第8話 自覚


「できた……ズボンだけだけど……」

「ウーン!」

「うん、行こうか。朝散歩」

「ンンン」


 隣で座っていたマヨが立ち上がって体をぶるぶると震わす。

 この寸胴体がぶるぶるしても、体幹がしっかりしていて胴体がぶれないのが可愛い。

 思わずもふり、と体に触れて撫で回す。

 ブルテリアはシングルコートなので抜け替わりはなく、週に二回濡れタオルで拭いてやるだけでいい。

 手入れは楽だが、元闘犬なので運動量は普通の中型犬よりは多めだろう。

 それに拾った当初は気性が荒くて大変だった。

 元飼い主は、それを知らずに飼ったのだろうか。

 本当に思い出すだけで腹が立つ。

 抱き締めればこうして尻尾をパタパタ振る、こんなに可愛いのに。

 ジャージに着替えてリードをつけて、散歩セットのショルダーを背負ってランニングシューズを履く。


「ふあ」


 珍しくしっかり夜更かししてしまったし、朝早く起きすぎた。

 睡眠時間はしっかり取るようにと、先輩に言われていたのに。

 けれど明日の朝には完成しそうだ。

 自分にできることは全部やりたい。

 負けたくないし、負けられないと思う。

 走っていると半分寝ていた脳みそも起きてくる。

 河辺のドッグランでマヨを運動させつつ、栄治も軽い柔軟体操。

 満足したマヨを連れてまたランニングで帰宅し、朝ご飯とお弁当を作る。

 作り終わったら着替えて祖父を起こす。

 一緒に朝食を取って、食べ終わったら食器を食洗機に入れる。


「昼飯は冷蔵庫に入ってるから、あっためて食べて。マヨには人間の食べ物食べさせちゃダメだからね」

「わかっとるわ。気ぃつけて行ってこい」

「うん。マヨもじいちゃんをよろしくね」

「ワン!」


 いよいよ前日。

 だから生活を変えることはないけれど。


(教室は日に日に地獄と化しているんだよねぇ)


 登校して教室の扉を開けると、歌詞を覚える姿がテスト前の一夜漬けに苦悶する姿そのものでドン引きする。


「おはようございます、栄治」

「おはよ」


 対する鶴城は余裕の笑み。

 コツを掴んだのだろう。

 しかし、左腕に右手を載せている。


「……痛めたの?」

「え?」

「腕」

「っ……」


 これには珍しく驚いた顔をされた。

 わからないと思ったのか。

 鞄を下ろして、中からテーピング用のテープを取り出す。


「出せ」

「栄治は時々エスパーなのでは、と思う時があります。あとなんでそんなの持ち歩いているんですか?」

「ランニングの時たまに痛めたりする時あるから。……っていうか、これは保健室と病院で手当してもらうレベルじゃん。休み時間になったら保健室行きな」

「すみません……そうします。ありがとうございます……」


 とても“幸いにも袖で見えないところ”などと軽口も叩けない。

 青く腫れていて、わかりやすい内出血。

 強めにぶつけたか、殴られたか。


「——昨日、振付頑張りすぎたからじゃない?」

「! ……は、はい、そうですね」


 たとえどんなに一夜漬け空気でも、何人かは鶴城の怪我に興味を持っている。

 ちらちらとした視線に気づいて、わざと「振付」と言ってやった。

 鶴城はこれで「振付の練習中に転んでぶつけた」と言い訳が立つし、クラスメイトたちは「振付?」「もう振付?」「振付まで?」と衝撃に見舞われる。

 歌詞を覚えるのに必死な彼らにしてみたら、振付はワンランク上の課題だ。

 現時点で、振付まで到達しているのはやはり栄治と鶴城のみ。

 隣のクラスも似たようなものだろう。


「明日が本番なんだから、今日は大事を取って休みなよ。先輩たち、今日は朝から収録で出かけてるって言ってたし」

「そ、そう、ですね……歌の方を仕上げます」


 実際その方がいいと思う。

 振付はあくまで『歌詞を完璧に覚えて歌える』までいったあとの作業だ。


(おお方“おじ”が原因なんだろうなぁ)


 もちろん口には出さないけれど。

 この男なら幼い兄弟や従姉妹の姉妹を守るために、身を挺するくらいはするだろう。

 そういう“素晴らしい兄”なのだから。


(あ、また腹が立ってきた)


 この気持ちは、マヨに対するものに似ている。

 つまり、栄治はいつの間にか、鶴城に対しても慈しみの心を向けていたのだろうか。

 それにはとても驚いたけれど、問題はそこではない。

 鶴城の家の事情に首も足も突っ込むほどお人好しでもなければ、お節介でもないし、なにより“友達”でもないのだ。

 鶴城一晴が築いてきたものを壊す権利もなければ、腹を立てる必要も義理も恩もない。

 でも、栄治は知ってしまった。

 ちゃんと調べれば飼い方はわかるだろうに、なぜか捨てられたマヨを知っているし愛おしいと思っている。

 鶴城の生き方を否定する気はないけれど、それでも、やはり。


「栄治、そんなに怒らないでください」

「俺、そんなに顔には出ないんだけど?」

「はい。でも、わかりますよ」

「……はぁ」


 こいつの方こそエスパーなのでは、と思う。

 鶴城に比べれば顔に出る方だろうけれど、それでも普通の人間には絶対にわかりづらい。


「栄治は優しいですね」

「薄寒」

「なんだか栄治に罵られると、開けてはならない扉を開けそうになりますね」

「一生開けちゃダメだからね、その扉」


 にこ、と整った顔でなにを言い出すのか。

 鶴城一晴のファンに殺される。

 テーピングテープをしまって、鞄をロッカーに放り込んでくると、「では優しくしてください」と言い出した。

 その時は、顔に出ない栄治がわかりやすく、それはもう前面に不快感を出した表情を曝け出したと思う。


「きっも……」

「これは時間の問題ですなー」

「本当やめて」

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