(10)

 研究棟の1階に戻り、鳥井ゼミの説明会の会場となっている教室に向かった。そこは20人ほどの席がある小さめの教室で、研究室の学生と思われる男子学生が資料を机に準備しているところだった。


「どうぞ。席は自由です」


 既に前方の席には資料が置いてあったので、遥人はその一つに座った。教室の時計は9時を指している。その時、スマホがブルブルと振動した。ドキッとして画面をみると、前口からの電話だ。


「もしもし」


『起きてるか? もう9時になるぞ』


「ああ、大丈夫。もう会場に来てるよ。ありがとう」


『何だよ。早いな。俺ももう少ししたら着くから』


 前口はそれだけ言って電話を切った。遥人は大きく深呼吸する。さっきから頭がガンガンとしていた。徹夜明けということもあるだろうが、それだけではない。


(どういうことだ……?)


 先ほどの広報誌をもう一度見つめる。何度見ても、そこには「撮影者 猪野遥人」という文字がそこに書かれている。確かに、同姓同名ということはあり得るだろう。そして、菜月はその男と同姓同名の自分と付き合い始めたのだと。


(あり得るか……いや)


 そんなことがあるはずがない。しかし、遥人自身、初めて真月村に行ったのはつい最近のことだ。それまで聞いたことすら無かったその村の2年ほど前の広報誌に、自分が撮ったという写真が載っている。しかもそれは、つい最近出会ったはずの菜月をモデルにしているのだ。


 それに、菜月だって同じだ。彼女だって遥人のことを全然知らなかった。そこまで考えてハッとする。


(そういえば、菜月は……記憶が少しおかしくなっていた)


 この前、真月村に行った時も、最初、彼女は遥人の事を忘れていた。やがて思い出してくれたのだったが、もしかすると、遥人自身も、それと同じように記憶に何らかの問題があるのではないか。友恵の事だってそうだ。逆に、友恵とは付き合っていると思っていたが、よくよく考えると彼女と恋人としての思い出は無かった。同じように、理由は分からないが、本当は菜月との思い出があるのに忘れてしまっているだけなのではないか。


 遥人はスマホを手に何度も菜月に電話を掛ける。しかし、どうしても繋がらない。胸の鼓動だけが気持ち悪いほどに高まっていく。ようやくそれを一度諦めて、深呼吸してから、気持ちを鎮めるように、先生のファイルをめくった。


 ファイルの中の透明なポケットには、写真やパンフレット、雑誌や新聞の切り抜きなど様々な資料が入っている。


 それらに目を通していくと、向日葵の写真の前で撮った集合写真を見つけた。それは、真ん中に鳥井先生が座っていて、その周りに10名ほどの若い男女が囲んでいる写真だ。先生の髪はまだ黒く、顔も若々しい。写真は紙に貼り付けてあり、その紙に「20XX年7月30日」と日付が書かれている。先生も笑っているが、周りの若者たちも全員笑顔だ。


(あれ?)


 ふと、視線が一点に集中する。そして、もう一度、その写真を見つめた。先生の顔から、写っている若者たちの顔を指でなぞっていく。すると、一人の顔のところで指を止めた。


「おはよう。……何だ、それ?」


 急に声を掛けられてハッとしてその方を振り向いた。そこには前口が立っている。


「な……何でもない」


 慌ててファイルを閉じると、前口は不思議そうに隣の席に座った。


「大丈夫か、遥人。顔が真っ青だぞ。調子でも悪いのか?」


「いや、ちょっと……寝不足かな」


 そこでスマホの画面を見た。まだ、説明会開始まであと20分ほどある。遥人はリュックにファイルを入れて立ち上がった。


「ちょっとトイレ行くよ。すぐ戻るから」



 ******



  3階の鳥井先生の研究室に走っていく。先ほど見た写真のことで、どうしても先生に確認したいことがあったのだ。そして、階段を上がっていく途中だった。


 ジリリリリ!


 急に警報音が建物内に響きわたる。3階に上がり、廊下の端の方を見ると、一番奥の方からモクモクと黒い煙が湧き上がっている。


「先生!」


 必死に叫びながら走っていくと、その煙の中から咳込みながら誰かが出てきた。先生だと思ったが、その姿を見てハッとする。


「と、友恵?!」


 彼女は煙の中から姿を現して、廊下に倒れ込む。後ろからは黒煙とともに、赤い炎の姿も見えた。相当に火が回っているようだ。遥人は倒れた友恵の体を引きずるように煙から放して、その体を揺らした。


「友恵! しっかりしろっ!」


 すると彼女は、少しずつ瞳を開ける。


「は……遥人」


「どうしてこんな所に」


 そう尋ねた時、煙がすぐそこまで近づいてきた。


「歩けるか?」


「う、うん……私、一体、何を……」


「いいから! とにかく逃げよう」


 遥人が友恵に肩を貸すと、彼女は立ち上がった。その時、後ろから煙が近づいていることに彼女も気づいた。


「煙が……」


「大丈夫。まだ間に合うよ」


 遥人が声を掛けると、友恵も必死に歩き始める。そして、二人で廊下を進み、階段を下りていった。

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