第十話 8月17日

8月17日




 昼過ぎ。軽く汗を流しながら僕は神社への階段を上っていた。


 木陰が僕を包み込むように日差しから守ってくれている。


 鳥居の前で一礼し、いつもの場所から中へ入る。驚くほどに雨が降り注いでいる。豪雨だった。


「これは……無理だな……」


 時間も時間だ。こちらでは昼だが、向こうでは夜中だ。店が開いているわけもなく、僕は神社の賽銭箱の横に座り、一休みするとした。


【やっぱりザーザー降りだよ。】


 僕がメッセージを送ると、5分後くらいに返事が来た。


【もう着いたの! こっちはもう少しで着く!】


【じゃあ翠さんの家の方に向かっても大丈夫?】




 親指を器用に動かし、文字を送った。


【うん! いいよー! ありがとう!!】


 送られた文字を見て僕は勢いよく立ち上がった。


 ショルダーバッグから折りたたみ傘を取り出し、雨が降り続く世界を駆け抜ける。


 翠さんの街に着くと、こちらも変わらず猛烈な暑さだ。


 靴の中に入り込んだ雨水が気持ち悪い。


 橋の下にある池が日光を反射させてうまく目を開けさせてくれなかった。


 僕は折り畳み傘を畳んだ後、橋の横にある階段をゆっくりと脚を持ち上げて上った。


 そこまで段数のない階段は、暑さのせいで疲れを増させた。


 あと半分、というところで、誰かが僕の名前を呼んだ。




 顔を上げると、真っ白なワンピースを着た翠さんが立っている。


 まるでウェディングドレスを着た花嫁のように綺麗だ。


 日差しが僕の顔を赤く染め上げる。


 僕は暑いと感じていたはずなのに、一瞬だけどこからか涼しさが体を通した。


 階段を軽快に降りてきた翠さんは汗を感じさせない笑顔を見せる。


「ごめんね、遅くなっちゃった」


 両手を後ろで組んで、すっかり夏モードの翠さんはどこか新鮮な雰囲気だ、


「……顔真っ赤だね、もう焼けた?」


「や、焼けたかも!」


 顔を近づけ、覗き込むように顔を近づける翠さんに反射的に顔を背けてしまった。


「日焼け止めいる?」




 肩から下がる鞄からゴソゴソと手を突っ込んでいるのを見て、大丈夫と僕は断った。


「そう、じゃあ行こっか」


 僕らは以前と同じようにバスで駅へ向かった。


 バスが走る道の脇には、木陰の隙間からアスファルトに差し込む光が過ぎ去っていく。


 ロータリーに到着したバスから降り、今日はどうするの? と僕が訊ねると、今日はお買い物ツアーです、と答えた。


 今にもスキップでも始めるのではないかと思うほど、翠さんがワクワクしているのが伝わってきた。


 バスのロータリーから少し歩いて、僕らはアウトレットに到着した。


「始めてきたけど、広いんだね」


 店が沢山あるのに、ショッピングモールとは少し違っていて、新鮮だった。


 平日にもかかわらず、人が多い。学生もちらほらいる。


「そっか、アウトレット初めてなんだ。私は家からそこまで遠くもないから、たまにここに来るの」


「アウトレットは安いって聞くし、なんでも揃いそうだもんね」


「うーん、安いかどうかは何とも言えないかな。まあそんなことは置いといて、本日は8月も残り半分ということで、お買い物ツアーとなりました!」




 パチパチと一人で拍手する翠さんは、一日中このテンションなのだろうか。


「けど、僕あんまりお金なくて……」


 嬉しそうな翠さんには申し訳ないけれど、僕の財布の中身は乏しい。


「え? 私もだよ?」


 迷いなく言葉を返す翠さんに僕はキョトンとしてしまった。


「まあ、少しは買い物するけど、後は見て回るって感じかな。つまり、『お金持ちになった時にこれを買えたらいいねお買い物ツアー』です!」


 眉尻をキリっと上げ、堂々と買わない宣言をする翠さんに僕は吹き出した。


「いや買わないんかい!」


 思わず関西風に突っ込んでしまい、僕らはあははと笑いが溢れる。


 その後、僕らは多くの店を回った。その多くは洋服店で、こんな服が似合う、この組み合わせはどうだろうかと、買わないなりにそれなりに楽しむことができた。


「大人になって、たくさん買い物ができるようになって、そしたら翠さんとまた買い物に来られたらいいなぁ」


 4店目あたりで僕がボソッと呟くと、翠さんはそうだねとだけ言い、僕の言葉を流すような反応を見せた。


 少しだけ空気が変わったのが自分でもわかった。




「……あ、あの服なんて翠さんに似合いそうだよ!」


 咄嗟に目に入った服を指さして話を変え、何とかその場を凌いだ。


 考えてから発言しよう、そう思った。


 店を出て、僕らは外の椅子で休憩することとした。


 日陰でも暑さが残り、店の方が涼しいねとたわいもない話が盛り上がる。


「今日のこの後はどうするの?」


 アウトレットの後はどうするのか気になった僕は訊ねた。


「え、うーん、考えてなかった」


 ノープランということを知って僕らはまた笑った。


 今日は翠さんに誘われてきたため、この後のプランは考えてあるものだと思っていた。




「じゃあ、また映画でも観る?」


 僕がそう言うと翠さんは顎に人差し指を乗せ、空を見上げて考え込む。


「そうだ、お散歩しようよ」


 細長い人差し指をピンと立てて翠さんは提案した。


 確かにお金も使いたくないし、僕も賛成だ。


 すると翠さんのお腹がグーっと音を鳴らし、顔を真っ赤にして下向く翠さんに僕はクスクスと笑った。


「笑わないで!」


 勢いよく赤くした顔を僕に向けられたので、僕はあははと大きく笑ってしまった。


 早いけどご飯食べようか、そう言うと翠さんは黙って目を逸らし、頷いた。


 スマホで近くの飲食店を探そうと、カバンに手を突っ込むと翠さんが一つ提案する。


「大手イタリアンレストラン、S社行っちゃう?」


 僕がポカンとしていると、翠さんはふふっと笑い、口開いてるよ、と僕を見て言う。ゆっくりと口を閉じると、再びふふっと笑われた。


 表現の仕方から、なんだかすごく高そうなお店だと感じた。


「だから僕そんなに持ち合わせが……」


「大丈夫! きっと高校生ならみんな行ったことがあるから!」


 僕は半信半疑なまま、翠さんの道案内に従った。


 アウトレットを出て、10分弱歩いた僕たちは金属のパイプで造られたようなデザインの建物に着いた。中へ入り、ここだよ、と翠さんは店に指をさす。




「サイゼかい!」


 思わず笑いが込み上げた。


「そうだよ。大手イタリアンレストランのS社」


 ニコニコとする翠さんに、やられた、と思った。


「独特な表現の仕方だね」


「高校生に優しいお店でしょ?」


「間違いないね」


 僕らは店に入り、入り口から遠めの席へ案内された。少し早い時間だからそこまで混雑していない。


 ソファ側に翠さんが座ると同時に、決まった? と問われ、思わず吹き出す。


「いや早すぎでしょ、ちょっと待って」


「私も決まってない」


 翠さんの冗談に、またも僕は笑顔を見せた。


 翠さんといると、自然と笑顔になってしまい、一緒にいるとどこか懐かしく、自分を肯定されているような気がしていた。


「決まった!」


 考え事をしている間に、翠さんはパスタのメニューを開いていた。


「じゃあ僕もいつものにしようかな」


「いつものって?」


 首を傾げて翠さんが僕に訊ねる。




「辛味ソーセージと、ベーコンとほうれん草のグラタン」


 そのグラタンおいしいよね、と呼び出しボタンを押しながら話し、僕らは注文をした。


「ここの間違い探し、絶対子供向けじゃないよね」


 メニュー立てからお子様メニューを引っ張り出し、表紙の間違い探しを始めた翠さんに僕も共感した。


「わかる。毎回8か所か9か所で終わっちゃう」


 僕らはメニューが来るまでずっと間違い探しのメニューとにらめっこを続けた。


「今8か所……」


「…………あ! この船の煙のところ!」


「……ほんとだ! 赤線がない! あと一つだよ翠さん!」


 残り一つというところで、僕が注文した辛味ソーセージが運ばれてきた。


「先に食べててもいいよ」


「ううん、まだ見つかってないから」


 ふふっと翠さんは笑い、僕らは残り一つを探すことに集中した。


「…………ん?」


 僕の反応に翠さんが僕に目を向ける。




「……これ、3つあるうちの右側の吊るされているお肉、なんか大きさ違くない?」


「…………え、ほんとだ! すごい! よくわかったね!」


「やった、全部見つけた! 初めてだよ!」


 僕らが喜んでいると、丁度料理が届いた。喜んでいる姿を店員さんに見られ、恥ずかしさから二人で俯いた。


「翠さん、パスタ好きだね、というか僕らまたイタリアンだね」


「そう、女の子らしいでしょ? 他のものが良かった?」


 申し訳なさそうな表情に、反射的に両手を振って否定した。


「なんか翠さんらしい。パスタの似合う女の子って感じで」


「それ褒めてる?」


 僕らはまたも一緒に笑った。


 食事も済み、店がざわつき始めたころ、僕らは店を出た。


「本当にいいの?」


 店を出てまだ財布を握っている翠さんが困った顔をしている。


「全然気にしないで。翠さんのお会計たったの300円だし」


「……ありがとう。今度は私が何かごちそうするね」




 翠さんは手にしていた財布をしまい、僕らは建物から外へ出た。


 すっかり話し込んでしまい、外はもう暗いだろうと思っていたが、意外にもまだ明るさが残っている。


 空を見上げ、この景色、以前に見たことがあると既視感があった。


「マジックアワーだ!」


 目をキラキラと輝かせて翠さんが言う。


 そうか、この前マスターからもらったメロンソーダだ。


 こんなにも綺麗で、1秒1秒が切なく、終わりを告げる美しさを物語っている景色に、見惚れてしまった。


 翠さんと出会って、何かに見惚れることが増えた気がした。


 綺麗だね、そう呟く翠さんに、僕はそうだね、とだけ言った。


 行こっか、そう言い歩き出す翠さんに、後からついていくように僕も歩き出した。


 翠さんの家の前を通り、僕らは緩やかな上り坂を進む。


「本当にこの辺りいいよね。緑が多くて」


「そうなの。だから人が多いけど、そんなに空気が汚いとかも思ったことないし」


「僕もこの辺が良かったなー」


「この辺が良かったって?」


「昔、僕が小学校に上がって間もない時に、僕も実は引っ越したんだよ」




 翠さんは何も言わずに僕に顔を向ける。どこか驚いていたような表情を作っている。


「けれど、幼稚園の時の記憶がほとんどなくて……」


「え!?」


 大きく声を出して、びっくりする翠さんに僕もびっくりした。


「僕もその時の事はあまり覚えていないんだけど、どうやら児童センターの、遊具から落っこちたらしくて、救急車で運ばれたらしい」


「……大丈夫なの?」


 心配そうに、声が落ち着いている。


「うん、今は全然問題ないんだけどね、当時は脳に多少のダメージがあったらしいんだ。だから前に住んでいた場所とか、なんとなくしか友達も思い出せなくて」




「…………そうなんだ。大変だったんだね」


 妙に開いた間に、僕は顔を翠さんに向けると、お互いがはっきりと見えなくなっていることに気づいた。


 歩いてきた道を振り返ると、濃い青色と、紫色が混ざり合った空模様が僕たちを覆っていた。


「見て、翠さん、空がすごいよ」


「……ブルーアワーだ」


 ボソッと呟く翠さんに目を戻すと、翠さんは唇に隙間を作って空を見上げている。


「口、開いてるよ」


 僕が指摘すると、口を開けたままの翠さんと目が合った。


 数十分前には目を合わせて話していたのに、なんだか久しぶりに目が合ったような、寂しさを含む懐かしさのようなものが僕を襲った。


 僕がぷっと吹き出すと、翠さんも同じように吹き出し、二人で笑う。


「前にね、颯君と知り合う前、マスターからもらったぶどうジュースの名前に、ブルーアワーって言葉が入っていたの。これのことかぁって思って」


「そうなんだ。僕も飲みたかったな。そういえば、翠さんはいつからマスターのところに行くようになったの?」




 えっとー、と考え始める翠さんの横顔が、街灯の光がないと確認できなくなってきた。


「確か2年前の春頃だったと思う」


「あ、じゃあ結構前なんだね」


「そう、この辺りに来てから、中学校の頃の友達もいないし、完全に浮いてたの。そこで突然、もう全部が嫌になっちゃって、学校を休んで散歩してたら……」


「あの場所を見つけたのか」


 コクンと頷く翠さんは、どこか遠くを見つめている。


 しばらく歩くと、車も少なくなってきて、人通りも減ってきた。


「あ、もしかして戻ってきた?」


 どこか見覚えのある雰囲気だなと感じた。


「そうだよ、もうすぐであの池のところ」


 随分と歩いた。20分以上は歩いただろう。


 コンビニに寄った翠さんを外で待っていると、何かを持って店から出てきた。


「はい、半分こして食べよ」


 買ってきたアイスを片手に、橋の下のベンチに腰かける。




 太陽はすっかり姿を消していた。


 ベンチの上、僕らの間に空いた隙間に、少し気が取られた。


 2個セット、コーヒー味のアイスをパキッと音を立てて分け、僕に分けてくれた。


「さっきのお礼ね」


「ありがとう」


 とても静かで、水の流れる音が耳を擽る。


「このアイス、蓋? っていうのかな、開けた側に入るアイスも食べちゃわない?」


 翠さんは僅かにアイスが入り込んだ蓋を口にしながら喋る。


「わかる、絶対残さず食べちゃう」


 僕も同じように蓋の方を口にしていた。


 少し貧乏くさい自分たちに笑みが零れる。


 雲が僕らの頭上を渡っていて、星が隠れていた。


「翠さんの笑顔ってさ、なんか特別だよね」


 ぷっと吹き出し、どうしたの急に、と僕に振り向く。




「いや変な意味じゃないんだけどさ、翠さんの笑顔は、なんていうか、どんな季節にも似合う笑顔をしてる」


「よくわからないけど、ありがとう」


 微笑する翠さんに、僕もよくわからなくなってきた、と伝えるとまた笑顔になった。そういったところだ。その笑みで描かれたこの時間が僕は心地よかった。


 雲を透かして覗く月光が僕らを眺める。


「食べたら帰ろっか」


 アイスも残り半分、僕は頷いた。




 体温が下がり、夏草を揺らす風が気持ち良い。


 アイスが残り少しといったところで、翠さんは勢いよく立ち上がり、雲の切れ端を眺める。


「どんな季節にも似合う笑顔、って言ってくれたよね?」


 僕に背中を見せたまま話し出す。


「うん、言ったけど?」


「たぶん、こんなに笑えるのは、颯君がいるからだよ?」


 振り向いた翠さんのずっと遠くに、隠れていた満月が顔を表した。


 熱のこもった顔を逸らし、食べ終わったから行こう、と言って話を変えた。こんなもに暑く、心地よいのに、どこか心細い夏は初めてだった。

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