(11)

 研究棟の外には、逃げてきた先生や学生たちが集まっていた。そこに遥人と友恵が出てくると、その周りに何人かが集まってきた。


「遥人。大丈夫か」


 前口が声を掛ける。それに頷いて答えてから、そこにいる人々を見回した。


「先生は? 鳥井先生は?」


「先生はまだ来ていなかったんじゃないか」


「いや、僕は朝に、3階の研究室で先生に会ったんだ! さっき、煙も先生の研究室の方から出ていて、とても近づけなかった」


 そう言って建物を見上げると、3階のいくつかの部屋から黒煙と炎が見えていた。その時、サイレンの音が近づいてきた。見ると、近くの車道に消防車や救急車が何台もやって来ている。そこから消防士が遥人たちに近寄ってきて尋ねる。


「大丈夫ですか。まだ、建物内に残っている人はいますか」


「います! たぶん3階の階段の先の一番奥の部屋です」


 消防士は頷いて何人もが建物内に走っていく。それと同時に遥人たちも建物から遠ざけられて規制線が張られた。消防車からは放水も開始されていく。その間に、救急隊員が建物から逃げてきた人々の様子を確認していく。


 しばらくして、入口付近から、消防士が担架を持って出てくるのが見えた。そこには誰かが乗せられている。


「あれ、鳥井先生じゃ……」


 研究室の男子学生がそれに気づいて言った。確かについさっき会った先生が着ていた緑色のシャツの袖と白髪が見えたような気がしたが、顔まで毛布がかけられ、やや離れてもいるのでよく分からない。担架は救急車に乗せられ、すぐにサイレンとともに走り去っていった。


 しばらく消火作業を見守っていた。その間に救急隊員が手当をしていく。友恵はかすり傷を負ったようで、担架に座ってガーゼを当てられていた。その時、後ろから声を掛けられた。


「ちょっといいですか」


 振り返ると、いつの間にか警察官が2人、遥人の前に立っていた。


「火事のことを聞きたいんですが」


「えっ……何ですか?」


「ちょっと手を出してもらっていいですか」


 警察官に従って手を差し出すと、その一人がそこに顔を近づける。そして、再び遥人の方を見て尋ねた。


「あなたは、火事の時、どこにいたんですか?」


「3階にいました。そうしたら、すごい煙が出ていて……」


「ほう……。ちょっと、向こうで詳しい話を聞かせてもらえますか」


 もう一人の警察官から声が飛んできた。


「ど……どういう事ですか」


「ガソリンのような臭いがしますね」


 そこでハッとした。確かにどこからか、ガソリンスタンドで嗅ぐような臭いがしていた。


「ちょっと、この火事は火の回りが速すぎる。よく調べる必要がありそうでね」


 そう言われた瞬間、後ろから両腕を強く掴まれた。ハッとして振り返ると、別の警察官がそこで睨むように立っていた。いや、それだけではない。その周りも含め、既に5人ほどの警察官に囲まれている。しかも、彼らは怖いくらいの無表情だ。


(何だ、こいつらは……)


 とてつもない殺気のようなものを感じ、全身に鳥肌が立つ。その時だった。突然、遥人の右腕を掴んでいた警察官の体が数メートル先に吹っ飛んだ。


「遥人っ、逃げろ!」


 その声の方を見ると、そこにはあの春樹が立っていた。彼は、遥人の左腕を掴んでいた警察官に近づき、力ずくでその手を離した。


「コイツ! 何をする!」


 周りの警察官が春樹を取り囲む。


「お前は早く行け! いいから!」


 再び春樹が叫んだのを合図に、遥人は自宅アパートの方に向かって、ペデを全力で走り始めた。


(一体、どうなってるんだ……)


 後ろで「アイツを捕まえろ」という声とともに、春樹の叫び声のようなものも聞こえてきた。しかし、振り返らずに全力で走っていく。


 再び頭がガンガンと痛む。研究棟で火事が起きたことも、警察に囲まれたことも、そして春樹という男に助けられたことも、全て夢のような気がした。まだ、自分は眠っているだけなのではないか。もうすぐ目が覚めて、全て夢の中の出来事だったと安心できるのではないか。


 その時、スマホの着信音が鳴った。しばらく無視していたが、音が止まないので、一度立ち止まって通話ボタンを押す。


 電話口からは大森の声が聞こえてきた。


『お前、今、どこだ?』


「あの……ペデにいますけど」


『そうか。朝からパトカーの音が近くで聞こえると思って外に出てみたら、お前のアパートの辺りにパトカーが何台も止まっていて、凄い人数の警察官がいたぞ。お前の車も調べていたようだけど、何かあったのか』


 警察、という言葉を聞いて、一気に力が抜けていく気がした。何かが自分の身に起きている。それが何なのかは分からないが、確実に自分を捕えようとする見えざる手が、目の前に迫ってきているのをはっきりと感じた。


「大森さん……僕を、信じてくれますか」


『信じる?』


「僕は警察に追われるような事は絶対にしていません。もし、それを信じてくれるなら、すぐに野球場の横の駐車場まで車で来てもらえませんか」



******



 遥人がその駐車場に着いてから数分経った頃だった。駐車場に、低いマフラーの音を立ててシルバーのスポーツカーがやって来た。車は遥人の前で止まると、運転席から大森が降りてきた。


「遥人。一体どうしたんだ。服が真っ黒じゃないか」


 その大森に駆け寄り、遥人は頭を下げる。


「大森さん、お願いです! しばらく車を貸してください」


「車を……?」


「僕には……今すぐ、どうしても、行かないとならない場所があるんです。ここで捕まる訳にはいかないんです!」


 お願いします、ともう一度頭を下げて、必死に大森に訴える。彼は驚いたようにしばらく遥人を見つめていたが、やがて静かに言った。


「お前……何か、変わったな。……そうか。あの子だな」


 大森はニヤッとすると、遥人の肩をバシンと叩いた。


「分かったよ。どこでもいいから早く行け! 警察に追われるなんて、なかなか面白いぞ。ただし、車は汚してもいいけど、安全運転で頼むぜ」


 大森はハハハと笑って、遥人を運転席に促す。大森の車の助手席には乗ったことがあるが、運転席はもちろん初めてだ。車内は綺麗に掃除され、芳香剤の香りが漂っている。黒いハンドルを握り、運転席から大森を見上げて言った。


「大森さん……本当に、すみません」


「別にいいさ。……何か、お前みたいにハブにされる奴を見捨てられないんだよな。俺も昔、いじめられてたからかな」


 思わず息を呑んだ遥人に彼は背を向けると、「じゃあな」と手を振ってそのままどこかに歩いて行った。その後ろ姿をしばらく見つめ、もう一度頭を下げてから、遥人は車のアクセルを踏んだ。



 その車は、遥人の軽自動車より車体は大きいが、思ったほど違和感は無かった。ただ、エンジンは全く違う。アクセルのレスポンスも良く、ターボの加速でシートに押し付けられる感じもある。大通りを南に向かってしばらく車を走らせてから、信号待ちをしていた時に、スマホの電話帳でメモリを探した。掛ける相手の名前をしばらく見つめてから、通話ボタンを押す。


 何度か呼び出し音が続き、4回目でようやくそれが切れた。


『はい』


「僕だけど」


 遥人はそれだけ言って黙った。相手も何も話してこない。沈黙が続いていたが、青信号で前に停まっていた車が動き出したのを見て、遥人は口を開いた。


「今から帰るから」

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