第九話 7月30日
7月30日
【今電車乗ったよ〜】
ポケットに入るスマホのバイブが鳴り、確認すると翠さんからだった。
僕は電車に運ばれ、2駅先の駅で翠さんとの待ち合わせに向かっていた。
【こっちはあと一駅で着くよ】
吊り革にぶら下がるように捉まり、ふと顔を上げて窓の外を見た。
いつだったろうか、電車の中にいる人たちがスマホばかり触っていて、ゾッとしたのは。
窓にうっすらと映る自分の姿は、いつしか見た光景の一部に近かった。
自分だってスマホばかりじゃないか、窓の奥にいる自分がそう伝えるように僕を見つめる。
僕はそっとポケットにスマホをしまい、再び鳴るバイブに気づかないふりをした。
終点の駅に到着した。
駅は出ずに、改札の正面、ホーム間の渡り道の端にて翠さんを待った。
ふと近くにあった窓に目を向け、そこから空を見上げた。雨は降りそうになかった。
流れる雲がゆったりと空を泳いでいる。まだ日が出ている、少し明るい時間帯だ。
改札の方からカードのタッチ音が鳴り止まない。
「おまたせー」
声の方を振り返ると、見知らぬ男女が待ち合わせていた。金髪に近い髪色をした女性と、耳にピアスを開けた男性だ。
手を繋いでホームの階段を降りていく二人の背中を、自然と見送ってしまった。
不思議と劣等感があり、ぼうとしてしまった。
「ああいう子がタイプなの?」
耳元で誰かが囁いた。
「うわ! びっくりした!」
反射的に振り返ると、浴衣を着た翠さんが少しだけ腰を折って立っている。
真っ白な色の中に、紫陽花が咲く浴衣を着て、大きな目を細めてニコッと笑う。思わず息を呑んだ。
「見て、これ! 泳いでるように見えない?」
そう言い僕に背を向けた翠さんの浴衣から、紅白の模様をした2匹の金魚が姿を見せる。
翠さんの右肩の近くにワンポイントで描かれ、紫陽花の咲く海を優雅に泳いでいる。
まるで揺れるドレスを着飾ったようなその姿が本当に浴衣の中を泳いでいるようだ。
「珍しいね、ワンポイントで金魚の描かれている浴衣って見かけたことないな」
翠さんは嬉しそうな顔をして、今にでも飛び跳ねるのでは、と思った。
「そうなよ! これお婆ちゃんが昔、特注で作ったらしいの! すごくない!?」
こんなとき何と言うのが正解なのか、迷った挙句僕はすごく似合ってるよと言った。
ニコニコと笑顔が治らない表情を見て、正解だったようで安心した。
「行こう、電車が来ちゃう」
僕の前を通りすぎ、ホームへ降りる翠さんの髪型は、頭の後ろでとても複雑にふんわりと結ばれ、頸をチラリと見せている。
この髪型を作るだけでも相当な時間がかかるのが伝わり、一緒に歩くのが自分で申し訳ないなと感じた。
「あれ、こっちで合ってる?」
急に振り返る翠さんに驚かされた。
「う、うん、合ってるよ」
心臓に悪いなと、胸を押さえた。
3番ホーム、いつもはあまり人がいないホームだが、今日はやたらと若い人が多い。
電車の到着するアナウンスがホームに響く。
「やっぱりみんな花火見るのかな?」
キョロキョロとホームを見渡す翠さんに、僕も周りを見渡すと、クラスメイトの女子達が私服で電車を待っているのを見つけ、会いたくないなぁと心が嫌悪した。
「ちなみに今日の私はどう? 何点?」
僕が見つからないようにしたく、意識がクラスの女子達に向いていた。
翠さんが僕に話しかけたのは分かったが、僕は無意識に答えてしまった。
「翠さんはいつも可愛いしいつも満点だよ」
チラチラと僕に気づかないでくれと祈りながら横目で見ていたが、自分の発言に気を戻した。
あれ? 今、自分……なんて言った……?
翠さんの顔から火が出そうなほど真っ赤になっている。
勢いよく電車がホームに入り込み、僕らの前に風を起こした。俯く翠さんの前髪が風でユラユラと揺れている。
数秒前の自分を思い出すと、僕の顔にも熱がこもった。
「ごめん、変な意味じゃないから……!」
「嘘なの……?」
大きな瞳で僕を見つめる。
目を合わせられなかった。
「嘘……では……ないけど……」
首元に手を添えて横目で翠さんに目を向けた。まだ僕を見ている。
「無意識に言ったことだし……本当だよ」
電車の扉が開いた。乗り換えの駅ということもあり、多くの人が降りた。
扉の両端にいる僕らは、人が降り切ると電車へ乗り込んだ。
僕らは運良くちょうど空いた席へ座り、ちょっとだけ気まずい時間が流れた。
「そういえば翠さんのおばあさんはどんな人なの……?」
「そうだなぁ。諦めの悪い人だったってお爺ちゃんは言ってた。お婆ちゃん、お爺ちゃんに恋して11年もアタックしてたらしいよ」
「11年!?」
「そう、すごいよね。それで二人が初めてデートしたのが夏祭りらしくて、金魚掬いで2匹持ち帰ったらしいの。それで、お爺ちゃんがお婆ちゃんに浴衣をプレゼントする時に、この金魚の模様を入れたんだって」
ドラマチックな物語に、心が動かされた。
「だからお婆ちゃんがよく言ってたの。恋は実るまで努力しなさいって」
昔話を思い出してふふっと笑う翠さんに、僕も頬が緩んだ。
10分ほどで乗り換え先の駅に着いた。
「乗り換えだ、降りよ」
電車を乗り換え、先ほどよりも人がかなり増えた。
満員電車の中人混みに揉まれること10分、目的の駅へ到着した。
狭い駅の中、ホームから溢れそうなほどの人に、思わず自分よりも翠さんの方を心配してしまった。
「人多いから気をつけてね」
うん、と返事する翠さんの声が一瞬でかき消されるような物音と、人の歩く音だ。
カコッカコッと下駄で歩く音がそこらから聞こえてくる。そして僕の隣からもその音が聞こえていた。
「屋台でこれだけは食べたいってものある?」
こめかみの辺りから伸びる横髪を揺らし、ワクワクした表情を僕にちらつかせる。
「イカ焼きは絶対外せない」
昔から僕の好物だ。特に祭りのイカ焼きは絶品だった。
わかると声を漏らす翠さんに同じ質問をした。
「私はリンゴ飴。あの飴は屋台にしかない味」
わかると僕も同じ返答をした。
同時にぷっと吹き出し、僕たちは笑った。
ジジジジと蝉の鳴き声も耳に届かぬほどに、翠さんに五感が意識を向いていた。
空が僕らを取り囲むように広く茜色に染まる。
歩道を歩く人が若干増えてきた。
「たぶんめちゃくちゃ人いるから、逸れないでね」
僕は少しだけ歩幅を小さくした。
東の空が暗くなり始めている。
かろうじて空に明るさが残る頃、ようやく会場の公園へ着いた。
町の人口が一ヶ所に集まっているのでは、と疑うほどの人混みだ。
僕らは川のように流れる人混みに沿って歩いた。
しばらく歩くと、後ろを歩く翠さんが僕の袖を引っ張る。
「あそこ、狭いけど空いてない?」
幾つもレジャーシートが敷かれているあたりに僅かだが隙間が空いている。狭いが、二人で座るには十分だ。
小走りで場所を取りに行く翠さんに思わず声を出した。
「気をつけて!」
後ろ姿を追いかけようと踏み出すと、知らない人が翠さんの方を指を差している。
「あそこ空いてない? ……あ、取られちゃった」
見ず知らずのカップルも場所を探していた。
仮に僕らが来ていなかったら、この人達はあそこに座ることができたのだろう。そう考えると罪悪感が僕を襲った。向こう側で翠さんが手を振っている。
足の踏み場に気をつけながら、辿り着くと翠さんは首を傾げて僕に問う。
「どうしたの?」
僕は素直に口を開いた。
「いや、知らないカップルがここを指差してたんだけど、何だか申し訳ないなって思っちゃって……」
ふふっと笑う翠さんが優しい表情で僕に言葉をかける。
「優しいのね。大丈夫だよ、その人達は。たまたま運が悪いところを見ちゃっただけで、どこかで幸せを感じているものだよ。それに私たちのおかげでもっといい場所を見つけるかもしれない」
前向きな思考が僕のモヤモヤを優しく潰した。
「そっか、ありがとう。ごめんね、変なこと言って」
「ほんとだよ! これは今日奢りですかな」
ニヤッと口角を上げる表情を見て、言葉に詰まった。
「あはは、嘘だよ。レジャーシート敷いて何か買いに行こ?」
麦藁色のかごバッグを開こうとする翠さんを見て、僕も自分の鞄のチャックを開ける。
「あ、レジャーシート持ってきたよ」
二人で同時に取り出すと、目が合い、二人で笑い出してしまった。
結局僕のレジャーシートを使うことにした。
大きめのサイズを半分に折り、三人ほど座れるくらいの広さを確保した。
風で飛ばされないよう、貴重品を持ってカバンを置いていく事にした。誰かに取られませんように、と翠さんがボソッと呟く。
その場を後にして出店がずらりと並ぶ人混みへ戻る。お面を付ける小さい子、集団でワイワイとする男子中学生、浴衣で手を握り合うカップルなど、多種多様な人達にぶつかりそうになる。
焼きそば屋からモクモクと立ち上がる煙、水の上を優雅に泳いでいるヨーヨー、テーブルの上に行列を作るチョコバナナ、すべてが新鮮で懐かしく、刺激的だった。
「どこから行く? それとも制覇しちゃう?」
「制覇は……え、できるの?」
笑いながら冗談だよと言うと、金魚掬いの屋台を見て走り出してしまった。
ゆっくりと歩いて追いかけると、金魚の泳ぐ屋台の前でしゃがみ込んだ。親子や小学生がワイワイと楽しんでいる。
馴染むように溶け込んでいる翠さんの後ろから、金魚掬いをするのか訊くと、横に首を振った。
ブクブクとチューブから出る泡に群がる金魚を見て、翠さんは立ち上がり、行こう、そう一言だけ言った。
「やりたかったんじゃないの?」
首を横に振った後に翠さんは言葉を使う。
「金魚を見るのは好き。綺麗だし、可愛いから。けど金魚掬いをしちゃうと、それを全部否定しちゃうみたいな気持ちになっちゃうから」
そっか、とそれだけ僕は言った。それ以上に言葉が必要ないと思った。
人混みに流れるように歩くと、イカ焼きの香ばしいタレの匂いが鼻に着く。
人が多くて屋台の看板が見えなかったようだ。
「イカ焼き寄っていい?」
僕の言葉に翠さんも屋台に気が付く。
「すごくいい匂い……。私も食べようかな」
僕らが屋台に近寄ると、強面のおじさんが鉄板に並ぶイカにタレを塗っている。
「私はゲソにしようかな」
財布を胸の前で大切そうに持つ翠さんは、ずらりと並べられているイカに真っ直ぐ瞳を向ける。
「僕も断然ゲソ派」
じゃあゲソ二つだねと言い、店主に翠さんが注文すると、店主がイカを焼き直し始めた。
お金を店主に渡し、熱々でタレが滴るゲソを道の端によって噛り付いた。
甘いタレがイカの吸盤の隙間までにも絡みつき、口の中で熱と香りが広がる。嗅覚までもが味を感じているようだ。
「今何時だろう」
イカの刺さる竹串を片手に、スマホで時間を確認した。6:56と表示された。
あと30分くらいで花火が始まる時間だ。
5分過ぎほどで僕らはイカをお腹の中へ入れ、ごみを屋台横のごみ袋に入れると、近くにチョコバナナの屋台がある事に翠さんが目を輝かせながら気が付く。
屋台の前に行くと、チョコ色、水色、ピンク色にコーティングされたバナナが割り箸に刺され、こちらもずらりと隊列を組んでいる。
店主のおばちゃんとじゃんけんをして、勝つと一本無料と書いてある。
「颯君、これはやるしか」
眉間に力が入り、目をキリっとさせながら笑う翠さんはやる気満々のようだ。
「すみません、二本お願いします」
「はいよ、じゃあじゃんけん2回ね」
僕らは二人で500円を払い、おばさんとじゃんけんをすることとした。
翠さんは手をグーに握り締め、最高潮のやる気に到達し、じゃんけんポンの掛け声と共に前に勢いよく出したパーは、おばさんのチョキにあっけなく完敗した。
呆然として自分の手の平を見つめる翠さんに、僕はぷっと吹き出して笑ってしまった。
「負けた……次、颯君の番だよ!」
僕はあまりこの勝負に興味がなく、なんとなく手に力を入れなくても出せるパーを前に出した。
「……どうして……。私の時はチョキだったのに……」
僕は青色と普通のチョコバナナを両手に持って、落ち込む翠さんと次の屋台を探しに行った。
「……翠さん、どっちか食べる?」
キョトンとした顔を見せ、いいの? と声を出す。
「うん、そこまでして食べたかったわけでもないから、翠さんに食べてほしい」
一気に笑顔が溢れる翠さんは、青色のチョコバナナを喜んで受け取る。
「ありがとう! 青色のやつなんだかんだ食べたことなかったの!」
僕らは再び道の端によって、チョコバナナを食べた。
僕も翠さんも一本ずつ食べ終え、翠さんが残りの一本を食べ始めると同時に僕らは歩き始めた。
半分ほど食べ終えると、僕の顔の前に食べかけのチョコバナナを差し出された。
「……何?」
「じゃんけんに勝ったのは颯君だから、半分だけもらうね。それに食べ過ぎても太っちゃう」
屋台の光が翠さんの顔を半分だけ照らしている。暑さを感じさせない笑顔をしていることは確かに分かった。
受け取りを断ると、僕の手を掴んで半ば無理やりチョコバナナを手に取らせた。
少しだけ意識しつつも、僕は残りの半分を口にした。割り箸を持つ手に無駄に力を入れていた。
「時間も微妙だし、何か座って食べられそうなものを買って戻ろうか」
「そうだね、人も多いし、戻るのにも時間かかりそうだもんね」
僕らはたこ焼きとりんご飴、そしてかき氷を食べながら荷物の場所へと戻った。
たこ焼きとりんご飴を買った時に袋を貰えてよかった。
腕に通した袋をぶら下げ、僕らは荷物の場所へと足を運ぶ。
レモンのシロップの掛けられた、かき氷をニコニコと食べる翠さんの横で、僕は定番のいちごのかき氷を口の中で溶かす。
稀に翠さんが頭を痛そうに抑える。
とても夏が似合う人だ。この人の為に夏があるのかと疑うほどだった。
荷物の場所に戻るころ、丁度かき氷も食べ終え、たこ焼きを袋から取り出して、その袋にごみを入れた。
時間を確認すると、あと10分で花火が打ち上がる時刻だ。
「荷物取られてなくて良かった。たこ焼き食べる?」
「うん、冷めちゃう前に食べよ。なんだか熱いもの食べたり冷たいもの食べたりで口の中大変だね」
翠さんの一言に、確かにねと頬が緩んだ。
パックの輪ゴムを外し、モワッとたこ焼きの香りが僕らを襲う。
たこ焼きの上を鰹節が熱を材料にダンスする。
二本刺さる竹串を一本ずつ使い、僕は大きなたこ焼きを一口で頬張ると、中からも熱が溢れかえり、焦ってしまいアフアフと声を漏らした。
翠さんはお腹を抱えて僕を笑う。
急いで飲み込むと、ふと左手に持つたこ焼きのパックが僕の手の平をじわじわと焼いていることに気が付き、あっつ! と声を出して慌ててそっとパックを置いた。
笑いの止まらない翠さんはたこ焼きを口に運べそうにない。
「めっちゃ熱い……」
水を一口飲み、一息つくと翠さんが目尻に涙を浮かべてお腹を押さえている。
「あーおかしかった。アフアフなんて言っちゃって」
僕は恥ずかしさから顔に熱がこもるのがわかった。
「翠さんも一口食べてよ! すんごい熱いから!」
何の疑いもなくたこ焼きをかじると、おいしいと一言だけ言った。
「……熱くないの?」
「颯君、猫舌なんだね。多分世間的にあんまり熱くない方だと思うよ」
確かに僕は猫舌だが、これは誰が食べても熱いものだと思った。
少し悔しい気持ちもあり、もう一つ口の中に放り込むと、またもアフアフと声が漏れてしまった。
再び笑い転げそうになる翠さんを見ると、自然と僕も頬が緩んだ。
パックをもう一度左手で持ち、順調に二人でたこ焼きを半分まで食べ終えると、熱も徐々に冷めてきた。
残り数も二つとなった時、アナウンスが流れた。
「これより、今年度、夏の……」
「あ! もう始まるよ颯君!」
アナウンスの音が大きく、僕の耳元で翠さんが声を張る。
僕は口に含んだたこ焼きを飲み込んで翠さんの耳に近寄った。
「たこ焼き食べちゃお!」
翠さんは口元に手を添えて肩を震わせる。きっと何かおかしかったのだろう。
僕らがたこ焼きを飲み込むと花火大会の始まりを知らせる尺玉が鳴り響く。
辺りがざわつく中、バンバンと大きな音が耳に入り込む。
まだ空に明るさが残る。完全には暗いと言い切れない。
もういつ始まってもおかしくない、そんな時、誰かが僕らに声をかけた。
「すみません、この辺りにもうスペースがなくて……良かったらでいいんですが、少しだけ場所を分けていただけませんか?」
大学生くらいだろうか、甚平を着た男性が浴衣を着た女性の手を握り、腰を低くして真剣な眼差しをしていた。
もうすぐ花火が上がるという中で、きっと座る場所が無くて焦っているのだろうと言われなくても伝わった。
翠さんと目を合わせると、言葉もなしに同じことを考えているのだろうとわかった。
もちろん大丈夫ですと一言いい、僕らは立ち上がった。
荷物をまとめ、半分に畳んだレジャーシートをさらに小さく畳んだ。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
何度も頭を下げる男性と女性に、僕と翠さんは顔を合わせて微笑んだ。
「大丈夫ですよ、皆にとって良い思い出になる方が絶対いいですもん」
翠さんの一言に男性は僕に向けて、素敵な彼女さんですね、そう言った。
彼女……ではないんだよな、そう思い翠さんに目を向けると、耳を真っ赤にしている。
場所の準備も一区切りつき、先ほどよりも狭くなったスペースに僕と翠さんは腰を下ろした。
「良いことしたね」
そうだねと僕は答えたが、明らかにさっきよりも狭くなった場に、少し困惑していた。
僕らの距離は、落ち着いた環境の中で今までで一番近かった。
僕は足を伸ばし、その間に肩を巻いて手を足の間に入れた。手を横に置いてしまっては、翠さんに触れてしまうからだ。
翠さんは僕の考えなどお構いなしに手をついてくつろぐ。
「そうだ、りんご飴食べよっか」
翠さんに言われ、僕はポケットに突っ込んでいたりんご飴を取り出す。
アナウンスが終わり、大きなスピーカーから音楽が流れ始めた。
僕らはりんご飴を包む封を開け、コツンと飴をぶつけ合って乾杯した。飲み物じゃないのにね、と僕らは笑い合う。
その直後だった。
ピュ~、と大きな音と共に空に火玉が現れ、一瞬だけ消えた。この一瞬が、とても長く感じた。
ドォンと大きな音を広範囲に響き渡らせながら、紅色をした火花が僕らの瞳に大きく花を咲かせた。
一瞬で咲き誇り、一瞬で枯れ消えた。
辺りの人たちの歓声が聞こえる。
僕らの心は空に奪われたままだ。
うるさいくらいの音楽と、暑さが夏の匂いを引き寄せた。
次々と宵の空に花が咲いては枯れてゆく。
僕は考えもなしにその美しく、哀れで、儚い姿に魅了された。心を引き込まれた。僕の姿、心境、人生などお構いなしに花火は次々と打ち上がる。
片手に持つりんご飴の存在を忘れたころ、僕のりんご飴が傾いた。
見ると翠さんのりんご飴がくっつけられていた。
「溶けちゃうよ?」
花火の音が体に響いた。
横を振り向くと花火の光に照らされる翠さんの顔が僕の瞳に映りこむ。
僕の中で時間が止まった。
この一瞬の中で、花火は何度も何度も咲き続ける。
翠さんの口角に、溶けた飴が赤く染み付いている。
溶けた飴が一滴、僕の腕を優しく刺激した。はっと我に戻り、溶け始めた飴を慌てて舐めた。
飴を舐めていると、はい、とウェットティッシュを差し出された。
ありがとうと言って僕は腕に染み付いた飴を拭き取った。花火の音でお互いに声が聞き取りづらい。
パキッと音を立てて飴を齧ると、とても大きく咲いた花が鳴った。
鼓動が高まっているのがわかった。僕の意識は、どこに向いているのだろうか。
こんなにも夏らしい花を見上げ、甘いものを口にしているのに、僕はどちらにも気が向いていなかった。
柔らかな風と優しさのあるシャンプーの香りが僕の鼻を滑る。
風上に誘われるように目を向けると、横髪を耳にかける翠さんがりんご飴を齧る。
僕の視線に気づいた翠さんが一言笑みを浮かべて言い放つ。
「綺麗だね」
この瞬間が、僕の人生の中で最も美しいと感じた瞬間だった。そしてこの時間は、これ以上にないくらい胸を締めつけた。
それでも花火は儚く、色をつけて咲き続けた。
1時間弱ほどで花火大会終了のアナウンスが流れ、周辺の人たちが一斉に帰る準備をし、立ち上がる。
僕らの横にいた大学生らしきカップルも再び、ありがとうございました、と言い残して去っていった。
「僕らも行こうか」
「うん、りんご飴買いに行っていい? 自分へのお土産として」
「いいよ。僕もお土産で買いたいし」
売り切れる前に急いで行こう、とレジャーシートを折り畳んで、道から溢れかえりそうな人混みへ僕らは合流した。
屋台まで辿り着くのに、花火が打ち上がる前より2倍ほど時間がかかった。
ようやく辿り着いたが、まだりんご飴は数を減らしていなかった。
「よかった……まだたくさんあったね」
一息ついて、翠さんは小さいのを1つ、僕は小さいのを3つと大きいのを1つ買った。
「そんなに食べるの?」
「ううん、家族に」
そう言うと翠さんは頷いて納得した。
翠さんはかごバッグに、僕はビニール袋を貰って手に下げて持ち帰る。
帰り道、歩道が人で埋まっている。
「最寄駅のホーム小さかったし、一駅先まで歩かない?」
僕が訊くと、しぶしぶ了承してくれた。何か困ることでもあるのだろうかと気になったが、訊くほどのことでもないと思った。
歩き始めて間もなく、翠さんの歩くペースが段々と落ちているのがわかった。
歩道の端、シャッターの閉まる知らない店の前で僕らは足を止めた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
明らかに何かを隠すような翠さんの足に目が向いた。
昔、美月が下駄を履いて靴擦れを起こしていたのを思い出したのだ。
翠さんの右足の甲が赤く大きな擦り傷ができている。
「踏まれたの?」
何も言わずに頷く翠さんの腕を引き、大通りから外れて人気の少ない道へ入った。
僕は自販機で水を買い、翠さんの前で跪いた。
「はい、肩に手を乗せて」
「え?」
「いいから、ほら」
僕の肩に翠さんを掴まらせ、跪いた膝の上に翠さんの右足を乗せた。
「ちょっと染みるかもしれないけど、ごめんね」
僕は冷えた水を翠さんの足にかけ、汚れと滲み出た血を洗い流した。
「僕の妹も昔怪我とかよくしてて、いつも僕が応急処置をしてたんだ」
バッグからタオルを出して、水を拭き取った。
「そそっかしくて、今でも自転車で転んで帰ってきたりするんだよ」
愛花の話をしつつ、財布の中に常備している絆創膏をペタペタと貼った。
「よし! これでとりあえずはいいかな! 見て、左膝だけびしょびしょ」
笑いながら足を見せ、顔を上げるとポロポロと翠さんが涙を零している。
「ごめん! 痛かった!?」
あたふたと謝ると、翠さんは首を大きく横に振る。
一呼吸置いて、ありがとう、とそれだけ言って、また黙る。
きっと痛い中ずっと歩いてくれていたのだろう、その気持ちが溢れたのだと僕は認識した。
「帰ろう」
一言だけ伝え、再びしゃがんで僕は背中を見せた。
「なぁに?」
震える声で僕に問う。
「歩けないでしょ……こっちの方が翠さん楽だろうし」
鼻を啜りつつ僕の背中に重心を預ける。
「大丈夫? 何も落としてない?」
うん、その一言を聞いて僕は歩き出した。
鼓動が強くなっていくのは、翠さんを背負っているせいか、夏の季節のせいなのかと、僕は自分を誤魔化した。誤魔化したかった。
翠さんは、ありがとうと言い、それ以上は何も言わなかった。
人気の少ない道を歩き、交差点に差し掛かるところで僕は振り向きもせずに今日の話を始めた。
どんな花火が印象的だったのか、屋台で食べ逃したものは何か、過去のお祭りの思い出は何か、二人で話し続けた。
背中に熱がこもってきた。
「疲れてない?」
「うん…………大丈夫」
ボソッと囁くように答える。
曲がり角を左折すると、駅の看板が現れた。
駅前の歩道で翠さんを下ろし、ゆっくりと足に気を遣いながら改札へ向かった。
「荷物は持つから、ゆっくり歩こう」
歩きにくそうな翠さんに腕を貸し、時間をかけてホームに入った。隣駅でもやはり人が多い。
既にほぼ満員の電車に、待っていた人が押し込んで無理やり入る。
「もう少し空くまで待とうか」
僕らはホームのベンチに腰掛け、次の電車を待った。
結局次の電車でも人が多く、3本目の電車に乗ることとなってしまった。
一人で歩けないということで、僕は翠さんの最寄駅まで来ていた。
「ごめんね、わざわざここまで」
「ううん、大丈夫だよ。いつもお世話になってるし」
駅前から抜け、人通りが減ると虫が鳴き声で数の多さを知らせた。
それなりに人も多く利用する駅で、すぐ近くにはこんなにも自然が住んでいるのは改めて珍しいと感じた。
時間をかけてアパートへ辿り着いた。僕もそろそろ帰らなければならない時間だ。
「じゃあまたね、今日は楽しかった。ありがとう」
うん、と一言返された。何か言いたげだったが、何も問わなかった。
僕は空いてる方の手を振って、電車ではなくカフェの場所から帰ろうとアパート前の緩やかな坂を上り始めた。
歩き出して10歩も行かないうちに、カッカッカッカッと木を叩くような音が僕に近づき、驚いて振り向いた。
僕の袖を摘んで俯く翠さんだった。痛めた足を我慢して勢いよく走ってきたようだ。
放心状態でいると、先に言葉を使ったのは翠さんだった。
「今日は……本当にありがとう……楽しかった……」
俯く顔が前髪で見えなかった。
翠さんを稀に不思議な人と感じることもあった。まさに今がその時だった。
「僕も楽しかったよ。次はどこに行くか、また考えようね」
コクッと頷くだけで、それ以上の言葉はなかった。
そしてそのまま小走りでアパート前の角を曲がって行ってしまった。
「どうしたんだろう……」
歩き出そうとした直前、スマホがピコンと鳴った。
【帰り気をつけてね!!!!!】
直接言えば良いのにと思いつつ、僕はありがとうと返し、雨が降り滴るカフェの前を突き抜けて帰宅した。
リンゴ飴を渡された家族は喜んでいたが、僕は翠さんの心境と足の怪我だけが心配だ。
僕はリンゴ飴が溶けないよう冷蔵庫に入れ、そっと扉を閉めた。
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