4 秘密

(1)

 遥人は記憶を辿りながら運転していた。この前、実家に帰ったのは、友恵が海で服を濡らして母の服を借りに行ったときだから、3ヶ月以上前だ。古い商店街を抜け、そこから裏通りに入ったところで、砂利の駐車場に車を停める。


 リュックを背負って、一歩ずつ歩き始める。裏通りにはいくつもの飲み屋の看板が見えるが、まだ朝の11時頃であるため、人通りはほとんどない。その中に、「きづな」という看板を見つけ、その引き戸の前に立った。換気扇が動いている音が聞こえる。遥人は、その引き戸に手を掛けて開けた。


 そこには、数席のテーブル席と、カウンターがあった。カウンターの辺りだけ電灯がついていて、その中に一人の人間が立っていて、こちらに顔を向ける。


「おかえり」


 母は表情を変えずにそう言った。茶色のエプロンを掛けた母は、静かに遥人の方を見つめている。遥人もそこで立ち止まってしまった。


「どうしたんだい? まあ、そこに座りなよ。お茶でも入れるから」


 母に言われるままに、カウンターの前のイスに座った。母はその前に立って、蛇口をひねり、電気ポットで湯を沸かし始める。


「急いで来たようだね」


 母は遥人の方に背を向けたまま尋ねた。


「どうして隠してた?」


「何を?」


「真月村に住んでたこと」


 母の背中が一瞬、何かに反応したように見えた。しかし、母は振り返らない。


「どういうこと? どこだか知らないけど、私はずっとこの街に住んでいるよ。お前だってそうじゃないか」


 母は静かに答える。ちょうどポットのお湯が沸いたようで、母は振り返って急須にお茶を入れる。遥人は持ってきたリュックの中から、鳥井先生から預かったファイルを取り出して、その写真を開く。


「これ、母さんだろ? この端にいる、赤ちゃんを抱っこしている人」


 母にそれを見せる。そこには、まだ幼い赤ちゃんを抱いて笑っている女性が写っていた。目元に特徴的な泣きホクロが目立つ。そして、目の前の母の右目の瞼の端にも、全く同じホクロがあった。母はそれをチラッと見て、大きくため息をついた。


「何を言ってるんだい。ホクロが同じなんて、そんな人、たくさんいるだろう?」


 母は強固に否定する。遥人はその母の顔を真っすぐに見つめて言った。


「これは母さんだ。そして、この赤ちゃんは僕なんだ」


「どうして?」


「母さんの名前だよ。母さんの名前はミヅキ。——猪野水月だ」


 すると母はフフっと笑った。


「いい名前でしょう? 本当に。……怖いくらいにね」


「真月村の村長の名前は竹内嘉月、その娘が菜月だ。鳥井先生のこの写真を見るまで全く気付かなかったけど、今は完全に繋がったよ。母さんは真月村出身、そして菜月たちとも関係があるんだ」


 遥人は母を見つめていたが、母は視線を逸らすように湯飲みをコトンと遥人の前に置いた。そこには濃い緑色の茶が注がれている。そこで母はようやく遥人の顔を見た。


「じゃあ、仮に私がその村の出身だとして、お前に何か関係があるっていうの? お前はこの街で、この家で育った。だからこそ、お前はここに帰って来たんだろう?」


 母はその大きな瞳で遥人を見つめた。それはまるで怒っているかのように見えた。遥人は大きく深呼吸すると、鳥井先生のファイルから真月村の広報誌を取り出した。


「今から2年前の村の広報誌。この写真の撮影者が後ろに書いてあるんだ」


 そう言って、母の前でその広報誌を裏返すと、「表紙の写真」と書かれた部分を示した。母がそれを見て呟く。


「撮影者……猪野遥人」


「そうだよ。これは僕が撮ったんだ。そして、僕はたぶん、この写真を撮った時のことを夢で見た。向日葵畑の前で、これと同じような白いワンピースを着た菜月の姿を。……それが真実なんだろ? 僕も、きっと最近まで真月村に住んでいた。そして、菜月のことも知っていたはずなんだ!」


 母は広報誌を再び裏返し、表紙の写真を見つめていた。すると、母は大きくため息をしてから、ゆっくりと遥人の方に顔を上げる。


「意外に早かったじゃない」


「えっ——」


 母はフフフと笑って、カウンターの向こうの椅子に腰かけた。そして大きくため息をつく。


「この前、私が大学に行った時の感じだと、当分、気づかないだろうと思ってた。お前は完全に別人になっていたから。一体、どうやってこの短期間でそこまで気づけたんだろう」


「それは、一体……」


「私は住んでたよ、真月村に。しかもつい2か月くらい前まで。それに、お前も生まれてから高校卒業までずっと真月村に住んでいた。だから、その写真はお前が菜月をモデルに撮ったものだよ。お前が高校3年の時に、村の『向日葵の写真コンテスト』に応募して、村の広報誌に掲載された写真でさ。よくまだ残っていたね」


 母はさらっと言ったが、遥人は息を呑んで母を見つめる。


「ど、どういう事? だって、母さんも、僕も、ずっとここで暮らしてたはず……」


 母はその答えを予想していたように、フフと軽く笑う。


「その記憶は、確かかな?」


 母は遥人の顔を見つめる。


「じゃあ、この家のお前の部屋はどこにあるんだい?」


「部屋……」


 母に言われてドキッとした。そして恐る恐る顔を横に向けた。そこには、小さな暖簾がかかった引き戸がある。遥人は立ち上がり、その引き戸の前に立った。その向こうは店から2階に上がる玄関になっていて、その先の階段を上がればそこが自宅になっている。


 遥人はその引き戸をガラッと開けた。


「——!」


 そこにあったのは、玄関でも階段でもなく、ただのトイレの便器だった。中に入り、改めて周りを見回すが、向こう側に小さな窓があるだけで、それ以外には何もない。


「分かっただろう?」


 後ろから母が声を掛けた。その方をゆっくりと振り向く。


「どうして……じゃあ、僕の記憶は……」


「記憶なんて、当てにならないわよ」


 母はそれだけ言って、「まあ座りな」と遥人を促した。それに従って、先ほどのカウンターの席に戻る。


「何かお茶菓子でもないかしら」


 母はそう言ってカウンターの向こうの棚の中を探していたが、やがて煎餅のようなものを取り出した。それを袋ごとカウンターの上に置く。


「私もここに来たのは今日が初めてでね。お前がまだ別人のままだったら、手を加えようかと思ったけど、もうその必要も無さそうだわ」


 母はそう言ってその煎餅を口にする。


「初めてって……どういうこと?」


「私が大学に行った時に、お前、ホテルのチェックインの手続きで住所を書いてくれたじゃないか。私はそれで、ここが分かったってこと。まあ、お茶でも飲みながら、落ち着いて話をしようじゃないの」


 母はそう言って湯飲みを持ってお茶をすする。それを見て、遥人も手元の湯飲みを手にしてそれを一口飲んだ。かなり濃い緑茶だ。


「真月村の竹内家の本家は嘉月の家なんだよ。私は竹内と言ってもかなり昔に分かれた分家の1つの出身。だから私は結婚するまで竹内水月だった。お前が言うとおり、竹内一族の女性は名前に『月』を入れるしきたりがあるの。それに、本家だけは男性もそうするんだ」


「じゃあ、昔から、菜月を知ってたってこと?」


「もちろん。菜月の母は彼女がまだ幼稚園に入る前に病気で亡くなったの。それからは、私はお前だけじゃなく、菜月も自分の子供のように育ててた。……この竹内の一族に課せられた仕事を続けながらね」


「仕事?」


「聞きたい?」


 母は尋ね返してきた。母は、喜んでいるのか、悲しんでいるのかよく分からない笑顔だ。それに遥人は背筋が凍るような気がしたが、大きく深呼吸してから頷く。


「それはさ。人間の、記憶を変える仕事なんだよ」

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