紫香とけやき 後編

 陽光を受けてきらめく川の側で、紫香がうとうととしていたときでした。


紫香しか――」


 名を呼ばれて、紫香は目を開きました。薄藍うすあいの瞳で、目の前に立っている存在を認識します。

 銀雪を溶かしたような短髪と、紅玉のように真っ赤な瞳。背丈は紫香の二倍ほどもあり、口元は包帯によって覆われていました。


「……孤月こげつ様」


 そうやって、紫香は言いました。

 孤月は、大死神おおしにがみの一人でした。大死神は死神を生む者であり、この世界に十人ほどしか存在しません。数多の死神を監視し、統率する役目を持っていました。

 孤月は屈んで、紫香と目を合わせました。


「紫香。貴女はここ百年の内に、何人の人間の魂を刈りましたか――?」


 狂気的なまでに赤い瞳が、紫香の姿を映し出していました。

 紫香は目を伏せながら、口を開きました。


「……一人も、刈っていません」

「やはり、そうなのですね。紫香、それでは、貴女が死神である意味がありません――」


 紫香は項垂れながら、孤月の言葉を聞いていました。

 孤月は、背負っていた鎌を紫香へと差し出しました。銀色の刃をしたそれは、かつて紫香が遠くの地で捨てた、自身の鎌でした。


「いいですか、紫香? 今から一週間のうちに、一人でいいから魂を刈りなさい。然もなくば、貴女の生を剥奪します――」


 孤月の言葉に、紫香は顔を歪めました。のろのろと頷いて、紫香は孤月から鎌を受け取りました。



 その日の夜は、美しい満月が昇っていました。

 けやきは現れた紫香の顔を見て、息を呑みました。紫香の綺麗な顔立ちは、泣き腫らしてしまったようで酷い有り様でした。


「どうしたんだい、紫香。何か辛いことがあったのかい……?」


 優しい言葉をかけるけやきの幹に、紫香は抱きつきました。冷えた大木の温度を感じながら、何もかも諦めてしまったような微笑みを零しました。


「一週間のうちに魂を刈らなければ、私は死ぬそうです。そうやって、孤月様――大死神様に、言われたのです」


 けやきは少しの間、沈黙していました。風の音だけが、静謐な世界に響いていました。


「……わたくしは、紫香に生きていてほしい。一人でいいから、魂を貰ったらどうだい?」


「私もそう、考えました。久しぶりに人里を訪れ、病気に苦しんでいる人間を見つけました。あと三日もせずに死ぬだろうとわかりました。ですが……その人間の周りで、家族が泣いていたのです。

『死なないで、行かないで』――そうやって、口にしていたのです。それを聞いた私は、途方もなくやるせなくなって、逃げ出しました」


 紫香は悲しそうに、微笑いました。


「やはり私は、欠陥品です。死神のはずなのに、死神になることができない。どうしようもなく愚かです……」


 けやきは何も言わずに、紫香の言葉を聞いていました。


「けやきさん。こんな私とお友達になってくれて、ありがとうございます。私はもうすぐいなくなってしまうけれど、どうか貴方は、お元気でいてください……」


 紫香の目から一筋、涙が零れました。


「……一つ、お願いがあるんだ」

「何ですか?」

「わたくしはあなたのことを、ずっと覚えていたい。持っているその鎌で、わたくしに一つ、傷を付けてはくれないか? 紫香、あなたが生きていた証として……」


 けやきの言葉に、紫香は少しだけ逡巡してから、最後にゆっくりと頷きました。

 立ち上がって、背負っていた鎌を持ちました。かつて幾つもの魂を剥がした大嫌いな凶器を、丁寧に携えました。そうしてゆっくりと、けやきの幹の下の方に刃を当てました。


 銀色が、幹の上を滑りました。

 きらめく満月を反射して、刃は淡く輝きました。


 紫香はけやきから、そっと鎌を離しました。幹には、小さな傷が残りました。けやきは満足そうにしながら、吹く風に揺られていました。


「ありがとう、紫香」

「……うん」


 紫香はまた、けやきのことを抱きしめました。


「私……いつか、生まれ変わりたいです。奪うことを強要される死神などではなくて、もっと自由で温かな、そんな存在になりたいです。そうしてまた、貴方に出会いたい……」

「そうだね。大丈夫。紫香ならきっと、大丈夫だよ。紫香はとても優しくて、勇気のあるひとだから……」


 美しい夜の世界で、紫香とけやきは長い間、お互いに触れ続けました――




 幾年もの月日が流れ、武蔵野の台地は段々とその様相を変えていき。

 そうして、現在。




 都内某所。自然公園の中を、一人の幼い少女とその母親が歩いていました。

 真っ黒な髪を、綺麗な髪留めで一つに束ねた少女でした。夜空を溶かしたような瞳と、透き通った白い肌。顔立ちには、母親の面影がありました。


 一つの木の前で、少女は足を止めます。

 大きな大きな、けやきの木でした。太い幹からは何本もの枝が伸び、眩しいほどの緑をした葉をいっぱいに付けています。

 少女は何も言わずに、その木を見つめていました。


「綺麗ね、詩歩しほ

「……うん」


 母親の言葉に、詩歩と呼ばれた少女はゆっくりと頷きました。それから少女は、幹のところに、小さな傷があることに気が付きます。

 少女は暫くの間、その傷を瞳に映していました。


 そうしていると、何故だかとても懐かしくて。

 そして、どうしてか、泣き出しそうになってしまうのでした――

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紫香とけやき 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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