第六話「目を開けて最初に君を見た」

「はい、春太さん。冬華はここにいますよ」

「えっ……?」


 聞こえるはずのない声に、思わず不自由な体を起こしベッドサイドを見やる。

 そこには、いるはずのない少女の姿があった。


「えっ……冬華?」

「はい。貴方の冬華はここにいますよ、春太さん」


 ニッコリと、春の優しい日差しのような笑顔を浮かべる冬華。

 制服を着ているところを見るに、どうやら学校帰りのようだ。

 以前にも見たが、胸に校章らしきワッペンの付いた濃紺のブレザーは、彼女によく似合っている。

 トレードマークであるヘアピンは、学校用なのかいつもより飾り気がないシルバーのシンプルなもの。だが、それが逆に制服姿の魅力を引き上げているように見えた。

 このままステージに上げても通用するくらいの可憐さだ。


「――って、そうじゃなくて! 冬華、どうして俺の部屋にいるんだ!? ってか、どうやって……ゴホッゴホッ!」

「は、春太さん!? 大丈夫ですか? まだ安静にしていないと駄目ですよ」


 「どうやって俺の部屋に入ったんだ?」と尋ねようとして、盛大にむせてしまった。

 すかさず冬華が駆け寄り、背中を優しくなでてくれる。

 ……むちゃくちゃ柔らかくて温かい小さな手の感触に、体温が更に上がる。


「す、すまん。もう大丈夫だ」

「いいえ、こちらこそ驚かせてしまったみたいで、すみません」


 そのまま、冬華に優しく介助されながら、再びベッドに横になる。

 シャンプーの残り香なのか、むちゃくちゃいい匂いがして不覚にもどぎまぎした。


「万里江社長さんから春太さんの様子を聞いて、居ても立ってもいられなくて、来ちゃいました」

「いや、来ちゃいましたって……。冬華、君みたいな若い子が男の一人暮らしの部屋に来たら、駄目――」

「春太さん、ご飯はちゃんと食べられてますか?」

「――えっ? あ、いや。今朝から何も食べてない、かも」


 ふと部屋のデジタル時計を見やると、既に夕方近い時刻だった。

 どうやら、気付かない内にひと眠りしていたらしい。


「そう思って、お買い物してきました。ちょっとお台所と食器をお借りしますね?」


 そう言うと、冬華はこちらの返事を待たずにキッチンの方へとトテトテと行ってしまった。

 小柄で痩せているが、どこか色気のある制服の後ろ姿に一瞬だけ魅入り、すぐに目を逸らす。

 いかんいかん。どうも自分の部屋に可憐な女子高生がいる、という異常事態を受け止め切れていないらしい。


 ――やがて、キッチンの方からは、春の小鳥のような美しい鼻歌と、包丁がリズミカルにまな板を叩く心地よい音が響いてきた。

 担当アイドルに――しかも十六歳の女子高生に、通い妻じみたことをさせている。そんな背徳感に、少しだけいたたまれない気持ちが湧いてくる。


(そもそも、これは現実なのか?)


 心の中で独り言ちる。まだ熱が大分あるらしく、頭はうまく働いてくれない。

 冬華が部屋に来ていること自体が、俺の内なる願望が見せる白昼夢なのではないか? という益体もない妄想まで浮かんできてしまう始末だ。

 キッチンの様子を見に行きたい気持ちもあるが、体はまだ上手く動かない。


 そのまま、夢見心地で待つこと十数分。


「春太さん、お待たせしました~」


 いつの間にか、可愛らしいフリフリのあるピンクのエプロンを身に付けた冬華が、お盆に乗った何かを運んできた。

 一人用の土鍋とレンゲと器。どれも俺の部屋に元からあったものだが、何故だかいつもより輝いて見える。

 土鍋の中にあるのは、どうやら「おじや」のようだ。


「これ、全部冬華が作ったのか?」

「いいえ。残念ながらお米はパックのおかゆです。あまり時間をかけない方がいいと思ったので」

「え、こんなちゃんとしたおじやが? パックのおかゆで?」

「はい。おネギと溶きタマゴ、あとは鶏がらスープを少しだけ足して、味を調えてあるんです」


 土鍋の中に鎮座しているのは、見本にしたいくらいにきちんと作られたおじやだ。

 これが市販のおかゆをベースにしたものだとは、俄かには信じがたかった。俺なんて、レトルトカレーでさえ不味そうになっちゃうのに……。


 冬華は、お盆をベッド脇にある折りたたみテーブルの上に置くと、おじやを少量だけ器に盛った。

 そのまま、俺に器を手渡す――ことはせず、レンゲでおじやを掬うと、冷ます為に「フゥフゥ」と息を吹きかけてから、おもむろに俺の前へと差し出した。

 ま、まさか、これは……!?


「はい、春太さん。あ~ん、してください」

「――っ!? い、いやいやいやいや、冬華、これは流石にまずいだろう」

「? 味見はしてありますけど?」

「いや、そっちのまずいじゃなくて……ううっ」


 不思議そうに首を傾げる冬華。差し出されるレンゲ。湯気を立てる旨そうなおじや。

 俺は観念して、口をあーんと開けて身構えた。

 ややあって、冬華の白魚のような指に導かれたレンゲが、俺の口内へと差し込まれた。

 そのまま、口を閉じておじやを口に含む。

 冬華がレンゲを優しく口の中から引き抜き――名残を惜しむように、ツゥっと唇とレンゲとの間に唾液のつり橋がかかる。


 ただ、おじやを食べさせてもらっただけなのに、何故だか俺は、イケナイことをしたような気分になってしまった。


「どう、ですか……?」

「――旨い! とても市販品がベースとは思えないよ!」


 俺が素直な感想を漏らすと、少し不安そうにしていた冬華の表情が、再びぱぁっと花咲いた。


「まだまだありますから、ゆっくり食べてくださいね? はい、あ~ん」


 気を良くしたのか、冬華は上機嫌に次なるレンゲを繰り出してきた。

 仕方なく俺は、担当アイドルが手ずからおじやを食べさせてくれるという、この背徳的な状況を、しばらく甘受するのだった――。


   ***


「――あれ?」


 ふと目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。

 暗闇に浮かび上がるデジタル時計の表示は、午後九時を指している。いつの間にか夜になっていたようだ。

 熱はだいぶ下がったのか、体の調子は幾分か楽になっている。自力でトイレくらいは行けそうな感じだ。


「冬華?」


 甲斐甲斐しくお世話をしてくれていたはずの少女の名を呼ぶ。が、返事はない。

 それはそうだ。冬華は実家暮らしだ。しかも、結構しっかりした家の。

 こんな夜遅くまで独身男の家に留まることを、ご両親が許すはずがない。

 俺が眠ったのを見届けて、帰ったのだろう。


「後で、ちゃんとお礼言っておかないとな」


 一抹の寂しさを感じながら、体を起こす。うん、どうにか部屋の中を歩くくらいは出来そうだ。

 そのまま、「よっこらしょ」等とオッサンくさい声を出しながら立ち上がり、トイレへと向かう。

 その途中、キッチンが目に入った。綺麗に片付いている。生ごみなども残されていない。

 もっとも、普段から殆ど料理をしないので、元々綺麗なものだったのだが……。


 冬華の作ってくれたおじやの味を思い出す。

 市販品をベースにしたものだとは言っていたが、きちんと「手作り」の味がした。家庭の味というやつだ。

 あんな気持ちが温かくなる食事をとったのは、一体いつ以来だろうか?

 もし、冬華のような女の子が毎日食事を作ってくれたなら、それだけで幸せな気持ちになれるだろう。


「……って、俺は何を考えてるんだ。相手は高校生だぞ」


 頭の中に湧いた邪な妄想を、慌てて振り払う。

 男という生き物は、基本的に自分へ好意を向けてくれる異性に対してはもの凄くチョロくなる。

 相手が年下の美少女ともなれば、なおさら。

 どうも俺は、自分で考えていたよりもずっと、冬華に「攻略」されかけているらしい。これが乙女ゲーだったら、俺の好感度ゲージはマックス手前になっているかもしれない。


 気を引き締めながらトイレに入る。

 ――と。


「あれ? 俺が穿いてたパンツ、これだったっけ?」


 ズボンを下ろしたところで、違和感に気付く。今穿いているパンツが、昨晩に取り替えたものと違う気がしたのだ。

 昨日の時点で既に高熱が出て朦朧としていたので、もしかしたら記憶違いかもしれないが。


 狐につままれたような気分のまま用を足し、ベッドへと戻る。

 すると、スマホにメッセージが届いているのに気付いた。万里江からの「具合はどう?」というものだった。

 そのままメッセージを返しても良かったのだが、何となく文字を打つのが億劫なので電話をかける。


『あ、もしもし春太? その後、具合はどう?』

「お陰様で、大分落ち着いたよ。明日にはまた動けると思う」

『ちょっと、駄目よ! お医者さんには二日くらい休めって言われたんでしょ? だったら、ちゃんと明日まで休みなさい』


 ぴしゃり、と叱られてしまった。

 普段はあんななのに、こういう時はしっかりと「姉」の顔をしてくる。俺が万里江に頭が上がらない理由の一つだ。


「分かったよ、姉さん。大人しくしてる。でも、だからって俺の部屋に冬華を送り込むようなことはやめてくれよ?」

『はぁ? なに言ってんの? 当たり前じゃない。いくら可愛い従弟相手でも、大事なアイドルちゃんを独身男の家に行かせる訳ないでしょ』

「……?」


 なんだろう。万里江の言葉にとてつもない違和感を覚える。

 どこか話が噛み合っていない。


「なあ、万里江姉さん」

『なによ』

「姉さんに預けてある俺の部屋の合鍵、きちんと持ってるよな?」

『当たり前でしょ。自分の部屋の鍵と一緒に、きちんと持ち歩いているわよ。それがなに?』

「ちょっと訊きたいんだけど……最近、合鍵を誰かに貸したことって、あるか?」

『はぁ? いや、いくらアンタの部屋の鍵だからって、他人から預かってる大事な合鍵を、また貸しなんてしないわよ私』

「――っ」


 サァっと血の気が引く。少し残っていた微熱も何もかもが消え去り、体の芯まで冷えるような感覚が襲ってくる。

 俺の部屋の合鍵は、万里江にしか渡していない。あとは、管理会社側のマスターキーくらいのものだろう。

 ならば、


『ちょっと、合鍵がどうかしたの?』

「……いや、なんでもない。やっぱりちょっと疲れてるみたいだ。明日はキチンと休むよ」

『そうしなさい、そうしなさい。ちゃんとゆっくり寝るのよ。じゃ、おやすみ~』


 万里江との通話を終えると、部屋は一気に静まり返った。

 やや離れたところにある幹線道路の騒がしい走行音だけが、かすかに聞こえてくるのみ。

 

 口に手を当てる。

 確かに、冬華が作ってくれたおじやの感触が残っている。だが、口内には既に味の名残はない。

 あの時感じたシャンプーの残り香も。


「……寝よ」


 俺はそれ以上、考えることをやめた。

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