(2)

 聞き間違いではないかと思った。


「記憶を……変える?」


 そう口に出すと、母は一度大きなため息をついて頷いた。それはやはり間違いではなかった。しかし、彼女の言っていることが全く理解できないのは寝不足のせいだけではないだろう。その時、母が突然、おかしなことを言った。


「『かぐや姫』って、知ってるでしょ」


 母は真面目な顔だった。その時、ハッとして思い出した。菜月を自宅に送った時に、彼女も確か「かぐや姫」の昔話のことを話していた。一体、その昔話に何の意味があるのだろう。


「もちろん、知ってるけど、それが何だと……」


 そう尋ねたのを遮って母は続けた。


「かぐや姫は月の人ね。ツキビト、月に人、と書いて月人」


 母は目の前で手を動かして漢字を書いた。


「この月人——これが私達の先祖なの」


 遥人は湯飲みを握ったまま唖然として母を見つめる。地面がグルグルと回っているようで、何かに触れていないと体がフラフラするように感じた。


「母さん……一体、何を言って……」


 声を震わせながら尋ねるが、母は平然と続けた。


「かぐや姫は実在の人物なんだよ。もちろん、本当に月からやって来たかどうかは分からないけどね。でも、彼女が不思議な力を持っていたことは確か。そして、ある男性と結婚して子供を産んだ。その子孫の女性だけが代々その力を受け継ぎ、一族は密かにその力を発揮して繁栄してきたというわけ。それが今の竹内一族」


 母はお茶をすすった。遥人も思わずそのお茶を一口飲んだが、胸がドキドキと鼓動するのが止まらない。目の前の母の言っていることに全く現実感が無かった。


「それで、その力が……記憶を変えることだと?」


 ようやくそれだけ尋ねると、母は頷いてから立ち上がり、急須からお茶を注いだ。


「昔話の中では、月からの使者によってかぐや姫自身が記憶を失わされ、月に戻ることになっているけど、実際に記憶を変えられたのは彼女の周りにいたたくさんの人々。その力を悪用されることを恐れた彼女は、自分とその家族、そして彼女の力を守るために、自分自身の存在を消す必要があったの。そして、その変えられた記憶に沿って、昔話が作られた。それが竹内一族に伝わっている、『かぐや姫』の真実」


 淡々と説明する母の声を聞いていると、ようやく少しずつその現実を認めざるを得ないように思えてきた。それを感じ取ったように、母がこちらをチラッと見て続ける。


「でも、月人の力は皆が同じじゃない。一族の女性の中でも、力が強い者もいるし弱い者もいる。その中で一番力の強い者が、『月姫』になる。それが私だった」


「ツキヒメ?」


「満月の夜に、月の力を使って、強い力でたくさんの人間の記憶を変える力を持つ女性のことを、そう呼ぶんだ」


 母は静かにお茶をすすって話を続けた。


「月姫は自らの力よりも強い力を感じることができてね。お前を25歳で産んでからしばらくして、私の前の月姫から指名されて、私が月姫になった。それからほぼ20年、ずっとその仕事をしてきたの。月姫の事はこの国でもごく一部の人間しか知られていない。大企業の経営者や大物政治家、有名芸能人とかね。彼らは、自分達の都合の良いように、1人の人、或いは何百人、何千人もの記憶を変えてほしいと言ってくる。もちろん、過去の辛い自分の記憶を変えて、新しい人間として生きていきたいという前向きな依頼もあるけど、大体の依頼はただの身勝手なもの。やっているうちに、本当に人間の浅ましさに嫌気が差した。でも、その代わり、驚くほどの大金が手に入る。だって、依頼者の記憶を変えてしまえば、いくらでも報酬を支払うように誘導することもできるから」


 母はフフフと笑った。ただ、すぐに真面目な顔に戻って言う。


「でも、その代わり、この力には1つだけ致命的な欠点があるの」


「欠点?」


 母は頷くと、再び椅子に座ってお茶を飲んだ。


「この力を使うと、月姫自身も、自分の記憶を失ってしまうんだよ」


 えっ、と遥人は言った。


「じゃ、もしかして、菜月は……」


「そう。私の後継が菜月。今の月姫」


 母はさらっと言って笑った。


「月姫は毎年20歳以上の竹内一族の女性の中から選ばれる。私が指名して菜月が月姫になったのは、今年の7月だから、まだ2か月くらい前だよ」


「でも……菜月は紫峰大学に通ってる。村には住んでいないはず」


「村に住んでいるかどうかは関係ない。満月の夜に、月姫として大きな力を使う時だけ村にいればいいんだ。村の、真月神社に」


「真月神社?」


「私達のご先祖である、かぐや姫を祀っている神社。あそこは月姫の力を強めることができる不思議な場所なの。国の特別な管理下にあるから、月姫となった人以外には村人も存在を知らない」


 2週間ほど前に、菜月を追って真月村に行った時、初め彼女は遥人のことをすっかり忘れていた。すると、その前の満月の夜に、彼女は月姫の仕事をしたということなのだろうか。


 それを尋ねようと、母の顔を見た時、ふと気づいた。


「あれ? でも、母さんは、記憶を失くしていない。僕や菜月の記憶を持ってる」


 母はその言葉を待っていたように大きく頷く。


「そうさ。月姫には、失った自分の記憶を取り戻してくれる存在がいるんだ。それが『月命つきのみこと』。月に、命ね」


「ツキノ……ミコト」


 母は真っすぐに遥人を見て頷く。


「月命は常に月姫の傍にいて、その力を使う時に月姫の体に触れておくことで、記憶を失わせないようにできるの。ちょっとした力を使うくらいなら、後で触れるだけでも取り戻せるけどね。お前の父親は、その月命。だから、私の記憶は失われていない。今でも、私にはお前や菜月の記憶も残ってる」


「えっ? じゃあ、父さんは、生きてるの?」


「生きてるに決まってるじゃない」


 遥人の記憶には父の姿が全くない。記憶の中では漁師だったという話だけしかないのだ。その父が今でも生きている。


「どこに?」


 遥人は思わず立ち上がって母に向かって言った。母は、静かにお茶を一口飲むと、エプロンのポケットからスマホを取り出して、画面を触っている。しばらくして、その画面を遥人に見せた。


「この人」


 そこには、「衆議院議員 猪野光人みつと」という大きな文字と、まだ黒い短髪で、正面を向いてにこやかに笑っているスーツ姿の男性の写真のある、綺麗なホームページが表示されていた。


「衆議院議員……?」


「今や、大臣様よ」


 遥人は画面の顔をもう一度見た。確かに、言われてみれば何となく顔立ちが似ている気がしないこともないが、あまりに突然の話で頭がついて行かない。落ち着かせるために、やや温くなったお茶をごくっと飲んで、その画面を改めて見つめた。


「この人が議員になる時も、私が相当力を使った。だから県内の支持率は抜群だし、議員になってからも有力者やマスコミ関係者に力を使ったりして、今では国民的人気だって相当高くなってる。ちょっと面倒なのは、今は力を使ってお前の存在を隠してるから、私には母子家庭のお前の母と、議員の妻という一人二役を演じる必要があることかしら」


 遥人は、ふと顔を上げて母を見た。


「待って。じゃあ、菜月にも月命がいるってことだよね?」


「ああ。それが、お前だよ」


 そう言って母は遥人の方に笑顔を向けた。しかし、すぐにその笑顔を消して横を向く。


「いや……お前だった、と言うべきか」


「だった?」


「そう。今は違う。……いや、もう二度とそうなることはない」


「ど、どうして……」


 そう尋ねると、母は下を向いてしばらく黙っていたが、ゆっくりと顔を上げて悲しげな顔をすると、首を振った。


「お前が月姫との絆を破ったからだよ」

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