摂取するべきカロリーの値を見た早坂の目がまるくなった。一日一万キロカロリーが課せられていた。一般男子の四倍だった。志摩がその理由を説明した。

「筋肉の肥大化の要因にはいくつかあって、効率化は、その大きな要因の内の一つ」

「効率化とは?」

「……筋肥大は、エネルギーの消費時間と反比例するのよ」

「短期間に多くを消費することか?」

 さらに問い質す早坂に対して、志摩は小さく首肯して、

「より短い時間に大量の負荷をかけ、より短期間に大量のカロリーを摂取しろ……そういうこと」

 糖や脂肪を燃料とするのが運動エネルギーだった。しかしその燃料からエネルギーを作り出す「変換プロセス」においては、酸素を利用するのか否かという違いがあった。前者が有酸素型、後者が無酸素型だった。その内の後者が、筋肉肥大化によりおおきく関係し、強い強度がもとめられる変換プロセスなのだった。

「無酸素型では、トレーニングの作業効率を極限まで上げなければならないわ。今ある筋肉のすべてのパフォーマンスを利用して、すばやく燃焼させることが肝要なのよ」

 パーソナルトレーナー、志摩みつるのアドバイスだった。

 ――早坂進一は、冷凍させてあった鳥のささ身の肉片数枚を容器の中に放り込むと、数個分の卵白を割り入れ、ミルクを注ぎ込んだ。ジューサーの電源が入れられた。

 カッターが、ジューサーの中にあるものたちを、音を立てて掻き砕いてゆく。粉砕を終えた容器の中には液化したタンパク質の塊があった。インスタントコーヒーのボトルを手にした早坂は、中の茶色い粉末を容器の中にふり入れた。――生臭い存在を飲みやすくするための処置だった。スプーンで容器内を二、三度、ステアした早坂は、容器のグリップを握りしめてジューサー本体から取り外すと、そのグリップを口元に引き上げた。

「ふうっ」

 背を反らし、肺に一息の空気を送り込んだ早坂は、容器の開口部に口を当てて、中の液体を直接体内に流し込んでいった。

 一日一万キロカロリーの具体的メニューの一例は、巨大な鍋で煮込んだ雑炊の他、全卵を20~30個、牛乳5リットル、鯖の水煮の缶詰8缶、そして冷凍のささ身の肉片が10枚だった。その「食のトレーニング」もフィジカルトレーニング同様、過酷をきわめた。主食と決めていた甚大な量の雑炊は、消化しやすいようにとペースト状にしたものだったのだが、量はバケツほどもあったので、すべてを平らげるのにそうとうの時間を要した。巨大な鍋にスプーンを突き入れて、それを抱えるようにして食べるのだが、完食するまでには二時間近くは必要だった。だから摂取中に睡魔におそわれることも度々あって、鍋の中にみずからの顔を突き入れたまま就寝する事態も頻発した。それでも早坂は、みずからを叱咤しつつミッションをこなしていった。

 その努力が効果を発揮しはじめたのは、「過食」プランをはじめてから二か月を過ぎたころだった。その間、体内に取り入れたカロリーの全ては、その後に行われるトレーニングのための運動エネルギーの燃料に置換されていったのだから、取り入れたカロリーが脂肪になるような余剰分は、多くはなかった。だから二カ月経ってからの体重増加は歓迎すべきことだった。その増大こそが、本格的な筋肉肥大化が、早坂の体内ではじまった証左だからだった。

 志摩みつるは、クラブのカウンセラーコーナーのカウンターで、正面に座る早坂のカルテに目を落としていた。そこに記録されてある体重変化を記録した折れ線チャートは、この一週間、急激な上昇トレンドを示していた。

「いよいよ、変化がはじまったわね」

 志摩は自分のことのように早坂の十キロ増大をよろこんだ。

「ようやく軌道にのった感じだな」

「あの大量の摂取量で、この体脂肪率を維持しているのはたいしたものよ」

 体重七十五キロの早坂の体脂肪率は20%弱だった。一般の同年代の男性であれば、標準の上位の値なのだろうが、なにしろ一日一万キロカロリーの食事をとりつつの数値なのだ。驚異的と言って過言ではなかった。

「この記録からすると、現在のあなたの筋肉量は大凡30キログラム。グリコーゲン貯蔵エネルギーは、2200キロカロリーというところかしら」

 志摩は自作の体内貯蔵エネルギー推測ツールを使ってそれを割り出した。

「筋肉量、始めた頃と比較して五キロほど増えたわ。今のメニューを続けてゆけば、体重百キロ弱で、筋肉量40キロ近くにまで到達するはずよ。当面はその辺りが目標ね」

 その後、体重は面白いように増えていった。プログラムを開始してから半年が過ぎた頃、早坂の体重は開始時期より三○キロ近くも増え、95キロに到達していた。体重増加は、歩行にも影響を及ぼすほどになっていた。階段の上り下りにも大きく息をつくほどだった。これまでのトレーニングの内容では、もはや対応しきれない身体だった。

 別人のように膨れ上がった自分の身体を、ジムエリアを囲うウォールミラーに映し出していた早坂を見て、志摩は、

「これからが試練よ」と言って、思わし気な目を早坂に向けた。

「ああ、承知している」

 決意の色をにじませた早坂の表情だった。

 バルクアップのための筋力トレーニングの目的とは、筋肉にダメージを与え、筋繊維を損傷させることにあった。そのダメージを回復するために、筋肉は、内部に蓄積された乳酸を稀薄させるため、一時的に肥大する超回復と呼ばれる生理現象を生じさせるのだ。そのタイミングを狙って、またふたたび負荷をかける。そうすることによって、筋肥大化がより一層促進された。しかしトレーニングには大きな課題があった。筋肉が肥大し、そのことによって体重が増えれば増えるほど、与えるべき負荷圧の量がさらに増大し、そのことによる苦痛が桁違いに増すことだった。それでなくても筋力トレーニングには苦痛が伴うものなのだ。早坂がこれから行おうとするワークアウトは、一般の比ではなかった。

 早坂が続けてきた筋肥大化を維持するには、これまでの負荷圧の量では不足だった。それを乗り越えるためには、今よりもさらにトレーニングの質と量とを上げなければならない。それを乗り切るには、地獄の苦しみが待っていた。そして、その試練を乗り越えるスピリッツこそが、超人的バルクアップをやり遂げるために必須だった。

 しかし早坂は、その地獄に直面した域に到達したことを、むしろ喜んでいた。

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