第9話 宣戦布告


「母上がお亡りに」

「そう。八年前にね。それからは母さんの父さん……じいちゃんと、犬と三人暮らし」


 放課後、レッスン室に二人で柔軟をしつつ栄治は誰にも話したことはない——それこそ先輩にも話していない家庭の話をした。

 鶴城の家の事情に口を挟むのなら、それが義理だと思うので。


「父君は?」

「俺が生まれる前に消えたよね。だから俺のこと、母さんは本当に嫌いだったみたい」


 妊娠を聞かされて逃げた男のことなんて、思い出すのも嫌だろう。

 それなのに、成長すればどんどん、生き写しのように似てくる息子を前に——母は本当に狂う直前だった。

 日に日に引きつっていく笑顔を見ながら、「ああ、母は自分が嫌いなんだな」と思うようになったのを覚えている。

 笑いかけない方がいいのなら笑いかけないように。

 話しかけない方がいいなら、話しかけないようにして。


「栄治はその頃から優しかったんですな」

「そうかな」

「そうですよ」


 母はシングルファザーの父に育てられたので、父と別れてから実家に帰って栄治を育てていた。

 祖父が散歩から帰ると栄治が首を括った母を見上げていて、さぞ驚いたことだろう。

 今思っても申し訳ない。

 そのあとは病院に連れて行かれて、その間に祖父が母の遺体を警察と下ろして葬式まで行った。

 記憶が朧で、ちゃんと見送った気がしない。


「父君を捜そうとは思わないのですか?」

「興味ないんだよね。でもガキの時にそんなに似てたなら、今はもっと似てるかも」

「なるほど。では見かけたら殴っておきます」

「いらないいらない。炎上するようなことしなくていい」

「そうですか? では名前と住所だけは調べておきましょう」

「マジで興味ないからいいっつーの」


 心にもない“怒り”まで再現する。

 本当に可哀想な男だと思う。


「ですが、納得しました。栄治はだから自分の顔が嫌いなのですね」

「でも使えものは使うよ。生活して行かないといけないからね。本当は母さんに、『なんで連れてってくれなかったんだろう』って思ってたけど……母さんは俺の顔が嫌いなんだから、連れて行きたいわけがないんだよね」

「そうですな」


 こんなにわかりやすく拒絶されて、それでも“心”は連れて行ってほしい。

 そう思っていたが、母もさぞや迷惑だろう。

 ずっと、母に拒絶されている。


「栄治の自己肯定感の低さの理由は、母君に否定されているからですか」

「で? そっちは?」

「まあ、簡単な話、叔父がアルコール中毒ですな」

「あー、なるほどー」


 アルコール中毒は治療しても、結局は本人の意思に帰結する。

 本人が直そうとしなければ、抜け出すことは無理だ。

 それも相当に強い意志が必要。

 従姉妹の姉妹はその男の娘たちだが、母親には逃げられて置き去りにされた。

 それを鶴城の両親が引き取り、住まわせている。

 鶴城家も子どもが多いのに、酒代に勝手にお金を持ち出す叔父のせいで生活費が足りず、一晴が「役者になりたい」と言って有名な劇団のオーディションを受け、死に物狂いで働いてきた。

 そのお金で弟たちを学校に通わせ、生活は最低限。

 自宅には畑を作って、食糧はそれで賄っている部分も大きい。

 逞しすぎる。

 時代が本当に現代ではないかのようだ。


「しかし都会だとなかなかに難しいです」

「そうだろうね。でも、歌と踊りができるようになれば、鶴城は2.5次元とかも狙えそう」

「2.5次元……! 最近話題のやつですな! なるほど! それは盲点でした!」

「逆になんで?」


 むしろこの顔と声とこの佇まいとその経歴でそれを思いつかないのが謎である。

 刀の擬人化したやつとか、絶対に似合うだろう。

 先輩たちもそれを見据えて、鶴城を星光騎士団に誘っているはずだ。

 なんで当人が一番わかっていないのだ。


「そう思ったら俄然やる気が出てきました! ありがとうございます、栄治!」

「じゃあ見ててあげるから歌ってみ。振付はつけなくていいから」

「うっ! わ、わかりました。では! 見ていてください!」

「はいはい」


 スマートフォンで音楽をかける、マイクがわりのダンボールの棒を手渡し、前奏が終わって息を吸い込む鶴城。


「ボエーーーーー!」

「…………」


 頭を抱えた。

 しかしこれでもだいぶマシにはなっている。

 驚くべきことだが、マシにはなっている、本当に。


「喉に力入りすぎだよね。曲を聞け。タイミングは悪くなかったけど、音程外れすぎてるしそんなに大声を出さなくていいんだけど」

「うっ」

「ちょっとイヤホン貸してあげるから、聴きながら歌ってみなよ。歌詞覚えてるならその方がいいんじゃないの」

「わ、わかりました」


 一度曲を止めて、イヤホンを貸してやる。

 こちらは音楽が聞こえなくなるが、鶴城の歌を聴くのが目的なので構わない。


「これが終わったら俺帰るから」

「え! あ、生活スタイルは変えたくないのでしたか」

「そうだよ。犬の散歩と、じいちゃんの夕飯を作らなきゃいけないの。今日牛乳の特売日だし、ポイントカード二倍の日だしね」

「それは——重要ですな……!」

「そうだよ」


 座って聴く体勢になると、ようやく鶴城が比較的まともに歌い出した。

 本当に、だいぶマシになったものだ。

 これなら明日も聴ける範囲になる、かもしれない。

 くれぐれも振付まで入れようと思うな、歌に専念しろ、というレベルだが。


「じゃ、帰るね」

「イヤホンありがとうございました」

「別にいいけど、その代わり明日は歌に集中してよね」

「そ、そうします」


 最後に忠告だけしてからイヤホンを返却され、じっと鶴城を見つめた。

 ビクリと驚かれたが、問題はなさそうだ。


「明日は」

「はい?」

「俺が焦らせてあげるから」

「……は? はあ?」


 宣戦布告だけして、鞄を抱えて帰宅する。

 牛乳は買えたし、シチューは上手くできたと思う。


「あと一踏ん張り頑張りますか」

「クァー」


 いいあくびをしてくれる犬である。

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