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 卒業するまでは社会科準備室でこっそりしか会えなくてもいい。先生は私のものだっていう名前が欲しい。

 そうは言ってもあまりにも脈がなさそうで、私は机にもたれかかって教壇から立ち去ろうとしているさや先生を見つめた。


 私たちの関係は私から声をかけなければ自然に消滅するような希薄なものだ。

 現にさや先生は私が質問しにいかなくても気にしない。先生からすれば私が声をかけない方が嬉しいんだろうな。

 私はさや先生のストレスになるのかな。

 私はマイナスに考え出した自分が嫌になってきて机に突っ伏して目を閉じた。


 それから一週間、私はさや先生を触ったり舐めたりしていなかった。

 そんなある日の昼休み。


「あ、さや先生。おはよー」


 廊下でさや先生を見つけて、もう昼だけど今日さや先生に会ったのは初めてだからおはようと挨拶した。

 さや先生からのおはようの返事を聞いて、そのまますれ違おうとした。


「円城さん」


 突然名前を呼ばれて驚いて立ち止まる。


「なに? さや先生」

「もう飽きたの?」

「え?」


 さや先生の言葉に耳を疑った。


「いや、飽きてくれていいんだけど。最近なにも言ってこないから、誰かに言ったりしてないか気になって」

「……なんだ。先生も期待してくれてるのかと思ったー」


 慌てて釈明するさや先生を見て、少しでも期待した自分が馬鹿らしくなった。


「それで?」

「ん? ……それで?」


 さや先生と私は見つめ合った。その時間は奇妙な間で一瞬にも一時間にも感じられた。


 四階にある社会科準備室には衣擦れの音だけが響く。

 私たちの間に会話はなく、さや先生がブラウスのボタンを外すのを私はただ見つめていた。

 先生の肌が明かりの下に晒される。私は胸元に咲くバラの花を見るとたまらなく全身がぞくぞくした。

 指先では飽き足らず手のひら全体でバラの花のタトゥーを触る。


「やっぱり綺麗だよ」

「…………」


 さや先生はなにも答えない。けれど私は続ける。


「先生はこのタトゥー嫌いなの?」

「……消そうと思ってる。けど時間が取れなくて」

「消さないでよ」


 私はさや先生の目を見て言った。

 このタトゥーは前の恋人の名残だったりするんだろうか。このバラを見るとときどきそう思ったけれど、それでも私は消さないで欲しいと思う。


「なくなったら私を好きにできないもんね」

「違う。これはさや先生の一部だから。私はこのタトゥーが入ってるさや先生がどうしようもなく好きなの」


 思わずさや先生の手を握っていた。ふり解かれないのを良いことに両手で先生の右手を包んで言う。


「さや先生がどうしても嫌なら、もうこういうことはやめる。でもそれならちゃんと振って欲しい」


 自分でもおかしいと思う。今日はまだ脅してないし、自然にここまで来たのに。どうして私は好きな人を上手くつなぎ止めることができないんだろう。


「わかった」


 思ったよりはっきりした返事に、私は胸が痛むような気がした。


「じゃあ……」

「また今度ね」


 覚悟を決めてうつむいた私に、さや先生は軽い調子で言うとボタンを止め直しながら準備室を出て行ってしまった。


「えぇ……」


 思わずつぶやいて先生が出て行ったドアを見つめる。

 今度こそ振られると思ったのに、また今度ってなに。もう一回ちゃんと告白しろと? そしたらちゃんと傷つく羽目になる。

 嫌だなぁ。受験生なのに。受験に響いたらどうしてくれるんだ。教師ならそこんところ気をつかって欲しい。


 それから私はいつなら振られるのに最適か、勉強を疎かにして考えた。

 その結果、いつでも勉強に支障が出そうだったので、とりあえず受験が終わるまでは先生に恋する女子高生のポジションを維持することにした。

 しかしそれ以降なにかと忙しく、さや先生と話すこともほとんどなくなっていった。


 まだ振られてないから1%くらいは可能性があるのではと、さや先生への楽観的な気持ちを原動力にして受験を乗り越えた。

 無事志望校に合格し、晴れて四月から大学生。

 でも私の心は曇っていた。

 卒業までにさや先生に告白しよう。そして振られて来世の私に気持ちを託すんだ。

 そうは思っても今世の私も傷つきたくない。だから遠目にさや先生を見ながらつい先延ばしにしてしまう。


 そんな日々を繰り返していたら、ついにタイムリミットである卒業式の日がやってきてしまった。


 式の間中、さや先生のことしか考えられなかった。さや先生はまだタトゥーを残しているだろうか。最後にもう一度だけ見せてくれないだろうか。目はさや先生を探してしまってばかりで送辞も答辞も耳に入らない。


 式が終わると同級生たちは名残惜しそうに学校の玄関の前に固まって、写真を取ったりお喋りしたりで忙しそうだった。

 私はトイレに行くと言って友達たちの輪を抜け出すと、静まりかえった校舎の階段を上る。

 四階まで上がって窓の外を見ると友達が小さく見えた。窓から冷たい風が吹き込んで、寒さに自分の腕をさする。

 廊下をしばらく行くとちょうど真ん中辺りに社会科準備室がある。ここには思い出があるから、最後にもう一度見ておきたくてここまで来てしまった。当然鍵がかかっていて中は見れないけど——


 一応ドアノブに手をかけると、驚いたことにドアが開いた。


「え、うそ……」


 ドアが開く。中は電気がついてなくて、窓から差し込む太陽の光が影を作っていた。

 その奥に誰かが椅子に座って佇んでいる。

 私は一歩、社会科準備室に足を踏み入れる。

 影の中にいるその人物は、


「さや先生」


 さや先生は、卒業式でも相変わらず地味な服装で狭い社会科準備室の奥に座っていた。


「遅かったね」

「まさか、ここにいるとは思わなかったから」


 さや先生と二人きりで話す状況は久しぶりで、無性に心臓がドキドキする。

 なんだか顔が見れなくて、つい目をそらしてしまう。


「卒業おめでとう」

「うん……ありがとう」


 私のブレザーの胸につけたコサージュはバラの花ではなかった。さや先生の服に隠された肌を想像してしまう。

 でも私は、もうそれを見ることは叶わない。

 

 深呼吸をして気持ちを整える。

 私には言わなければならないことがあるから。

 深く息を吸い込むと酸素が身体の末端まで届くような感覚がした。静かに何度か繰り返して顔を上げる。


「さや先生……」


 何度も言ったはずの言葉に今はものすごく緊張している。

 さや先生はなにも言わず、ただ私を見つめて次の言葉を待っていた。


「私は、さや先生が好き。先生にはたくさん迷惑かけたよね。でも本当に好きだった」


 私は話しているうちに目に涙が浮かぶのを感じていた。目が潤んでだんだん視界がぼやけてくる。


「それで?」

「え、それで?」


 さや先生から返ってきた言葉は意外なものだった。


「好きだから、なに?」

「えっと……」


 この続きは言うつもりのない言葉だけだ。今世で気持ちが通じることはないからと、言わないつもりだった。その言葉を口にすれば傷が深くなるだけだとわかっていたのに。

 なぜか先を促してくるさや先生に、私はそれを口にしてしまう。


「その、付き合って、ください」

「うん。いいよ」


 なにを言ってるのかわからなかった。

 予想外の返事に私はその場で固まった。


「え……え? はぁ!?」


 ようやく理解が追いつくと、あまりの衝撃に大声で反応してしまった。


「うわ、うるさ」


 さや先生が迷惑そうに目を細めたのも気にとめず私は続ける。


「な、なんで!?」

「なんでって、卒業したから?」

「い、今までのはなんだったの?」

「教え子に手を出すわけにはいかないでしょ」


 さや先生は肩をすくませて、さも当然とばかりに言ってのける。


「なにその強固な理性。こっちが今日までどんな気持ちだったと……」


 私が頭を抱えているとさや先生が立ち上がった。私に近づいてきて、あっ、と思ったときにはもう唇が触れていて、私はさや先生にキスされていた。


「ちょっと待って。唐突な展開に私まだついていけてないんだけど」


 私は驚いて思わず先生から離れた。


「あはは、もしかしてファーストキスだったりした? かわいい」

「ち、違うし」


 さや先生は笑いながら、からかっているのか私の頭を撫でてくる。


「さや先生って、意外と大胆っていうか……」


 人は見かけによらない。

 地味な服の下がどうなってるかなんて誰にもわからない。


 本当の気持ちもちゃんと口に出さなきゃ誰にも伝わらない。


「まぁいいや」


 私はつぶやいて、今度は私からさや先生の唇を奪う。


「さや先生。好きだよ」

「うん、私も。好きだよ」


 私たちは誰も知らないところで密かに気持ちを通じ合わせた。

 どうか6600万年後もこうしていられますようにと。

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先生の恋人になるまであと6600万年 屑原ゆに @4794794

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